06 図書館の邂逅
貴族学院の図書室は広い。
入口からすぐには書物の貸し出し受付があり、その先には書架が長々立ち並んでいる。
書架は途中にある階段を上って2階にも備え付けられてあり、蔵書数は王都でも2番目に多い。
1番目は王都内にある王立図書館だ。
アムドゥシア王国全体で見ても、学術都市の大図書館を入れれば3番目になる程度であり、貴族学院の学習環境は手厚く整えられている。
2階部分の下にあたる場所には、閉館まで明かりの絶えない机と椅子の並んだ自習スペースが設えてあって、奥の方には複数人で勉強をするために防音魔法を施した仕切りをつけたスペースが並んでいる。
放課後間も無い時間、その防音スペースでメルカはミカエルの隣に座り、教本を指しつつミカエルに勉強を教えていた。
ミカエルは平民でも入手出来る書物にあるような一般的な歴史や魔法学については充分な知識を持つも、貴族やそれにまつわる事柄にはとんと疎かった。
つい最近までただの平民として生きてきたのだから当たり前ではあるのだが、貴族学院では悪意によって知識の無さを醜聞にされることも、もっと言えば知識の欠如につけこんでミカエルの聖人という立場を悪用される恐れもある。
前世から野生の勘的な第六感の鋭いミカエルのこと、そう簡単に足を引っかけられはしないだろうけれども、始業試験の結果が良過ぎた影響で周囲から良くも悪くも注目を集めている。
それに、始業試験以降の試験ではマナーの分野も一層厳しい目で計られるのだ、知識があるに越したことはない。
そういうわけで、うへえと辟易した顔をするミカエルの頬をつまんで咎めたりしながら、メルカは王族を含む高位貴族家の歴史の基礎について講義していた。
教本にしているのは、幼い頃メルカ自身が使っていたもので、始業式後に手配してロマリウス公爵家の領地にある本邸からわざわざ取り寄せたのだ。
「メル~、その話ってホントに要る~?」
「要りますわ。社交界の会話はこういった話を前提に交わされますのよ、基本のキです、覚えないことには始まりません」
「始まらなくて良かったのになあ」
「それは言っても仕方がない、というものですわ」
冒険者として既に身を立てつつあったミカエルにとっては降って湧いた災難であると理解するけれども、身分の割には権力の無いメルカがどうこうするには聖人という称号は大きすぎる。
諦めて受験勉強の再来みたいな面倒に向き合ってもらう他ない。
「メルは昔から真面目だったから良いだろうけど~」
「わたくしだって別に、勉強が好きなわけではありませんわ。今世では特に、世間体のためくらいの理由しかありませんし」
最低限の世間体のために学院で5位以内の成績を求められる公爵令嬢という身分を疎ましく思うこともあり、しかしメルカ・ロマリウスでなければトールとの接点は発生し得なかったと思えば受け入れざるをえなくもあり、メルカとて勉強は面倒である。
ただ、現時点では国で最も高位の令嬢である、という前提を思えば、本来身分的にはまだ下にあるユリエラ・リリスベル侯爵令嬢などに成績で負けていてはいけない、という風潮があったはずだ。
そこは、メルカの嫁ぎ先は昔からトールで決まっており、次代のアムドゥシア王国で最も身分の高い女性である正妃にはなり得ないことで緩和されている部分だった。
メルカの父である王弟は国の安定した運営にしか興味が無く、公爵位を残すことすらも面倒だと考えているようであるので、メルカはトールへ嫁ぐことが叶ったら、ただの元公爵令嬢、ケムエルン侯爵夫人となることが決まっている。
アムドゥシア王国に公爵家がほとんど無いのは、このように子女を国内外へ婿や嫁に出すことにより、一代で家が終わるためだ。
さすがにメルカの父ほど権力欲の薄い王族というのも珍しいだろうが、元々王家が強い力を持つアムドゥシア王国では、王家の差配に口出し出来るような立場である公爵家の長きに渡る存続はあまり歓迎されない。
臣籍降下して公爵家を起こした王族は、あまり多く子供を作らないよう指示されるそうだ。
メルカの父が後妻を迎えなかった理由の1つでもある。
権力欲の旺盛な公爵家というのは、そうと分からないよう、歴史の裏でひっそり断絶させられたりしている、という話はメルカの立場だから知っていることであって、ミカエルに教える内容には含まれない。
そんな公爵家の事情はともかく、クリスの嫁などという胃の痛みそうな立場になるのは、高確率でユリエラ・リリスベル侯爵令嬢か、諸外国の姫君だろう。
ユリエラ・リリスベル侯爵令嬢については、クリスの嫁にならなければカナンの嫁になるだけなのが、ほとんど生まれた時から決まっていたのだ。
その辺りを踏まえると、メルカは身分差があれどユリエラ・リリスベル侯爵令嬢には頭が上がらない。
