20 flying fall down
目を覚ます、開かれた視界には光魔道具の無機質な白い光、に照らされた天井。
流石のメルカもここで知らない天井がどうとか、などと軽いオタク思考を巡らせることは出来なかった。
メルカが横になっていたのはカーペットこそ敷かれているものの、硬い床であるようで、後頭部や肩甲骨、体の節々が痛む。
それ以外には、手首と足首のあたりに鈍痛があった。
痛みの自覚が先に来て、ハッキリと頭が回らない……見上げた天井は見覚えが全くない、というわけでもない気がしたが、思い出すにはいささか遠い記憶であるように思われた。
少なくとも、王宮や学院の女子生徒寮、ロマリウス公爵家の所有する建物ではないことは確かだ。
他に、多少の埃臭さも感じる。
掃除されていないわけではないだろう、という程度だが、常に使われている施設ではないのかもしれない。
メルカは何よりまず、身を起こそうとして、僅かに動かした手足がやけに重く、その上手足の近くからジャラ、と金属の擦れる音がしたのに気づく。
両の手足、四肢全てが異様に重い。
メルカがジャラジャラと金属音を伴って何とか上半身だけ起こし、己の状態を見下ろしてみれば、四肢が大きく分厚い鉄製の手枷と足枷に拘束されていることが分かった。
手枷と足枷は、その重さだけでメルカの白い肌に青黒い痣を作っている。
4つの枷の先には同じく大袈裟なほど重厚な造りの鉄製の鎖がついており、その4本の鎖は部屋の奥側の隅に深く刺さった杭へまとめて繋がれてあった。
鎖の長さと部屋の広さを目測するに、鎖は外へ続くのだろう部屋の扉へは1mほど足りない長さで作られているように見える。
鎖がもっと長かったとて、部屋から出ようにも鉄製の枷と鎖が重すぎるため、歩くどころか立ち上がるのにも難儀するだろう。
というか難儀している、メルカは仮にも公爵令嬢であり、護身訓練用のレイピアより重いものは持ったことがないのだから。
枷や鎖を破壊するのも不可能である、4つの枷の全てには、ご丁寧に見覚えのある装飾――はめ込まれた漆黒の宝玉を中心に切除と混乱の魔法紋、つまり魔法封じの紋が刻まれてあって、メルカは一切の魔法を使えない状態だ。
去年の夏に見た軽い魔法封じではなく、魔力の動きすらも封じる完全な拘束具である。
恐らく、重犯罪者の移送の際に使われるものなのだろう、これなら移送に同行する兵士たちも安心というものだ、まったく頼もしい造りをしている。
問題は、メルカは重犯罪を起こした覚えがないというところにあった。
既に何となーく嫌な予感はしているけれども、目を逸らすわけにもいくまい。
メルカは起こした上体で何とか部屋を見回してみる。
記憶に少しの引っかかりがあって……残念なことに、メルカは特定の人物に関する記憶には自信があった。
この内装の雰囲気は、ケムエルン侯爵家の別荘邸である。
メルカが最後に訪れたのは随分と幼い頃、10歳になるより前のことであったので、確実にそうとは言い切れないが、少なくともメルカが訪れたことのあるケムエルン侯爵家の別荘邸の内装を模した部屋であることは間違いない。
自信があると言いながら微妙な言い回しになっているのは、部屋の様子が明らかにおかしいからだ。
まず、窓が無い。
無いというか、全ての窓があったのだろう部分に鉄格子ですらない鉄の板がはめられており、少しの光も入らないくらい隙間なく塞がれている。
嵌め殺しってそういうのじゃないだろう、と思うも、そうなっているのだから仕方がない、堅牢すぎる嵌め殺し窓だ。
外が一切見えないので、部屋の四隅に置かれた光魔道具で一応視界は確保されているけれども、空を見て時間を推測することなどは全く出来ない。
持ち上げるにも苦労する手で何とか自分の持ち物を探せど、メルカが見につけているのは意識を失う前に着ていた服と装飾品そのまま、それだけであって、持ち物は時計を含めて全て没収されているようだ。
壁と天井、カーペットの質を見るに、牢屋として作られた部屋ではないように思われる。
そもそも通常の貴族の、本邸でない別荘邸の建物内などには普通、牢屋は作られない。
