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AIは敗戦を知っている  作者: E


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第二十六章 母の持ってきたもの

一九四一年十二月三十日 夕方


最後の客が帰ると、僕は表の暖簾(のれん)を外した。


桑橋さんは帳場で今日の勘定を確かめていた。客足が増えてから五日目になる。台所と客席の間で交わす言葉は、二十六日よりずっと少なくなっていた。


僕は洗い場へ残った器を運んだ。桑橋さんは帳面を閉じ、炭と米の残りを確かめた。


「黒馬さん。そちらが終わったら、今日はもう大丈夫です」


「はい。椅子だけ揃えます」


返事をしたところで、閉めたはずの表戸が二度鳴った。


「まだ、よかですか」


戸の向こうから、女の声がした。


桑橋さんが顔を上げた。


「お母さん?」


桑橋さんが表戸を開けると、大きな風呂敷包みを抱え、その脇に細長い包みと酒瓶まで提げた女性が立っていた。


「もう閉めたとね」


「いま終わったところ。どうしたの、こんな時間に」


「どうしたも何も、年を越す品を持ってきたのよ。あんた、取りにも来んでしょう」


桑橋さんの母親は、そう言いながら店へ入ってきた。


僕はすぐに風呂敷包みを受け取った。見た目より重かった。


「これは、どこへ置きましょうか」


女性は初めて僕の存在に気づいたように、顔を上げた。


「まあ」


僕を見て、それから桑橋さんを見た。


「この方は?」


「黒馬さん。いま店を手伝ってもらっているの」


僕は包みを台所口へ置き、頭を下げた。


「黒馬 禎です。桑橋さんには、お世話になっています」


「あら、そう。美由紀の母で、山川(やまかわ) 紬(つむぎ)と申します」


母親も軽く頭を下げた。


その目が、僕の前掛けと、揃えかけの椅子と、洗い場に残った器を順に見た。


「お店を手伝ってくださっているのね」


「はい」


「このところ忙しくなったけん、助かっとるでしょう」


「ええ。黒馬さんが客席を見てくださるので、前よりずっと回しやすくなりました」


桑橋さんが答えると、母親は満足そうにうなずいた。


「それで、黒馬さんは、どちらから通っておられるの?」


「通ってはいません」


桑橋さんが先に答えた。


「いまは、ここで寝泊まりしてもらっています」


母親の手が止まった。


「ここに?」


「そうです」


母親は僕を見た。最後に、住まいへ続く戸へ目を向けた。


「まあ」


さっきよりも、長い声だった。


「事情があって、泊まる場所がなかったんです。ですから、店を手伝っていただく代わりに、食事と寝る場所を――」


「あんた、そういう人がおったなら、先に言わんね」


「違います」


「何がね」


「いま、お母さんが考えたことです」


「私は、まだ何も言っとらんでしょう」


「言わなくても分かります」


「すん吉さんがおった頃でも、よその男の人を店へ泊めたりはせんかったでしょう」


「すん吉さんがいたときとは、話が違います」


「そうね。いまは、すん吉さんはおらんものね」


「そういう違いではありません」


「分かってるわよ」


分かっている人の返事には聞こえなかった。


僕は口を挟むべきか迷った。


「あの、本当に僕は店の仕事をさせてもらっているだけです」


「ええ、分かっていますよ。困ったときは助け合わんといけませんものね」


母親は僕へ穏やかに笑いかけたあと、すぐ桑橋さんへ向き直った。


「それでも、娘の店に若い男の人が寝泊まりしとるんでしょう」


母親の視線が今度は客席を巡り、壁際の長椅子で止まった。


「黒馬さんが寝ているのは、そこの長椅子です。私は奥で寝ています」


「戸一枚でしょう」


「夜は掛け金をしています」


「最初から用心するのは、よかことよ」


「最初から最後まで、そういう意味ではありません」


桑橋さんの声が少しだけ強くなった。


母親は気にする様子もなく、持ってきた酒瓶を台所口へ置いた。


「あんたも、もう自分で決める年なんやけん、私は悪いとは言わんよ」


「決めていません」


「ただ、お父さんには早めに話しておかんと」


「話すことはありません」


「あの人は厳しいでしょう。あとになって、いつからおった、どうして黙っとったという話になったら、余計に面倒よ」


「だから、お父さんへ説明するような関係ではないんです」


「黒馬さんにも、一度、一緒に来てもらった方が早いでしょうね」


「どうして、そうなるんですか」


「会って話せば、お父さんも分かるでしょう」


「会って何を話すんです」


「黒馬さんのことをよ」


「黒馬さんは、店を手伝ってくださっている方です」


「分かってるわよ」


また同じ返事だった。


母親は、すっかり話がまとまったとでもいうように、明るい笑顔を僕へ向けた。


「黒馬さんは、大晦日と元日なら、どちらが都合がよろしい?」


「あの、僕は――」


「お母さん。この方まで困らせないでください」


「困らんように、先に都合を聞いているんでしょう」


「そこではありません」


「では、元日の昼がよかかしら。大晦日は、この店も片づけがあるでしょうし」


「まだ何も決めていません」


「だから、いま決めようとしているのよ」


桑橋さんは、しばらく母親の顔を見ていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「はいはい。帰るかどうかは、あとで私が考えます。黒馬さんを連れていく話も、いまはしません」


「別々に考えんでもよかでしょう」


「一緒にしないでください」


「分かったわよ」


桑橋さんは、僕を見た。


「分かっていませんから」


「はい…」


それ以上、どちらへ加わっても話が複雑になる気がした。


* * *


桑橋さんは母親を客席へ座らせ、茶を淹れた。


母親は細身で、座っていても背筋がすっと伸びていた。髪は乱れなくまとめられ、控えめな色の着物も襟元まできちんと整っている。話は次々に先へ進むのに、声と所作には柔らかな品があった。


