第二十七章 二人の店
回 想
すん吉と初めて言葉を交わしたのは、雨上がりの道だった。
美由紀は買い物を済ませ、濡れた石を避けながら歩いていた。片腕に掛けた籠には大根と里芋が入り、もう一方の手には小さな包みが二つあった。
軒から落ちた雫を避けようとしたとき、籠の持ち手が大きく傾いた。
底を留めていた紐が一本、ほどけかけている。
美由紀が膝を曲げるより先に、横から伸びた手が籠の底を支えた。
「そのまま持っとってください」
低い声だった。
男は籠を地面へ下ろし、切れかけた紐を指で確かめた。美由紀が礼を言う間に、自分の懐から短い紐を出し、ほどけたところへ通して結び始める。
「そこまでしていただかなくても」
「このまま持ったら、また落ちます」
男は顔を上げなかった。結び目を一度引き、それでも足りないと思ったのか、もう一度巻き直した。
「これで、しばらくは大丈夫です」
「ありがとうございます」
美由紀が籠へ手を伸ばすと、男は先に持ち上げた。
「どちらまでですか」
「近くです。もう持てます」
「近くなら、持っていきます」
「でも」
「このままでは、角までもたんでしょう」
愛想のある言い方ではなかった。けれど、断らせないための強さとも違った。男は籠が傾かないよう両手で抱え、ただ美由紀が歩き出すのを待っている。
美由紀は道の先を示した。
「では、あの角までお願いします」
男はうなずいた。
歩いている間、男はほとんど話さなかった。美由紀が重くないかと尋ねると、「大丈夫です」と答えた。それきり、籠の紐を気にしながら足を運んだ。
角へ着き、美由紀が籠を受け取ってから、ようやく名前を聞いた。
「すん吉です」
男はそれだけ言い、少し遅れて頭を下げた。
「私は美由紀です。本当に助かりました」
「いえ」
すん吉は返事をして、来た道を戻っていった。
美由紀の手元には、固く結ばれた新しい紐だけが残った。
* * *
美由紀が店先で野菜を選んでいると、人の向こうにすん吉が立っていた。向こうも気づいたらしく、一度だけ頭を下げる。
美由紀も頭を下げ、それで終わると思った。
ところが、買った物を籠へ移し始めると、すん吉がそばへ来た。
「紐は、まだ切れとらんですか」
最初の言葉がそれだった。
美由紀は籠の底を見せた。
「おかげさまで。よく持っています」
すん吉は結び目を確かめ、満足したようにうなずいた。
「なら、よかったです」
「今日は持っていただかなくても大丈夫ですよ」
「まだ、何も言っとらんです」
「籠ばかり見ておられたから」
すん吉は返す言葉を探したようだった。口を開きかけ、そのまま閉じる。
美由紀が笑うと、すん吉は困った顔で籠から目を逸らした。
その日は本当に荷を持たず、美由紀が買い物を終えると、「では」と言って別れた。
それから、町で顔を合わせることが増えた。
約束をしていたわけではない。美由紀が買い物へ出た帰りに見かけることもあれば、用を済ませて家へ戻る途中、向こうから歩いてくることもあった。
会えば、すん吉は美由紀の持っている物へ目をやった。重そうなら黙って片方を持ち、軽ければ隣を歩いた。
「毎回、荷物を持たなくてもいいんですよ」
ある日、美由紀が言うと、すん吉は手にしていた包みを見た。
「重いでしょう」
「少しくらいなら持てます」
「持てるのと、二人で持つのは別です」
それだけ言って、すん吉は歩き続けた。
美由紀は、その横顔をしばらく見てから、歩幅を合わせた。
すん吉は自分の話をあまりしなかった。美由紀が尋ねれば答えるが、答えはたいてい短かった。その代わり、前に聞いたことは覚えていた。
美由紀が買おうとしていた物。母に頼まれていた用事。次に町へ出る日。風邪を引いた父が、もう起きてよいと言い張っていること。
後日会うと、すん吉はその一つ一つを、唐突に尋ねた。
「お父さんの具合は、もうよかとですか」
「もう大丈夫です。でも、寝ていてと言っても聞きません」
「そうですか」
話はそれで終わる。それでも、忘れずにいたことは分かった。
美由紀は、すん吉の短い言葉の前後にあるものを、少しずつ読めるようになった。
