第二十四章 日付の重さ
一九四一年十二月二十四日 佐世保鎮守府
本署で黒馬との面談を終えた石橋は、その日のうちに佐世保鎮守府へ戻った。書類挟みには、二十四日付で記録した五件が収められている。
冬の日はすでに傾いていた。十五日の初報告、昨日のウェーク島の照合に続き、石橋が天川の部屋を訪ねるのは三度目だった。
石橋は入室の許しを得て敬礼した。天川 光が答礼し、机の前の椅子を示した。机上には、十五日の二通と昨日の照合結果があった。
「黒馬が、新たに五件の日付と結果をまとめて申し立てました」
天川は、石橋が差し出した記録の表紙を見た。
「今日、二十四日付か」
「はい。すべて本日の面談で記録したものです」
「聞こう」
石橋は一件目から読み上げた。
「第一は、明日十二月二十五日、香港で抗戦している英軍を中心とする守備隊が日本軍へ降伏する、というものです」
天川は日付の欄を確かめ、先を促した。
「第二は、一九四二年一月一日付で、米国、英国、ソ連、中国を含む二十六か国による連合国共同宣言が成立すること。敵国と単独で休戦や講和をしない趣旨を含むとしています」
「第三は一月二日、日本軍によるマニラ占領。第四は一月十一日、日本軍によるクアラルンプール占領です。いずれも都市の占領であり、その国や地域の全軍が降伏するという申告ではありません」
天川は口を挟まず、日付を指で追った。
「第五は、米国現地時間一九四二年一月十六日、民間航空会社TWAの三便がネバダ州のポトシ山へ墜落し、乗客と乗員の全員が死亡する、というものです。その中に、映画女優キャロル・ロンバードがいると――」
天川の指が止まった。
「……キャロル・ロンバード?」
石橋は顔を上げた。
「ご存じですか」
「おまえ、知らんのか」
「存じません」
「米国の有名な映画女優だ。クラーク・ゲーブルの妻でもある。映画を見る者なら、日本でも名前くらいは知っている」
天川は五件目の行を読み直した。「いい女優なんだがな」という呟きは、石橋に向けたものかどうかも分からなかった。
一月十六日。TWA三便。ポトシ山。乗客、乗員とも全員死亡。
「黒馬は、この女優を知っているのか」
「本人との関係はなく、会ったこともないと答えています」
「事故を防いでほしいとは言わなかったのか」
「記録に残してほしい、という申し立てでした」
天川はしばらく、五件目から目を離さなかった。
ウェーク島については、海軍内部の誰かから作戦情報を聞いた可能性が残る。香港、マニラ、クアラルンプールも軍事の動きだ。共同宣言は外交の情報である。どれも異様ではあるが、どこかに情報源がいるという疑いを捨てる理由にはならない。
しかし、交戦中の米国で、数週間後に民間旅客機が山へ墜ちる。便名も場所も、その事故で死ぬ女優の名も記されている。
事故である以上、いま海軍の作戦書類を探しても載ってはいない。
「これが一致すれば、海軍の中から聞いた、という説明だけでは済まんな」
「私も、そう考えます」
「だが、まだ何も起きていない」
「はい」
天川は記録の表紙へ戻った。
「この五件は、二十四日付の原記録として綴じろ。文言は、結果が出たあとに書き足すな」
「承知しました」
「照合した結果は別紙にする。いつ、何を、どの情報で確認したかを、その都度残せ」
「はい」
「明日から、結果の出たものを順にこちらでも確かめる。黒馬が知らせを持って来るのを待つ必要はない」
石橋は、五件の記録を十五日の二通とは別の書類挟みに収めた。
「前回と同じ経路で、上へも報告しますか」
「そうしろ。ただし、確認済みの事実と、まだ結果の出ていない申告を混ぜるな」
「承知しました」
石橋が書類挟みを閉じても、天川の視線は一瞬だけ、五件目のあった場所に残った。
第一の結果が出るのは、明日だった。
* * *
一九四一年十二月二十五日 朝
朝の派出所では、いつもの確認だけが行われた。
昨日残した五件について、海軍からの連絡はまだ来ていなかった。
食堂へ戻ると、客席の隅でメモ帳を開き、片耳にイヤホンを着けた。
十二月二十五日。
「香港の守備隊が降伏するのは、今日で間違いないんだね」
《はい。元の歴史では、今日、日本軍へ降伏します》
「これが合えば、昨日の五件の最初の一件が確定する。でも、合ったと確認するだけでは、第五十二播州丸は止められない」