ともかく、そんな積み重ねを経てきたメルカであっても面倒に思う程度の勉強量が必要とあって、ミカエルは分かりやすく駄々をこねていた。
ミカエルは形として嫌がって見せているだけで、やるべき部分はきちんと集中して身に着ける、と前世からの経験上分かっているメルカは、ミカエルが教本をペラペラと遊び半分にめくる手遊びを始めても「お行儀が悪いですわよ」と言うだけに留めた。
「あ、猫ちゃん」
「?」
ミカエルがめくる手を止めたページの端には、小さな猫の落書きがしてあった。
幼いメルカの文字で、「こねこちゃんほしい」と書かれてある。
「そういえばメルって猫派だったよね」
「ミカは犬が好きでしたわね。しかも体の大きい犬種の」
「サモエド可愛いよ~、ああ~、一太郎に会いたい」
一太郎は何らかの権利に引っかかりそうな商品名ではなく、天星家で飼われていた白いサモエド犬の愛称である。
一郎とか太郎とかじゃ駄目だったのか、メルカは前世から微妙に引っかかっていたのだが、そこは天星父のこだわりだそうだ。
「メルは今世で飼えば良かったじゃん、猫ちゃん」
「ミカ、高位の貴族令嬢は動物の世話が出来ませんの。せいぜいが小鳥に麦粒を与える程度ですわ。そう思うと、わたくしの猫とは言えないんじゃないかと思って……あと何より、トール様のお顔を見に行くことで忙しくて」
「あ~ね……」
ミカエルは半笑いで流した。
経験上、この話を引っ張るとトールについての萌え語りを長々聞く羽目になると知っているミカエルは、咄嗟に子猫の落書きを指さし、話題を逸らす。
「でもこの猫、絶妙に変な顔してる。メルって美術の成績は昔から散々だったよね」
「愛嬌があると仰ってくださいな」
「画伯画伯」
ミカエルが笑い、メルカも釣られて笑いを零した。
クリス以外と前世の話をすることは今まで無かったし、本当の意味でメルカの前世を知る相手はいなかったから、つい気も緩んだのである。
そこに、氷のような冷気を帯びた声が降ってくる。
「随分と仲のよろしいことだ」
メルカが聞き間違えるはずもない、声の主はメルカが毎日愛をぶつけている相手、トール・ケムエルンだ。
メルカとミカエルが隣り合って座っている机の前に、いつの間にか立っていた。
トールの手には政治関係の資料があり、いつも通り閉館間際まで勉強をする予定だったのだろう、それが何故、書架から外れた自習スペースの奥へ? とメルカは丸っこい目を一層丸くする。
ミカエルも急な乱入者に、ポカンとしている。
2人して同じような顔をしているのは何だか笑えたが、目の前のトールは随分と機嫌が悪そうである。
そもそもメルカの前にいるトールは基本的にいつも機嫌が悪いのだが、その通常を越えて悪そうだということだ。
そんなトールを前にしたメルカは、ミカエルの間の抜けた顔を見て噴き出すのを堪え、トールへ視線を戻した。
メルカの様子に、何故かトールはまた一段声のトーンを低くして吐き捨てる。
「昔から気の違ったような女だとは常々思っていたが、粗暴な平民と気が合うとはな。平民男、貴様もよくそんな気味の悪い女と談笑出来るものだ。似合いの物狂いどもだと思うよ」
珍しくメルカを前にして口を開いたかと思えば、悪意の塊過ぎてウニかと思うほど刺々しい内容である。
トールはそのままメルカへ嘲りを向ける。
「お前、公爵閣下に頼んでその平民男と番わせてもらったらどうだ?」
番う、という言い様も酷いものだが、トールは、メルカが父親と折り合いが悪い、どころかほとんど交流さえ無いことを知っていて、敢えて父親である王弟の存在を持ち出したのだと分かる。
珍しすぎる、何なら初めてなのではないかと思われるトールからのコンタクトである。
メルカはその内容を呑み込む前に一旦、ミカエルのことを笑えない程度の間抜け面を晒していたが、ミカエルはすぐに立ち上がった。
その顔は普段のミカエルの懐っこさを少しも匂わせない険しい雰囲気をしていて、深い青紫の瞳は激情に燃えているのが分かる。
前世からの仲であるミカエルは、メルカへ父親との関係をあげつらった悪意をぶつけられることが我慢ならなかったのだろう。
止めなければ、とメルカが口を開く前に、ミカエルは酷く白けた顔を作ってトールへ言葉を返していた。
「初めまして、まさか貴方が噂に聞く宰相閣下のご令息でしょうか? いえ失敬、まさか高位貴族の中でも高みにある方が、そのように下世話な物言いをなさるとは思ってもみなかったもので。噂は当てになりませんね、それとも、噂通りと言った方が良いのでしょうか」
ミカエルの返しに眉間の皺を深くしたトールは無意識に声のボリュームを上げた。
「下世話? 他人の婚約者と知りながら好い仲になろうと企む財産目当ての平民の話でもしているのか?」