* * *
映画を一緒に観ようと言ったのは、美由紀の方だった。
見たかった映画の広告を見つけたが、一人で出かけるには少し遅い時刻だった。すん吉なら、面白くなかったときにも文句を聞いてくれるかもしれない。そう思って尋ねると、彼は目を瞬いた。
「映画は、お好きですか」
「あまり見たことはないです」
「では、嫌いかどうかも分かりませんね」
「そうなります」
「一度、一緒に行きませんか」
すん吉はすぐに答えなかった。
美由紀が誘い方を間違えたかと思い始めたころ、ようやく言った。
「いつですか」
当日、美由紀が待ち合わせの場所へ着くと、すん吉はもう来ていた。着物の肩と裾が少し濡れている。
「降ったんですか」
「向こうでは、少し」
「雨なら、遅れてもよかったのに」
「待たせるかもしれんでしょう」
美由紀の方がまだ着いていなかったとは、言わなかった。
映画が始まると、美由紀はすぐに画面へ引き込まれた。可笑しい場面では声を抑えきれず、肩を揺らして笑った。隣のすん吉は相変わらず黙っていたが、美由紀が笑うたびに口元がわずかに緩んだ。
終わったあと、美由紀は歩きながら、好きだった場面を順に話した。
「すん吉さんは、どうでした」
「どうと言われても、うまく言えんです」
「面白くなかったですか」
「いや」
すん吉はしばらく考えた。
「美由紀さんが笑っとったところは、分かりました」
「映画を見ていたんですよね」
「見とりました」
「私の方ばかり見ていたように聞こえます」
すん吉は言い返せず、耳を赤くした。
その顔があまりに正直で、美由紀は声を立てて笑った。すん吉も困ったように眉を下げ、最後には観念したように口元を緩めた。
別れる角まで来たとき、すん吉は立ち止まった。
「次は」
そこで言葉が途切れた。
「次は?」
「今度は、俺から誘ってもよかですか」
「はい」
美由紀が答えると、すん吉は深くうなずいた。
次の約束が何なのかは、二人とも言葉にしなかった。それでも、その日から、偶然会ったから一緒に歩くのではなくなった。
すん吉は会う日を決め、決めた時刻より早く来た。美由紀が行きたい場所を聞き、帰りには必ず送った。
美由紀が疲れている日は、理由を聞く前に荷物を持った。話したくないときには、無理に話させなかった。
代わりに、気の利いたことも言わなかった。
「今日は顔色が悪いですね」
「そういうときは、もう少し言い方があるでしょう」
「無理をせん方がいいです」
「最初から、そう言ってください」
すん吉は真面目にうなずいたが、次も似たような言い方をした。
美由紀は呆れながら、その不器用さに腹を立てきれなくなっていた。
互いに会う日を決めるようになって、しばらくした頃だった。
二人で最初に会った雨上がりの道を歩いていると、美由紀はふと思い出した。
「そういえば、あの頃は、ずいぶんよく会いましたね」
すん吉は返事をするまでに、いつもより長くかかった。
「あれは、全部が偶然だったわけではないです」
「どういうことですか」
「最初に会った日から、また会いたいと思っとりました」
美由紀は足を止めた。
「それで、私が通りそうな頃に、あの道へ来ていたんですか」
「……はい。用がない日は、用を作りました」
「どんな用です」
「あの道を通って帰る、とか」
美由紀は驚いたあと、堪えきれずに笑った。すん吉は、悪いことを打ち明けたような顔で立っていた。
「すん吉さん。それは、一目惚れではありませんか」
「たぶん」
「たぶん?」
すん吉は耳まで赤くしながら、美由紀から目を逸らさなかった。
「……そうです。一目惚れでした」
美由紀の笑いは、からかうものから、胸の奥が温かくなる笑みに変わった。
「でしたら、これからは用を作らなくても、会いたいと言ってください。私も、会いたいときがありますから」
すん吉は目を見開いた。それから、いつもの不器用さが消えるほど嬉しそうに笑った。
「はい」
歩き出すと、二人の袖は何度も触れた。今度は、どちらも離れなかった。
* * *