風呂敷には、実家で搗いた餅と、正月用の小さな包みがいくつか入っていた。


「こんなに持ってこなくてもよかったのに」


「少なかったら、あんたは自分の分まで客へ出すでしょう」


「出しません」


「この子は昔から、そう言って自分の分まで客へ出すんですよ」


母親は、困ったように笑いながら僕へ言った。それから桑橋さんへ顔を戻した。


「ちゃんと食べとるね。店が忙しくなったと聞いたけん、また一人で何でもしよるんじゃないかと思って」


「食べています。店も、黒馬さんが手伝ってくださっていますから」


母親はそこで僕へ向き直った。


「本当に、ありがとうございます。この子は、自分でできると思ったら、いつまでも一人でやりますから」


「僕の方が、お世話になっています。食事も寝る場所も、桑橋さんに用意していただきました」


「それなら、お互いさまね」


今度の言葉には、早合点とは違う落ち着きがあった。


「美由紀が店にいてもらうと決めた人なら、私が細かく口を出すことではありません。昔から、人の言うとおりに店のことを決める子ではありませんから」


「それを分かっているなら、さっきの話も聞いてください」


「聞いたでしょう」


「聞いただけです」


母親は茶を一口飲み、何も問題はないという顔をした。


「お父さんも私も、変わりありませんよ。あの人は相変わらず厳しいけれど、美由紀が顔を出さんと気にしとるんです」


「気にしているなら、そう言えばいいでしょう」


「言える人なら、とっくに言っています」


桑橋さんは返事をせず、湯呑を持ち上げた。


その仕草には、何度も同じ会話をしてきた人の慣れがあった。


母親は僕へ、桑橋さんが佐世保で生まれ育ち、実家との行き来がいまも続いていることを話した。父親は厳しいが、娘を遠ざけているわけではないという。


僕がどこから来たのかは、無理に聞こうとしなかった。


「事情がおありなのは、何となく分かります」


母親は言った。


「美由紀が聞いていないことを、私が先に聞くのもおかしいでしょう」


人の話を聞いていないようでいて、踏み込まない方がいいところは分かっているらしい。


「ありがとうございます」


「実家へ来られたら、昔の写真もありますよ。美由紀が小さい頃のものも」


「お母さん」


「何ね」


「どうして、黒馬さんにそんなものを見せる話になるんです」


「家族の話をしたからでしょう。ここにも何枚か置いてあるはずよ。見せてあげたら」


桑橋さんは、すぐには立たなかった。


僕は言った。


「無理に見せていただかなくて大丈夫です」


「写真くらい、減るものではないでしょう」


母親が答えた。


「お母さんが決めないでください」


そう言いながらも、桑橋さんは湯呑を置いた。


「写真だけですよ」


念を押すように言って、奥から古い箱を持ってきた。


* * *


桑橋さんは卓の上へ箱を置き、蓋を開けた。


中には厚紙に挟んだ写真と、紐でまとめられた郵便が、布に包まれて収められていた。


桑橋さんは先に郵便の束を箱の端へ寄せ、その上へ布を掛けた。


「こちらは手紙です。写真は、この下にあります」


「はい」


僕は、桑橋さんが取り出したものだけを見ることにした。


最初の写真には、結婚前の桑橋さんが、両親と並んで写っていた。


母親は写真を僕の方へ向け、写っている三人を一人ずつ指で示した。


「これは、まだ今よりずっと若い頃ね」


「これが私。こちらが主人の山川(やまかわ) 和真(かずま)で、真ん中が美由紀です」


写真の父親はきちんと背を伸ばし、引き締まった口元で正面を見ていた。若い頃から厳格そうな面差しだった。隣の母親もいまより若いが、整えた髪と柔らかな目元には現在の面影があった。


