03 ミカとメル
始業式が終わった後、メルカはソワソワと落ち着きなく、人気のない学院の廊下を淑女の範疇内の早足で歩いていた。
『聖ヒロ』原作においては、トール攻略ルートに入るためにはまず、始業式直後に学院の図書室へ向かい、そこで資料を探しているトールと出会う必要がある。
つまり、ヒロインたるミシェルが図書室付近に居たらアウトだ。
そうなったらそうなったで、メルカは何とか惨殺人肉食ルートを避けるための方策を練らねばならない。
具体的には……王弟とはいえ2年ほど顔も合わせていない父親の権力が使えるとは思えないし、そうだな、もういっそ馬糞。
トールとミシェルが顔を合わせた瞬間に馬糞を投げ込む女とかになろうかな、どこにでも馬糞を投げ込む女。
トールの攻略ルートにおける接触の機会は全て諳んじられるし、今世の12年弱に及ぶ散々なストーカー歴によってトールの行動パターンは把握済である、あとは馬丁に頼んで馬糞をゲットすればオールクリアー。
『聖ヒロ』世界の衛生基準は鉄板Web小説に倣って現代並なのだ。
中世風の顔をしていても上下水道は完備されており、道端に家畜の糞、人糞が落ちているなんてこともない、ご都合のよろしい快適な暮らしには現代日本からの転生者メルカもニッコリであった。
そこを逆手にとる!
顔を合わせる度に馬糞が投げ入れられる男とあっては、如何にトールがこの世で最も素敵で全てを兼ね備えている(以下メルカによるトール賛美を省略)人間だとしても、恋愛をしようという空気にはならないだろう。
並の女なら耐えられない、メルカなら耐える自信があるけども。
そんな人としての尊厳を投げ捨てる極悪非道の算段を立てながら、半ば血走りかけた目で歩いていたのが悪かったのか、図書室へ繋がる廊下への曲がり角で、メルカは人とぶつかってしまった。
「きゃっ」
ぶつかった相手、背の高い青年も、考え事でもしていたのか、床に尻もちをつくメルカを支えることは叶わなかった。
「わ、すみませ……」
どこか清澄な雰囲気の声をした青年の謝罪が不自然に途切れる。
見上げたメルカの緑の瞳と、青年の夜空色の瞳とがハッキリとお互いを映す。
白に近い金髪、貴族風でなく教会風の仕立ての衣服を着た青年は白金の睫毛に縁どられた目を見開き、精悍な顔に驚きを浮かべて、小声でこのように口走った。
「ゲッ……ヤンデレホラー令嬢……!」
それはメルカの、いやメルカ・ロマリウスの『聖ヒロ』ファンの中での通称である。
この世界でその呼び名を知っているのは、メルカとクリスくらいのものだ。
そうでないならば、それはメルカと同じく転生した現代日本人……不意に、メルカはその青年の、短い髪を耳にかけようとして失敗する仕草が目に付いた。
それは強い既視感である。
中学までは母親の意向で髪を伸ばしていたから、高校で剣道部に入って短くした後にも、つい横髪を耳にかける癖が抜けない……特に、動揺を隠そうとした時には。
「……ミカ?」
考えるより先に、メルカの口をついて出たのは、前世の親友に対する愛称だった。
対して青年は、その呼び名の響きを受けてハッとして、目と口をいくらか開け閉めしてから、やはり"彼女"が前世でメルカ、いや祇園寺 覚に対して使っていた愛称を口にした。
「…………まさか、メル?」
時間が止まる、というのはこういうことだとメルカは初めて実感した。
互いに見つめ合ったまま、数十秒は硬直していたと思う。
ミカ、もとい天星 御嘉は前世のメルカ、祇園寺 覚の"同性の"親友だった。
小学校の頃からいつもクラスが同じで、趣味は随分と違っていたのに何故か気が合って、覚が御嘉へ勉強を教え、御嘉が覚を運動場へ連れ出し、とお互いに良い影響を与え合っている関係だった。