それからも二人は会う日を重ねた。別れ際には次に会う日を決め、互いの家のことや、その日にあったことを少しずつ話した。並んで歩く時間は、いつしか二人にとって当たり前になっていた。
一緒になってほしいと言われた日も、すん吉は長いこと黙っていた。
二人で歩いた帰り、美由紀の家へ続く角の手前で、急に足を止めた。
「美由紀さん」
「はい」
「話があります」
そう言ったきり、次が出てこない。
美由紀は待った。
通りを人が二人過ぎ、遠くで戸を閉める音がした。それでも、すん吉は黙っている。
「明日にしますか」
「いや、今日言います」
すん吉は両手を身体の脇で握り、ようやく美由紀を見た。
「俺と、一緒になってくれんでしょうか」
飾った言葉はなかった。
けれど美由紀には、約束より早く待っていた姿や、黙って荷物を持った手が浮かんでいた。
「はい」
美由紀は、こぼれる笑みを隠さずに答えた。
答えを聞いた瞬間、すん吉の肩から目に見えて力が抜けた。口元がほどけ、隠しきれない喜びが顔いっぱいに広がった。
「……それだけでよかとですか」
「すん吉さんが聞いたんでしょう」
「そうですが」
「では、私の返事は、それでいいんです」
すん吉はまたうなずいた。
そして、美由紀の荷物へ手を伸ばした。
「それ、持ちます」
「いま、大事な話が終わったところですよ」
「分かっとります」
「本当に?」
「はい」
すん吉は包みを受け取った。いつもなら半歩前を歩くのに、その日は美由紀の隣を離れなかった。袖が触れるたび、二人は顔を見合わせ、そのたびに笑った。
父へ話をしに来たときも、すん吉の言葉は少なかった。
きちんと座り、厳しい顔で向かい合う父へ、自分が美由紀と一緒になりたいことだけを、つかえながらもはっきり伝えた。
父は、暮らしを共にする覚悟があるのかと尋ねた。
「あります」
すん吉は短く答えた。
母は何度も茶を足そうとし、そのたびに美由紀が止めた。父がまだ答えていないうちから、二人で使う物を何から揃えるか話し始めたからだった。
「まだ、その話は早いでしょう」
「でも、要る物は要るでしょう」
「お父さんの話が終わってからにしてください」
「分かってるわよ」
母はそう言いながら、すん吉へ、茶碗は二つあった方がよいと話した。
父が低く咳払いをすると、すん吉は背筋を伸ばした。
美由紀は、笑いそうになるのをこらえた。
やがて父は、言ったことを軽く変えるなと念を押し、二人を認めた。
すん吉はもう一度、「はい」と答えた。
その声は、最初に美由紀の籠を支えたときと同じように、低く、迷いがなかった。
二人が夫婦として暮らし始めた朝、すん吉は美由紀の荷を端から動かしていた。
頼まれてはいない。美由紀が使いやすいよう、よく使う物を手の届くところへ置こうとしているらしかった。
「勝手に決めないでください」
「重い物だけです」
「どこへ置くかは、私が決めます」
「なら、言ってください。そこへ運ぶ」
美由紀は呆れながら、置き場所を一つずつ示した。
最後の包みを運び終えると、すん吉は、荷札に書かれた『桑橋 美由紀』の字をしばらく見た。
「どうしました」
「いや。同じ名字になったと思って」
その声は照れくさそうだったが、いつもより少し弾んでいた。
「嬉しいんですか」
「ああ」
「私もです」
美由紀が笑うと、すん吉も照れたように笑った。荷札を持つ美由紀の指へ、すん吉の手が重なった。二人とも、すぐには離さなかった。
美由紀は荷札を外し、捨てずに畳んだ。
「すん吉さん」
「はい」
「これからも、何でも先に運ぶつもりですか」
「重ければ」
夫になっても、そこは変わらないらしかった。
美由紀は笑い、二人分の湯呑へ茶を注いだ。
* * *
結婚して間もなく、二人は一軒の空いた店先に立った。
古い卓と椅子が残り、土間の奥には竈を置ける場所があった。壁には煤が残り、戸を開けても中は薄暗かった。
すん吉は入口の柱を押し、傾きがないか確かめた。
「直せば使える」
美由紀は奥へ入り、水を使う場所から客席までを見た。卓をいくつ置けるか。盆を持ってすれ違えるか。火を使いながら、客の出入りが見えるか。
「椅子を増やしすぎると、運べなくなります」