「主人は写真でも難しい顔をしとるでしょう。でも、美由紀が顔を見せんと、一番気にするのはこの人なんですよ」


「難しい顔なのは、写真を見れば分かります」


「この頃は、いまより髪が長かったでしょう」


「黒馬さんに説明しなくていいです」


写真の中の桑橋さんは、いまより少し硬い表情で正面を見ていた。けれど、黒目がちな目は変わらなかった。


次の一枚では、桑橋さんの隣に、一人の男性が立っていた。


飾り気のない身なりで、背筋を真っすぐにしている。写真を撮られることに慣れていないのか、両手を置く場所まで決めてきたような立ち方だった。


桑橋さんも、その隣で少し緊張した顔をしていた。


二人の肩の間はわずかに空いていた。それでも、別々の方向を向いているようには見えなかった。


「すん吉さんは、写真だといつも難しい顔ね」


母親が言った。


「撮られるのが苦手だったんです」


「普段から、愛想のよか人ではなかったでしょう」


「お母さんより口数が少なかっただけです」


「私と比べたら、たいていの人は口数が少なくなるわね」


母親は笑った。


桑橋さんも、ほんの少し笑った。


もう一枚では、すん吉さんが一人で背筋を伸ばしていた。表情は先ほどよりさらに硬かった。


母親は写真を見つめると、とうとう吹き出した。


「これは、またずいぶん難しい顔をしとるね」


「本人は、これで普通の顔をしているつもりだったんです」


桑橋さんが声を立てて笑うと、母親もつられて笑った。


写真を箱へ戻すとき、桑橋さんの指が、布を掛けた郵便の束へ一度だけ触れた。


僕は湯呑へ視線を戻した。


* * *


母親が帰るころには、外は暗くなっていた。


桑橋さんは餅の包みを持たせようとしたが、母親は受け取らなかった。


「それを渡しに来たんでしょう。正月に食べなさい」


「一人では多いですよ」


「一人ではないでしょう」


「また、その話ですか」


「黒馬さんの分も要るという意味よ」


母親は平然と言った。


どこまでが本当で、どこからが分かったつもりなのか、もう僕には判断できなかった。


「大晦日か元日か、決まったら知らせてね」


「考えておきます」


「黒馬さんの都合も聞いて」


「それは別です」


「はいはい」


今度は母親がそう言った。


表戸を出る前に、母親は僕へ頭を下げた。


「黒馬さん。娘が無理をしよるときは、できることだけでよいので、助けてやってください」


「はい。ただ、店のことは桑橋さんが決めています。僕は、任せてもらったことをします」


「それで十分です」


母親は優しく笑った。


「美由紀も、自分で決めて人に頼むことはできますから」


その言葉には、娘を長く見てきた人の確かさがあった。


桑橋さんは母親を表まで見送り、戸を閉めた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


台所口には餅と正月用の包みが並び、その横に酒瓶が残っていた。


「すみませんでした」


桑橋さんが先に言った。


「母は、悪い人ではないんです」


「分かります」


「話も、聞いているつもりなんです」


「それも分かりました」


桑橋さんは額へ手を当てた。


「分かっているのに、どうしてああなるんでしょう」


「聞いたことを、自分の中で少し先まで進めてしまうんでしょうね」


「少しではありません」


「そうですね」


「でも、お母さんは、桑橋さんのことをよく見ている方ですね」


桑橋さんの手が額から離れた。


「母が、ですか」