覚と違って御嘉は友人をたくさん持つタイプだったが、いつも覚と一緒に居たがるのは御嘉の方だった。
高校を卒業した後、就職と進学で道が分かれてからも、休日の度に遊びの誘いを送ってくる御嘉に苦笑した日もあって――『聖ヒロ』に頭の先までどっぷり浸かっていた当時の覚がその誘いを受けるのは半分くらいの頻度だったので、御嘉はよくゲームにメルを盗られた! と口を尖らせていたものだ。
数十秒の行動停止は、過去の記憶を巡らせ、お互いの素性を確信するに十分な時間であった。
ひとまず、青年、ミカがメルカへ手を差し伸べる。
「ええと、ごめん。怪我してない?」
あの頃とは顔つきも、そもそも性別すら違っているのに、その眉を下げた表情は、どこか馴染み深く感じられた。
メルカは差し出された手を取って立ち上がり、自身の身体に異常が無いのを確かめると、安心させるように微笑む。
「怪我はありませんわ。ありがとうございます」
ドレスの後ろを優雅な仕草で整えるメルカを見て、ミカは間の抜けた調子で話す。
「メルがお嬢様してる……」
「失敬ですわよ。これでも17年近くご令嬢をやってきましたの」
「……メルカ・ロマリウスならそりゃそうかぁ」
「ミカ、その呼び方は危ういですから、お止めなさいな」
一応、友達が居なくとも、実際に爵位を持つ父親との交流がほとんど無くとも、王女が居ない現時点では、メルカはアムドゥシア王国最上位の令嬢である。
それをフルネームで呼び捨てにするのは、前世日本でいえば土下座ものの失礼に当たる。
つくづく周囲に誰も居なくて良かった、と思いつつ、メルカは呆れを滲ませた目でミカの長身を上から下まで眺めた。
ミカへ注意をしておいてなんだが、これもまた令嬢としてのマナーに欠ける行いではあるので、今この場でしか出来ないことである。
「お尋ねしたいことはたくさんございますけれど……」
「それは俺もそう。はあ、まさかメルまで転生してたなんて……ね、ここってマジで『聖ヒロ』の世界? 間違いなさそ?」
俺、というその声には合っているものの前世の記憶とは違う一人称を、メルカは複雑な気持ちで受け止めた。
メルカが17年弱でご令嬢となったように、ミカもこの17年弱で状況に適応したのだろう。
「先ほどまででしたらそうと言い切れましたけれど、今は貴方の状態とお名前、立場が気にかかるところですわね」
ミカはヒロインと全く同じ色彩を持つ、男性に見える。
服装はヒロインが原作で着ていた教会風の衣装を男性用にあつらえ直したような造りであることから、ミカが教会関係者であることは間違いないだろう。
「そうなんだよな、それで俺も半信半疑……あー、俺はミカエル・アルマロス、最近教会で聖人認定を受け直してこの貴族学院へ転入することになった、正真正銘、生まれたときから男の……ヒロイン?」
最後の単語についてはミカ、ミカエルは口に出すのも嫌そうに、疑問符をつけながら顔を顰めた。
『聖ヒロ』におけるヒロイン、ミシェル・アルマロスの出自は少しだけ複雑だ。
剣と魔法の世界観であるこの世界には過去魔王が存在し、それに対抗する存在として聖女と呼ばれる女性が現れ、魔王を封印した、と伝えられている。
その後、女性であれば聖女、男性であれば聖人、と呼ばれる存在は定期的に生まれていることが歴史上の記録で確認されている。
何度か封印の解けかけた魔王を封印しなおしたり、卓越した聖属性の魔法によって魔物の大氾濫を治めたり、と偉業が歴史の教科書に記されている。
特に何事もない時代に生まれることもあったが、アムドゥシア王国の建国伝説にも関わる存在であるため、万一のために、どんな生まれであっても聖女・聖人という存在は必ず国が保護し、その力を十全に振るえるよう教育することとなっている。