ロマリウス公爵家の別荘宮ともなるとまた話は変わり、様々な事情のもと貴人用の牢があったりもするのだが。
その貴人用の牢だってここまで酷くはない。
メルカは頭痛がしてきた、体調不良はそれだけではなく、酷く喉が渇いていて空腹も感じる、空腹は前世でしか体験したことのない、一周回ってもうあまり食べ物を欲しない状態にまで至っている気がする。
ケムエルン侯爵家の別荘邸と王都とは、ケムエルン侯爵家本邸との間より馬車でまた1日分くらい離れていたはずだ。
あの王宮からの帰り道、襲撃の日からどのくらいの時間が経っているのだろうか。
ことここに至っては認めざるを得ないが、去年の夏以来の拉致監禁であり、この場所と意識を失う前に感じた魔力のことから推測するに、おそらく同一人物の犯行だ。
バージョンアップしている。
確かに、確かにね? メルカは現状に小さく唸った。
ひたむきに努力を重ねてあらゆる技能や知識を身に着け、能力を向上させていくところは、確かにメルカの好きなトールの個性の1つであるが、流石に拉致監禁のレベルまで向上させることはないと思う。
部屋の異常は窓だけではない。
不自然を超えて理解不能なくらい、家具が無いのだ。
夏季休暇のときは一応ベッドとその他様々、客間らしい調度が整っていて、メルカもベッドに寝かされていたというのに、今のこの部屋にはベッドどころか棚や椅子1つ無い。
部屋の中にあるのは、四隅の光魔道具と、メルカの枷の鎖を固定する厳めしい鉄の杭、拘束されたメルカ本人、それだけである。
そしてもう1つ奇妙なことに、部屋の床、毛羽立ちの少ないカーペットの上に、魔力を感じる。
埃臭さがあるのも、カーペットが目立って綺麗なのも、建物の主が長い間訪れなかったためだろうか。
メルカの知る限り、10歳以降にトールが別荘に行ったことはなかった、宰相であるケムエルン侯爵は言うまでもない。
それはともかく、床の魔力である。
この魔力は少なくともトールのものではない。
魔力は線状に広がり、この部屋いっぱいを使って何かの記号、円形のものを描いているようだった。
魔力は透明であるため、明確にその形を視認することは出来ないが……。
「魔法陣……?」
メルカは渇きに掠れた声で、小さく呟いた。
そのとき、何の合図も無く外へと続く部屋の扉が開く。
開かれた入口に立っているのは見慣れた背格好の青年――トールである。
いや、見慣れたというのは大きな間違いだとメルカは思った。
トールは一目見てメルカが息を呑むほど、酷い顔色をしている。
ここ1ヶ月以上、トールから拒絶されていたために、しばらくまともに顔を見ることも出来なかったメルカは、久しぶりに真正面からトールを見た。
目の下には黒々とした隈が落ち窪み、顔色全体に影を落としていて、かさついた肌は痛々しく、いつも几帳面に整えられていた爪は伸びきって爪の間が汚れている。
髪をまとめるためにずっと使っていた平静の魔道具だったはずの髪飾りもなく、黒に近い青の髪は艶を失って、ざんばらにトールの肩周りに垂れていた。
服には皺が目立って……氷悧の貴公子と呼ばれた美貌からは遠く、およそ今までのトールからは考えられない姿をしている。
ゴーストかレイスにでも憑りつかれたのだと言われた方が納得いくほど酷い状態だ。
メルカをして本当にトール本人なのか一瞬疑わせるほどだが、入口に幽鬼のごとく立っている彼は間違いなく、この12年以上見てきたトールだと直感する。
はく、と口を開けたメルカが掠れ声でその名を呼ぶ前に、トールは部屋の扉を閉め、メルカを見下ろした。
「お前に似合いの姿だな」
メルカの、手枷と足枷で床に這いつくばっているかのごとき姿を見て、トールは醜く嘲笑う。
その笑みはあの新年祭の日にも感じた通り、メルカの愛したトールの浮かべる表情ではない、とメルカは強く思う。
でも、メルカの感覚は確かに、目の前の青年がトール・ケムエルン以外の何物でもないと告げている。
トールのことが分からない、分からないことがこんなにも不安であるとは今まで一度も思わなかった。
大好きなトールの、まだ知らない部分を見ることは、メルカにとって人生の喜びの1つであって……じゃあメルカは、変わってしまったトールのことは好きでないの?