「何をですか」
「料理です。お客さんを座らせるだけでは、店にはなりません」
すん吉は客席の真ん中へ立ち、両腕を少し広げた。
「このくらい、空けるか」
「もう少しです。私が盆を持って通りますから、そこに立っていてください」
美由紀は空の盆を借り、卓の間を歩いた。すん吉の肩を避けると、反対側の椅子へ盆の端が当たりそうになる。
「やはり、一つ減らしましょう」
「客が減る」
「料理をこぼすよりいいです」
すん吉は椅子を一つ持ち上げ、壁際へ移した。
「なら、ここは空ける」
その場で、二人は店の中を何度も歩いた。
米や鍋を置く場所、帳場の位置も、二人で確かめた。
すん吉が直せるところを見つけ、美由紀が店として使えるかを決めた。
食堂をしようと最初に口へ出したのがどちらだったか、美由紀は後になると思い出せなくなっていた。
美由紀は、仕入れを見ながら、その日に出す魚や煮物を決めたいと言った。
すん吉は、修繕と力仕事だけでなく、客席も洗い場も引き受けると言った。
言い合ううちに、店の形が決まっていった。
話がまとまり、二人がその店を使えることになった日から、朝も夕方も、そこへ通った。
美由紀は竈と鍋を洗い、棚の高さを決めた。すん吉は卓の脚を削り、がたつく椅子を一つずつ直した。二人で壁の煤を落とし、戸を拭き、使える器を数えた。
すん吉が作った看板の字は、一文字目だけが大きすぎた。
「これでは、『桑』だけで店がいっぱいに見えます」
「遠くからも見える方がよかでしょう」
「『橋食堂』も見えなければ困ります」
すん吉は看板と美由紀を見比べた。
「書き直す」
「下書きは私がします」
「字が下手だと言っとるんですか」
「大きさの話です」
「同じでしょう」
二人で書き直した看板には、今度は同じ大きさで『桑橋食堂』と並んだ。
店先へ立てかけると、すん吉は少し離れて眺めた。
「今度は、『桑』が小さすぎんか」
「もう書き直しませんよ」
「いや、最初よりはよか」
「最初と比べないでください」
美由紀は声を上げて笑った。すん吉はしばらく不服そうに看板を見ていたが、やがて自分でも可笑しくなったらしく、肩を揺らした。二人の笑い声が、まだ客のいない店へ初めて満ちた。
店を開けた最初の朝、美由紀はいつもより早く目を覚ました。
米は何度も量り直した。汁の味も、普段ならしないほど確かめた。煮付けた魚を崩さないよう皿へ移し、前の日から煮含めておいた大根とこんにゃくを小鉢へ分けた。
すん吉は、開店前から椅子を三度並べ直した。
「さっきと同じですよ」
「一つ、曲がっとった」
「誰も見ません」
「俺が見ました」
暖簾を掛けても、しばらく客は来なかった。
美由紀は鍋の蓋を取り、まだ温かいことを確かめた。すん吉は戸の方を見ないふりをしながら、何度も外の音へ顔を向ける。
最初の客が戸を開けたとき、二人とも同時に立ち上がった。
「飯はあるか」
「はい。すぐできます」
美由紀が答え、すん吉は空いた席へ手を向けた。
客が頼んだのは、飯と汁、魚の煮付けだった。
美由紀が膳を整え、すん吉が運んだ。戻ってきたすん吉が、小さな声で言った。
「出した」
「見ていました」
客が食べ終え、帳場へ置いた銭を、美由紀は一枚ずつ確かめた。
客が戸を出ると、二人は帳場の前で顔を見合わせた。
「お客さんでしたね」
「客だった」
「分かっています。でも、本当に来てくれました」
すん吉が笑い、美由紀も笑った。最初の売上の銭は一枚ずつ冷たかったが、二人の手の間では、しばらく特別なものに見えた。
その日の客は多くなかった。用意した飯も煮物も残った。
それでも、暖簾を下ろしたあと、二人は帳面の最初の行へ、その日の売上を書いた。
「明日は、飯を少し減らします」
美由紀が言うと、すん吉は残った鍋を見た。
「魚もか」
「魚は今日と同じでいいと思います。大根は、残った分を明日どう出すか考えます」
「分かった」
決めるのは美由紀一人ではなかった。すん吉が気づいたことを言い、美由紀が台所から見えたことを返した。意見が違えば、翌日の客を見て確かめた。