《結果の照合と、艦船の命令を変更する判断は別です》
「そうだね。だから、次の結果を待つ間に、動くための準備をしてもらう必要がある」
僕はメモ帳の新しい頁に、いま確認が必要なことを書き出した。
第五十二播州丸の現在位置。受けている命令。その命令を変えられる者。そこへ情報を届ける経路。
《まず、所在と現在の命令を確認してもらうのが妥当です》
「それだけじゃ足りないよ。命令を変えられる人が誰か、そこへどう伝えるかも要る。現場では、情報があっても判断する相手に届かなければ動けないからね」
《分かりました。結果が増えた時点で判断へ移れるよう、権限と連絡経路まで先に確かめてもらうのですね》
「うん。僕たちが知っているのは、一月二十日にスービック湾で掃海中に触雷するという結果だけだ。いまの航路も、命令も、機雷の位置も分からない」
《現在の情報がなければ、安全な航路や具体的な回避方法は示せません》
「分からないところを勝手に埋めるのはやめよう。いま船を動かしてほしいと言うんじゃない。動かす判断が必要になったとき、間に合うようにしてほしいんだ」
「黒馬さん。朝ご飯が冷めますよ」
顔を上げると、桑橋さんが湯気の立つ椀を運んできていた。
「すみません。すぐ片づけます」
「今日は忙しくなります。考え事をするなら、食べてからにしてください」
「はい」
桑橋さんは帳場へ戻り、届いた野菜の数と値を帳面へ書き始めた。僕が何を待っているか、詳しく聞くことはなかった。
* * *
昼を過ぎたころ、店のラジオが番組を中断した。
香港で抗戦していた守備隊が、日本軍へ降伏したという報だった。
箸を止めた客が、一人、二人と声を上げた。奥の卓では、湯呑を持った男が隣の肩を叩いている。勝った、香港が落ちた、という言葉が店の中で重なった。
僕は盆を持ったまま、ラジオを見た。
十二月二十五日。守備隊の降伏。
昨日、石橋大尉の前で記録した一件目と、日付も結果も合っていた。
胸の奥が熱くなった。勝報に沸く客とは違う。紙へ移した未来が、また現実に追いついた感覚だった。
客の視線がラジオへ集まっている間に、僕は片耳へイヤホンを戻した。
《一件目の一致を確認しました》
「うん。海軍も、自分たちの情報で確かめるはずだね」
《昨日の記録が二十四日付で保管されていれば、結果を聞いたあとに追加した情報ではないことも確認できます》
「次は、確認で終わらせない」
僕はイヤホンを外し、すぐに盆を持ち直した。
桑橋さんは、僕がラジオを見つめた理由を尋ねなかった。客へ茶を足し、空いた椀を下げ、いつもの昼を止めずに回していた。
混み合った客が引き始めたころ、制服姿の紀伊巡査が表戸を開けた。
「黒馬さん。本署へ来てください。石橋大尉がお待ちです」
「分かりました」
桑橋さんは、僕が口を開くより先に客席と台所を見渡した。
「今なら私一人で回せます。行ってらっしゃい」
「すみません。お願いします」
桑橋さんは前掛けの紐を結び直し、次の客へ向かった。
* * *
本署の部屋には、石橋大尉と記録担当者がいた。
机の上には、昨日の五件を記した紙と、香港の降伏を確認した新しい記録が並べられている。
僕が座ると、石橋大尉は一件目を指した。
「香港の守備隊が本日、日本軍へ降伏しました。二十四日付の記録と照合し、日付と結果が一致したものとして残します」
「分かりました」
「残る四件について、昨日の申告から訂正はありますか」
「ありません」
石橋大尉は短くうなずいた。
十五日と二十三日の面談で繰り返された、どこで知ったのかという問いは出なかった。記録担当者は、海軍側が結果を確認した時刻と、その根拠だけを書き加えている。
「今後は、残る四件も、結果を確認できたものからこちらで照合します。あなたが一件ずつ知らせに来る必要はありません。確認したいことがあれば、改めて呼びます」
扱いが一段変わっていた。僕が結果を持ち込んで説明する話から、海軍が自分たちで追う記録になっている。
「承知しました。第五十二播州丸について、お願いがあります」
「伺います」
「今日の一件が一致しても、すぐに船の命令を変えられないことは理解しています」
「ただ、結果がそろってから船の所在や命令を調べ始めたのでは、一月二十日に間に合わないかもしれません」
「具体的に、何を求めますか」