「おや、ご自分の婚約者がどなたなのか認識していらっしゃったとは。とてもそうとは思えない言動をされていると聞き、今もそのように感じましたが、サンドバッグでも盗られると思えば矜持に傷がつくものなんですかね、生粋のお貴族様の場合」
「……口が過ぎるぞ平民」
「それは失礼いたしました」
ミカエルの謝罪が形だけで、内心舌を出しているのは、メルカはもちろん、トールにも伝わった。
トールは今にも攻撃魔法を放ちそうなほど静かに怒っており、その険悪な雰囲気は防音魔法を越えて、周囲をざわつかせている。
メルカは、ミカエルが怒った理由は分かるけれど、トールが怒っている理由がよく分からなかった。
ミカエルのことを平民、平民と蔑んでいるが、トールは本来純粋な実力主義者であり、身分の貴賤などにこだわりはないはずだ。
実際、トールの考える施策の多くはどちらかというと爵位を持たない人間に優しいもので、だからこそ不可解であった。
メルカが混乱している間に、ミカエルが反撃用の魔法を練ろうとしている気配を感じる。
まずい、とりあえず、止めよう。
メルカは深く考える時間を得られないまま、この場で諍いを起こした場合立場が悪くなる方、ミカエルを庇う発言をした。
「トール様、もちろんご存知のことではあるかと思いますが、聖人認定を受けた者はその出自を問わず、学院を卒業するまでは次期伯爵、卒業後は伯爵に準じる扱いを受けるべきと国法にございます。功績によっては、将来それ以上の爵位に準ずる立場を手にすることもございますわ、そのように邪険になさっては……」
トールの立場が悪くなってしまう、と続けようとしたメルカを、トールは殺意の籠った目で射貫く。
今までのただの嫌悪とは違う、確かな憎しみの凝集した、剣のごとき鋭く重い感情に困惑して、メルカは黙ってしまった。
「聖人、聖女は王族に準じる扱いを受けた事例もある、か。己の血筋に拘泥する愚物だったとは。ただの気狂いより性質の悪い」
空色の瞳が侮蔑に歪む。
まさかそんなことは、とメルカに弁明する隙を与えず、トールは2人を再度睨みつけた。
「確かに、低俗な輩と関われば自らの品性も下げることになる。良い学びになったよ」
そう吐き捨て、トールはふいと踵を返し、図書室を去って行った。
殺意の飛び交った自習スペースは、試験前ではないので居合わせた生徒は少ないものの、緊張からの解放とゴシップの気配にざわつく。
怒気を収めたミカエルは、心底嫌そうな顔をしてメルカを見た。
「メル、マジでアレが好きなわけ? 正気? 正気じゃガチ恋オタクなんてやってられないとかそういうレベルは超えてない? アレ」
「……ミカ、アレ呼ばわりは無礼ですわ」
「メルに無礼だったのはあの男だ。俺はあの男がメルへ床に額を擦りつけて土下座するまで許せないね」
「土下座はこの世界の文化にはありませんわよ……」
どこか頭のぼんやりするメルカは、ミカエルの怒りに他愛のない返事をすることしか出来なかった。
トールがメルカを嫌い、憎む理由は初対面のその前からずっと、互いの境遇に由来して存在している。
けれど、今日のようにメルカという人間自体に対して殺されそうだと感じるほどの憎しみをぶつけられたのは初めてのことだ。
殺されそうな……図書室に差しこむ夕方色の光が、ずっと昔の光景と重なって見える。
夕陽の差すいつもの家路、道の脇から飛び出してきた見覚えある人影、鈍色に光る――ミカエルがメルカの肩へ優しく手を置いた。
「メル……大丈夫? 保健室で休むならついていくよ」
知らぬうち、息が荒くなっていたらしい。
口元を押さえた手は震えていた。
「……だい、じょうぶ。わたし、わたくしは、大丈夫です。でも……そうですわね、今日は少し早く寮へ戻って、休むことにします」
ミカエルはメルカの顔を見て、眉を寄せる。
「顔色が大丈夫じゃない。寮まで送ってく。寮監の人に、何かあったかい飲み物でも出してもらえるように言うから……」
ミカエルの気遣いの声も、水の中で聞くもののように、ぼやけて聞こえた。
そのまま教材を片付け、ミカエルに寮まで送られたメルカは、その夜、悪い夢を見た。
ずっと昔の、厭な夢。
真夜中に起きて、顔を洗い、鏡でメルカ・ロマリウスである自分の顔を見るまで、夢の余韻がメルカの呼吸を浅くした。
そんな風だから、トールと一緒に下校出来なかったのはもちろん、翌朝も男子生徒寮まで足を向ける気力が湧かなかった。
メルカのその行動が、学院内の俗な噂を裏打ちするように働いた、というのはメルカとミカエルには想像もつかないことであった。
そして5月初めの学院全体行事、交友会にて、トールとミカエルの間に入った亀裂が、多くの人々の前に晒される事態となる。