そんな事情があるために、アムドゥシア王国では貴族のみならず平民であっても、10歳になると洗礼というものを受けるよう義務付けられている。
アムドゥシア王国の国教によると、人の身体に魂が完全に定着するのは10歳の時分だという。
洗礼は光属性の魔法の1つで、主に教会の者が使う、前世のWeb小説風に言えば鑑定にあたるものだと思われる。
国民の義務だけあって無料で受けられる洗礼は、その子供の魔法適性や特殊なスキル、称号(聖女・聖人はこれにあたる)を調べ、結果を国と本人のみに知らせる。
家族へ知らせないのは、聖女などの特殊な称号を持った子供を親が金欲しさに売り飛ばさないよう考えられた対策である。
この制度によって、本来であれば、平民の孤児であったミシェルも、10歳のときには洗礼で聖女であることが発覚し、どこかの貴族家に引き取られて適切な教育を受けているはずだったのだが。
一部の教会の腐敗、具体的には洗礼係特別手当というお金欲しさに、|洗礼魔法が上手く使えない《ボケた》歳になっても司祭として教会に居座っていた老人がいたせいで、ミシェルの聖女の称号は見過ごされたのだ。
その汚職はミシェルが16歳のときに発覚し、国からの知らせで洗礼を受け直した結果、ミシェルは聖女であることが発覚した。
急なことで養親となる貴族家を選定する時間もなく、とりあえず貴族学院で適切な教育を受けさせよう、となり、最終学年である3年生から転入してくることとなった……それがゲームでのヒロイン誕生の経緯である。
尋ねてみると、ミカエルも性別以外は同じ経緯を経て学院へ転入することとなったらしい。
ゲームのヒロインと違うのは、男であったために洗礼を受け直すまでは体が資本である冒険者という戦闘を主に行う職に就いていたところくらいか。
「それで、どうして男性なんですの?」
「さあ…………?」
ミカエル曰く、国名などから『聖ヒロ』の世界では? と勘付くところまではいっても、流石に性別が違うとなれば、自分が『聖ヒロ』の主人公であるという自覚には至らなかったらしい。
洗礼の受け直しで聖人認定を受け、学院へ転入することになったあたりでまさかと思ったそうだ。
「何かの間違いであってほしいな~と思って、他にも聖女認定受けてる子が居ないかとか、俺のそっくりさんみたいな女の子が居ないかとか、少しは調べてみたんだよな。1人も居なかったんだこれが」
「と、いうことは……」
「う~ん、俺がヒロイン……というか主人公位置なのは多分、確定、かも。性別の違いについては、俺も原因はサッパリ分からんけど」
ミカエルは肩を落とし、ため息をつく。
しかしそうとなると、メルカには確認しなければならない重大事がある。
メルカは緑の瞳を暗く尖らせ、ミカエルへ尋ねた。
「ミカ? 貴方……トール様のことをどう思っていらして?」
「は? トールって……トール・ケムエルン、様の話? どうもこうも、会ったこともないし今後も関わろうとは思ってない……メル? まさか……」
「ぃよっしゃあ!!」
メルカはその場で勢いよくガッツポーズをした。
淑女の礼など恋心の前には儚いものである。
ミカエルが男であったとしても、ヒロインという立ち位置にある以上は攻略対象の攻略が可能かもしれない、ミカエルも前世は女性である、もしもトールの攻略を目指していたら……そう考えての問いであったが、その心配は今消え去った。
R17Gの世界線は晴れて消失したのである。
「思い出した……休日延々トール・ケムエルンの話を聞かされた日々……」
「その節は大変お世話になりましたわ」
「メル……生まれ変わっても男の趣味の悪さ、変わってないんだ……」
ミカエルが不敬極まりないことを呆れかえった顔で言うも、大きな心配事の1つが減り満面の笑みで喜ぶメルカには届いていなかった。