「第五十二播州丸が今どこにいて、どのような命令で動いているのか。その命令を変える必要が生じた場合、誰が判断でき、どの経路なら情報を届けられるのか。今のうちに確認していただけませんか」
石橋大尉は、すぐには答えなかった。
「あなたは、船が現在どこにいるか知っていますか」
「いいえ。元の予定では昨日、佐世保を出ると記憶していますが、実際に出たかは知りません」
「第五十二播州丸は、昨日、佐世保を出港しました」
予想していた答えだった。それでも、胸の中で一日分の余裕が消えた。
「現在の行き先は、伺えますか」
「それはお答えできません」
「承知しました」
「航路や任務について、具体的な変更案はありますか」
「ありません。私は、スービック湾で掃海中に触雷するという結果を覚えています。しかし、現在の命令も、機雷の位置も、安全な航路も知りません」
「分からないまま、航路を変えろとは言わないのですね」
「はい。船を助けたいからこそ、私の知らない部分まで決めつけるべきではないと思います。現在の情報を持つ方が、取れる手段を判断する必要があります」
「あなたが求めるのは、現時点で命令を変えることではなく、必要になったときに判断できる者と、そこへ届ける経路を先に確かめることですね」
「はい。準備だけでも始めていただけるよう、お願いします」
石橋大尉は記録担当者へ言った。
「いまの申し立てを、昨日の記録へ添付してください」
「はい」
「本日の照合結果とともに上司へ報告します。ただし、確認の範囲や内容を、あなたへすべてお伝えできるとは限りません」
「承知しています」
僕が伝えたのは、新しい未来ではなかった。未来を受け取った側が、次に何を確かめれば動けるのかだった。
* * *
一九四一年十二月二十五日 佐世保鎮守府
石橋が部屋へ入ると、天川は、すでに香港守備隊降伏の報を受け取っていた。
机上には、昨日の五件が二十四日付のまま置かれている。その脇には、今日届いた香港の報があった。
石橋は敬礼し、一件目の照合記録を差し出した。
「昨日報告した五件の第一について、日付と結果が一致しました」
「香港守備隊の降伏だな」
「はい。黒馬を本署へ呼び、二十四日付の記録から訂正がないことも確認しました」
天川は、昨日の一件目と今日の報を見比べた。
「香港の降伏が近いと見た者は、ほかにもいただろう」
「はい。一件だけなら、戦況から予測したとも説明できます」
「だが、日付まで示した記録が、結果の出る前からここにある。それは消えん」
天川は一件目の照合記録を、昨日の五件へ添えた。残る四件は、まだ文字のままだった。
四件目の下には、キャロル・ロンバードの名がある。
「黒馬は、第五十二播州丸についても話したか」
「はい。追加の申し立てがあります」
石橋は本署で作った記録を差し出した。天川は黙って目を通した。
「船を動かせ、と求めたのか」
「いいえ。現在の命令も機雷の位置も分からないので、具体的な航路変更を口にするべきではない、と述べています」
「では、何を求めた」
「船の現在位置と命令、その命令を変更できる者、そこへ情報を届ける経路を、先に確認してほしいと。結果がそろってから調べ始めれば、一月二十日に間に合わないおそれがあるという理由です」
天川は、一月二十日という日付で指を止めた。
「自分を信じろ、と迫ったのではないのだな」
「はい。判断は、現在の状況を知る側に委ねるということです」
「船の仕事を知る者らしい頼み方ではある」
「私も、そう思います」
「残る四件は、黒馬へ問い合わせる前に、こちらで確認できるよう手配を続けろ。結果を知った日、根拠にした情報、照合した日を分けて残す」
「承知しました」
「昨日の五件に、本日の照合結果を添えて、前回と同じ経路で上へ回せ」
「はい」
「第五十二播州丸は、現在の所在、受けている命令、命令を変更できる系統、連絡を届ける経路を確認する」
「まだ任務の変更を求める段階ではない。黒馬の情報だけを根拠に、現場を動かすこともできん」
「承知しています」
「だが、次の一致が出てから、誰が判断できるかを探し始めるのも遅い。いま確かめるところまでなら進められる」
天川は、一月二十日の下へ線を引いた。
一月二十日までに、誰が判断でき、どう連絡を届けるか。確認すべきことが決まった。
海軍側の動きも、記録を受け取って待つだけの段階から、一歩だけ先へ進んだ。




