第二十五章 声の前に
一九四一年十二月二十六日 朝
翌朝の派出所では、前日までと同じことだけを尋ねられた。昨夜はどこにいたか。今日は何をするか。佐世保を離れるつもりはないか。
本署からの呼出しはなかった。僕は決められた確認を終え、桑橋食堂へ戻った。
変わっていたのは、戻る道の人の流れだった。
軍港や工廠の方角へ急ぐ作業着の男たちと、仕事を終えたらしい男たちが、同じ狭い道ですれ違っている。荷を運ぶ者も、いつもより早足だった。
仕事の始まる時刻が早くなった客は、前の週にも店へ来ていた。今朝は、来る時刻のずれた者同士が重なり、いつもの客が同じ職場らしい男を一人、二人と連れて歩いていた。
これまで桑橋食堂を使っていた人たちの仕事と食事の時刻が変わり、その周りの人まで一緒に動き始めていた。
店の裏口を開けると、味噌を含んだ甘い匂いがした。
台所では、桑橋さんが浅い鍋の鯖を崩さないよう煮汁を回しかけていた。隣の鍋では里芋が煮え、切ったごぼうとにんじんが笊に載っている。
「お帰りなさい。今日は鯖の味噌煮にします」
「客が増えそうですか」
桑橋さんは鍋から目を離さずに答えた。
「増えると思います。でも、鯖は仕入れた分だけです。飯は昨日より少し多くします。里芋の甘煮と金平ごぼうは、先に出せるようにしておきます」
「僕は何をしますか」
「まず、湯を見てください。そのあと、里芋の皮をこちらへ」
「はい」
僕は上着を脱ぎ、袖をまくった。
* * *
昼には、桑橋さんの読みどおりになった。
最初に入ってきた三人が席へ着ききらないうちに、表戸がまた開いた。続いて来た二人は、奥の常連に声を掛けられ、空いた卓へ腰を下ろした。
「鯖を二つ」
「こっちは急いどる。飯と汁、それから早く出るものを頼む」
「里芋なら、すぐ出せます」
桑橋さんは注文を聞きながら、鯖の残りを確かめた。
「鯖は、いまのであと六つです。里芋を先に出しますね」
茶の追加と注文が重なり、膳を運んで戻ると、二つの卓に空いた器が残っていた。
桑橋さんは迷っていなかった。鯖を出す数を決め、急ぐ客へ先に里芋を回し、次に入った客へ金平ならすぐ出せると伝えている。
ただ、その合間にも、飯を盛り、汁をよそい、勘定を受け、茶を足さなければならなかった。
僕も動いていたが、一つ頼まれて動く間に、別の仕事が二つ増えた。茶を運んだ帰りに空の盆だけを持ち戻り、膳を出したあとで、さっきの空いた器を下げるためにもう一度客席へ出た。
洗い場には椀と小皿が重なった。最初の客が引き始めても、次の客へ使うきれいな器は減っていく。
「桑橋さん、金平はまだあるか」
「あります。黒馬さん、二番へお願いします」
「はい」
金平の小鉢を運び、戻りに二番の空いた湯呑を下げた。今度は一度で済んだ。
昼の波がようやく緩んだとき、里芋は一つも残っていなかった。鯖も最後の一皿が出て、桑橋さんは遅く来た客へ、金平と飯と汁なら出せると伝えた。
次の客へ何を出すかを決める声は、最後まで落ち着いていた。
客が引くと、桑橋さんはすぐ洗い場へ手を伸ばした。
「僕がやります」
「では、お願いします。私は残りを見ます」
桑橋さんが残量を帳面へ書きつける間、僕は重なった器を洗った。
足りなかったのは、桑橋さんの判断ではない。決めたことを同じ時にいくつも実行する手だった。
* * *
洗い物を終え、次の客まで少し間ができたところで、僕は裏へ回り、声を落とした。
「リサリサ。さっきの流れ、整理できる?」
《音と時刻は記録できました。ただし、客席と洗い場を直接見ることはできません。禎さんに見えていたことも教えてください》
「最初の三人に茶を出している間に、次の二人が入った。桑橋さんが鯖を見ている間、僕は飯を運んだ。戻ったときには、茶の追加と空いた膳が重なってた。洗い物は、最初の客が帰るまでほとんど手をつけられなかったよ」
《客の集中は一度ではありません。短い間を置いた二つのまとまりです。最初のまとまりが使った器を洗う前に、次のまとまりが入り、きれいな椀と小皿が減っています》
「料理より、客席と洗い場が詰まってたんだね」