店は、一日ずつ二人の店になっていった。
* * *
店を始めてから、朝の茶を二人で飲むようになった。
開店の支度を済ませると、すん吉が椅子を一つ引いた。二人は並んで座り、まだ誰もいない店を眺めながら湯呑を持った。
「今日は、少し濃いですね」
すん吉が言った。
「昨日は薄いと言ったでしょう」
「薄いとは言っとらんです」
「顔に書いてありました」
「俺の顔は、そんなに字が多いですか」
「口よりは多いと思います」
すん吉はしばらく真面目な顔を保っていたが、やがて堪えきれずに笑った。
「いま、笑いましたね」
「茶がうまかっただけだ」
「では、明日もこの濃さにします」
「それは少し濃い」
美由紀はまた笑い、肩をすん吉の肩へ軽く預けた。客のいない短い時間だけ、二人は湯呑を持ったまま、その近さをほどかなかった。
外で荷車の音がすると、二人はほとんど同時に湯呑を置いた。美由紀が米を量り、すん吉が薪を運ぶ。一日の始まりは、それで十分だった。
休める日は、滅多になかった。
仕入れの都合と客足を見て、ある日、二人は店を休むことにした。
前の日までは、休んだら何をしようかと話していた。美由紀は映画を観てもよいと思っていたし、すん吉は緩んだ戸を直すと言っていた。
けれど、昼の飯を食べ終えると、二人とも動かなかった。
美由紀は新聞を持ち、窓際の長椅子へ座ったすん吉の隣へ腰を下ろした。店ではいつも二人の間を盆が通るのに、その日は袖が触れるほど近かった。
「戸を直すんじゃなかったんですか」
「明日でも逃げません」
「珍しいことを言いますね」
「美由紀も、映画へ行かんでしょう」
「今日は、ここでいいんです」
すん吉はうなずき、長椅子の背へ身体を預けた。
しばらくして新聞から目を上げると、すん吉は目を閉じていた。美由紀は新聞を畳み、起こさないように、そっとその肩へ頭を預けた。
外を通る人の声と、遠くの車輪の音が聞こえた。店を閉めたままの食堂には、火の音も、器の触れ合う音もない。
美由紀も、すん吉の肩へ寄りかかったまま眠っていた。
先に目を覚ましたすん吉は、そのまま肩を動かさずにいた。
「何もせんで終わりましたね」
すん吉の声で目を覚まし、美由紀は自分が彼の肩を枕にしていたことへ気づいた。
「肩、重かったでしょう」
「重かった」
「起こしてくれればよかったのに」
「よく寝とったから」
「すん吉さんも寝ていたでしょう」
「途中から起きとった」
「では、ずっと重かったんじゃないですか」
すん吉は答えず、しびれた肩をゆっくり回した。美由紀は申し訳ないと思いながらも笑ってしまい、すん吉もつられて笑った。
美由紀は身体を起こしたが、すん吉の腕へ自分の腕を触れさせたままにした。二人は夕方になるまで、新聞を読むことも戸を直すこともせず、ときどき思い出したように話しては笑った。
忙しい日の終わりには、決まった音があった。
最後の客が出る。美由紀が帳場を開き、銭を数える。すん吉が卓を拭き、椅子を持ち上げて壁際へ寄せる。
木の脚が床へ触れる音を聞きながら、美由紀は帳面へ数字を書いた。
「三番の椅子、少し揺れます」
「分かった。明日の朝、見る」
「いま直さないんですか」
「いま始めたら、美由紀の勘定が終わっても、まだ片づかん」
「私が終わるのを待っているんですか」
すん吉は、持っていた椅子を一度止めた。
「先に終わるわけにはいかんでしょう」
言ってから、また椅子を運んだ。
美由紀は帳面へ目を戻した。
算盤の珠を動かす手が、少しだけ遅くなった。
勘定が合うと、美由紀は帳面を閉じ、すん吉が残していた最後の椅子の反対側へ手を掛けた。
「重くない」
「持てるのと、二人で持つのは別でしょう」
すん吉は美由紀を見た。前に、すん吉が言った言葉だった。
「覚えとったのか」
「忘れません」
二人で椅子を運び終えると、すん吉が茶を淹れた。卓の同じ側へ並んだ二つの湯呑の間は、指一本ほどしか空いていなかった。
店を閉め、朝になれば二人で茶を飲んだ。客が来れば働き、休める日には何もせず過ごした。
美由紀は、そんな日々が終わるときのことを考えなかった。