「はい。忙しいと自分の分まで客に出すことも、一人で何でも抱え込むことも、ちゃんと分かっていました。僕の事情は聞かずに、桑橋さんが僕をここへ置くと決めたことは信じていた」


「あれだけ話を先へ進めるのに」


「そこは別なんでしょうね。心配しているだけじゃなくて、桑橋さんなら自分で決められると思っているように見えました」


桑橋さんは少し目を伏せ、やがて困ったように笑った。


「黒馬さんは、あの話についていけていないようでしたけど」


「話には置いていかれました。でも、お母さんのことは見ていました」


桑橋さんは声を立てて笑った。さっきまで額に残っていた疲れが、その笑いで少しほどけた。


桑橋さんは、酒瓶を見た。


「黒馬さん。少し、飲みますか」


「桑橋さんが飲むなら、僕も少しだけ」


「母の相手で疲れたでしょう」


「僕より、桑橋さんの方が疲れたと思います」


「では、二人とも飲む理由がありますね」


桑橋さんは酒を燗にし、昼に残しておいた煮しめを小皿へ分けた。


僕たちは、さっきまで母親が座っていた卓へ向かい合って座った。


桑橋さんが、僕の杯へ酒を注いだ。僕も徳利を受け取り、桑橋さんの杯へ返した。


「お母さんとは、よく会うんですか」


「時々です。私が行かないと、今日みたいに向こうから来ます」


「心配されているんですね」


「ええ。それは、分かっています」


桑橋さんは杯へ口をつけた。


「父も母も、すん吉さんが亡くなったあとは、よく店へ来てくれました。私が一人で続けると言ったときも、最後には何も言いませんでした」


卓の端には、開いた箱と、桑橋さんが男性と並んだ写真が残っていた。


「先ほどの写真で、桑橋さんの隣にいた方が、ご主人ですか」


桑橋さんも写真へ目を向けた。


「はい。すん吉さんです」


「この店は、ご主人と一緒に始められたんですか」


「ええ。二人で始めました」


桑橋さんは、写真を手元へ引き寄せた。


「店にする場所を探すところから、二人で決めたんです」


「どんな方だったんですか」


「口下手でした」


答えは、すぐに返ってきた。


「愛想も、あまりよくありません。何を考えているのか、言わないときも多かったです。手紙も短くて、同じことばかり書く人でした」


桑橋さんは杯を置いた。


「でも、私が重い物を持っていると、何も言わずに取り上げるんです。店を休んだ方がいいと言っても聞かないのに、私が疲れていると、自分の方から暖簾をしまう。そういう人でした」


「桑橋さんを、大切にしていたんですね」


「言葉では、ほとんど言いませんでしたけどね」


声は穏やかだった。


桑橋さんの口元には、困らされた日まで懐かしむような笑みが残っていた。


「戦争に出て、そのまま戻りませんでした」


その一言のあとだけ、店の中が静かになった。


僕は写真の中の二人を見た。


「そうだったんですね」


それ以上は、尋ねなかった。


やがて桑橋さんは、写真の端を指でなぞった。


「この写真より前は、もっと愛想がなかったんですよ」


口元に、小さな笑みが戻った。


「初めて会ったとき、私は、ずいぶん感じの悪い人だと思いました」


「そこから、二人で店を始めたんですか」


「はい」


桑橋さんの目は写真へ向いていたが、見ているものは、もう紙の上にはないようだった。


「ずっと後のことです。最初は、あの人の名前も知りませんでした」


酒の湯気が、二人の間をゆっくり昇った。


閉店した桑橋食堂の夜は、その言葉の先で、まだこの店がどこにもなかった頃へほどけていった。


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