《はい。鯖の火加減、残数、飯の量、惣菜の振り分け、勘定は桑橋さんの判断が必要です。一方、茶と水、注文の取次ぎ、配膳、空いた膳、洗い物は、禎さんが先に動けます》
《最初の客が入る前に、湯呑と盆を客席側へ寄せておく。料理を運んだ帰りには、同じ動線で空いた膳を下げる。最初のまとまりが引いたら、次が入る前に椀と小皿から洗う。この順なら、桑橋さんが台所を離れる回数を減らせます》
「茶は、入ってきた人に同じものを出せばいいわけじゃないよ。熱い茶を少し冷ましてほしい人もいたし、水を先に頼む人もいた。桑橋さんは顔を見て変えてた」
《では、一律に出すのではなく、分からない相手だけ確認します。常連についても、過去と同じだと決めつけず、その日の様子と注文を優先します》
「そうだね。先回りするのは、僕にできる仕事だけにしよう。何をどれだけ出すかは、桑橋さんに決めてもらう」
《その条件で、もう一度手順を組みます》
リサが組み直した流れを、僕は頭の中で店の広さへ当てはめた。湯呑を置く場所を大きく変えれば、かえって桑橋さんの手を邪魔する。盆を一枚だけ台所口へ寄せ、僕が客席と洗い場を往復する方が、この店では使いやすい。
* * *
昼の営業が落ち着いたあと、桑橋さんは帳場で売れた数を確かめていた。
「桑橋さん。明日の昼、僕の動き方を少し変えてもいいですか」
桑橋さんは帳面から顔を上げた。
「どう変えるんです」
「客が続く間は、僕が客席側にいます。茶や水を出して、注文を桑橋さんへ伝えて、膳を運ぶ。戻るときに空いたものを下げます。客が一度引いたら、次が来る前に椀と小皿から洗います」
「料理の残りや、先に出してよい小鉢の数は、桑橋さんに教えてもらえますか」
桑橋さんは、客席から台所口、洗い場へ視線を移した。
「盆を一枚、ここへ置きましょう。空いた膳は、その上へ載せてください」
「はい」
「惣菜を小鉢へ分ける数は、朝の客を見て私が決めます。鯖も私が出します。崩れたら、売り物になりませんから」
「分かりました」
「お茶は先に出して構いません。でも、同じ方が毎日同じとは限りません。分からなければ聞いてください」
「そこは、決めつけないようにします」
「客席と洗い場は、黒馬さんへ任せます。私は台所と勘定を見ます。それでやってみましょう」
「桑橋さんが迷っていたわけじゃないのに、茶や下げもののたびに台所を離れていました。手が足りないだけなら、僕が先に動けると思ったんです」
桑橋さんは、自分の両手を一度見た。
「ええ。決めることは決められます。でも、手は二本しかありません」
それから、わずかに笑った。
「明日は、その二本を増やしてもらいます」
「はい」
一九四一年十二月二十七日 昼
翌日、桑橋さんは前日より少し多く飯を炊き、里芋も小さな鍋一つ分だけ増やした。金平は大鉢へ山のように盛らず、昼に出す分と、そのあとへ残す分を分けていた。
開店前、桑橋さんが小鉢を六つ並べた。
「先に出してよいのは、この分です。なくなったら聞いてください」
「分かりました」
僕は湯呑を取りやすい側へ寄せ、台所口に盆を一枚置いた。洗い場では、椀と小皿を先に洗えるよう重ねる場所を空けた。
最初の客が戸を開けると、僕は桑橋さんの声を待たずに客席へ出た。
「飯と汁。早いものはあるか」
「里芋の甘煮と金平ごぼうなら、すぐお出しできます」
「じゃあ、里芋を頼む」
桑橋さんが里芋の小鉢を添えた膳を、僕が運んだ。
次の卓から鯖を頼まれたときは、僕だけで残りを答えなかった。
「桑橋さん、鯖はまだありますか」
「あと四つです」
「あります。少しお待ちください」
膳を出した帰りに、隣の卓の空いた椀を下げた。一往復で済むので、洗い場への器の運び込みも滞らなかった。
最初のまとまりが引くと、僕は椀と小皿から洗った。
《戸の外で、複数の足音が止まりました》
リサの声を聞き、僕は手を拭いて客席へ戻った。次の三人が戸を開けるところだった。
「いらっしゃいませ」
二度目の客が入っても、使う椀は残っていた。桑橋さんは鯖と汁から手を離さず、僕へ必要な膳だけを渡した。
途中、奥の常連が湯呑へ手を伸ばした。前日は熱い茶を少し置いてから飲んでいた人だった。
「お茶は少し冷ましてお持ちしましょうか」
「今日は熱いままでよか。外が冷えとる」
「分かりました」
昼の終わりには、里芋が売り切れた。遅れて来た客へは、桑橋さんが金平なら出せると伝えた。鯖は一皿だけ残し、そのあとの分へ回すと決めた。
帰り際、一人の客が帳場へ勘定を置いた。
「今日は早かったな。急いどったけん、助かった」
桑橋さんは勘定を受け取り、僕を見た。
「黒馬さんが客席を見てくれましたから」
僕が何か答える前に、次の客が入った。僕は戸の方へ向き直った。
* * *
二十八日も、同じやり方を続けた。桑橋さんは、その日の主菜を鰯の生姜煮にし、卯の花を先に小鉢へ分けていた。崩れやすい鰯を台所で扱い、僕には用意した小鉢を渡した。
まったく同じ一日にはならなかった。最初の客が早い日もあれば、二度目のまとまりが続けて入るときもあった。二十八日は、鰯より卯の花が先になくなった。
そのたびに、桑橋さんは仕込む量と出す順を決めた。リサは戸の開く間隔と注文の重なりを比べ、僕は客席と洗い場を見て、どの合間に器を洗うかを選んだ。
手順を守るために客を待たせるのではなく、客の来方に合わせて手順の方を少しずつ動かした。
一九四一年十二月二十九日 昼
台所口には、桑橋さんが取り分けた五目豆の小鉢が並んでいた。鍋の蓋を閉じると、桑橋さんは僕へ言った。
「今日は客席をお願いします。私は鯖と汁を見ます。小鉢は、ここへ出した分だけにしてください」
「はい」
それだけだった。
誰に茶を出すか、どの卓の膳を下げるか、洗い場へいつ入るかは、一つずつ指示されなかった。
戸が開き、いつもの昼が始まった。
客の一人が、座るなり湯呑を指した。
「今日は薄いのを頼む」
「はい。少し薄めてお持ちします」
別の卓から五目豆を頼まれると、台所から桑橋さんの声がした。
「黒馬さん、三番へお願いします」
「はい」
僕は用意された五目豆を三番へ運び、戻りに空いた膳を下げた。
鯖が残り二つになれば桑橋さんが声を掛け、里芋が終われば、僕が客へ五目豆なら出せると伝えた。
忙しさが消えたわけではない。席は埋まり、戸は何度も開き、洗い場には器が運ばれ続けた。
それでも、桑橋さんが茶のために鯖から手を離すことはなかった。僕も、空いた膳を下げるためだけに客席を往復しなかった。
最後の客が勘定を済ませたあと、桑橋さんは暖簾の向こうを確かめ、息をついた。
僕は洗い終えた椀を戻し、卓を拭いた。
「黒馬さん」
「はい。次は何をしますか」
「今日は、声を掛けることが少なかったですね」
手を止めた。
「足りないことがありましたか」
「反対です。私が言う前に動いてくれたからです」
桑橋さんは帳場へ戻り、昼までに売れた数を帳面へ書いた。
「今日は、黒馬さんが客席を回してくれるつもりで、飯も里芋も少し多く用意しました。私一人なら、あの量にはしません」
「全部、出ましたね」
「ええ。助かりました」
桑橋さんは帳面から目を上げた。
「手伝ってもらったというより、今日は二人で店を回した気がします」
「僕も、そう思います」
言葉にすると、胸の中へ小さな達成感が残った。
* * *
店じまいの片づけをしながら、僕はイヤホンへ小さく声を落とした。
「リサリサ。うまく回ったね」
《はい。二十六日と比べて、桑橋さんが台所を離れる回数が減りました。禎さんへの個別の指示も少なくなっています》
「そうだね。桑橋さんが鍋から離れずに済んでよかった」
《私の分析だけでも成立しませんでした。客ごとの好みを知る桑橋さんの判断と、実際の客席を見た禎さんの修正が必要でした》
「三人で考えて、店では二人で動いた。ちょうどよかったね」
《もう一つ分かったことがあります》
「何?」
《常連の好みを覚えることは、早く料理を出すためだけではありません。覚えていると相手へ伝える働きもあります》
昼の客が、薄い茶を頼んだときの顔を思い出した。
「確かにね。店は、同じ料理を同じ速さで出せばいいわけじゃない。人まで同じにしない方がいいんだと思う」
《覚えておきます》
桑橋さんが帳場へ向かうのを待たず、僕は片づけを始めた。
桑橋さんの店であることを失わないまま、二人で回せる時間が、そこにできていた。