自分の気持ちさえ整理出来ない、メルカは混乱していた。
混乱していたが、現在の状況が不味過ぎることだけは間違いなかった。
本当に当たり前のことだが、婚約者とはいえ、理由もなくメルカ・ロマリウスをこのように扱うことは、このアムドゥシア王国では国王陛下にも許されていない。
夏季休暇の程度であればクリスも部屋へ出入りした通り、まだ取り繕う余地があったが、この状況はもうどこをどう切り取ってもアウトだ。
表沙汰になればトールは廃嫡、平民落ちを免れないだろう上、ケムエルン侯爵家も家格を下げられ、宰相職からは退くことになるだろう。
そんなことは、メルカはもちろん、トールの望みではないはずだ。
解決策はただ一つ、トールがメルカを解放し、何事もなかったかのように王都に帰すことである。
メルカは当然、手足の痣は階段から落ちたとか落馬したとか適当な言い訳で誤魔化すつもりであるし、どこにいたか、誰がメルカを拉致したのかなども、たとえクリスに尋問を受けても話すつもりはない。
そして不味いのは、トールの立場だけではない。
メルカはこの部屋の床に描かれている魔力の魔法陣に嫌な予感を覚えていた。
『聖ヒロ』公式設定資料集201ページを思い出したからだ。
『聖ヒロ』世界において、魔法陣というものが関係するのは、魔道具か、あるいは魔王の封印のみである。
トールのものでない魔力で描かれた魔法陣が、ケムエルン侯爵家別荘邸の部屋にある。
これには宰相、ケムエルン侯爵の関与を疑わないわけにはいかない。
つまり、トールの命までも危ぶまれるのだ。
メルカは掠れた声で、必死にトールへ訴えかけた。
「トール様、このようなことはお止めになってください、わたくしを解放して、王都へ……そうでなければ、トール様が」
トールが身分も夢も失ってしまう。
あるいは、この部屋の魔法陣が本当に魔王の封印に関するものであったならば、その命すら失ってしまうかもしれないのだ。
トールのために必死に連ねた声はしかし、トールへは別の意味に聞こえたらしい。
「黙れ!!」
飢えた獣のごとき、怒声を超えて、魂から叫んでいるような吠え声だった。
そしてメルカが口を挟む隙も無く、トールは捲し立てる。
「お前が全部悪い、お前さえいなければ、お前が、あの男を選んだから、お前は罪人なのに、僕だけの、罰を受けるべき、罪人のくせに、お前が、あの男の手を取って逃げようとなどするから!!」
あまりの剣幕に、そしてその言葉たちの意味の散逸に、狂気を感じた。
頭の整理がつかず、声も出ないメルカ、そして叫び終えたトールが口を閉ざし、室内には不気味な沈黙が漂う。
その沈黙の中、トールが夢遊病患者のような危うい足取りで、メルカへ1歩ずつ近づいてくる。
「トール、さま……?」
呼びかけるメルカの声に応えず、トールは床に両手足をつくメルカの1歩前まで来ると、ゆっくりと屈んで、メルカへ両手を伸ばした。
その手は、メルカの細い首を掴み、メルカを床へ押し倒しながら、メルカの首を強く絞め上げる。
「……は、…………」
吐息の音だけ残して、メルカの頭は、首は、体は、トールの手によって、床へ押し付けられた。
抵抗出来ない。
空腹や脱水症状によって体に力が入らない上、四肢を拘束する重い枷がメルカの行動を阻害し、魔法の行使さえ禁じている。
抵抗する術も、その体力も、今のメルカは持たなかった。
身動き取れないまま、首を絞められて、呼吸を、脳への血液の流れを止められる。
メルカはただ痛みと、トールの手の冷たさだけを感じていた。
トールは憎しみと狂気に満ちた、前世で言う鬼の形相で、メルカを見下ろし、ブツブツと呟きを落としている。
「お前が全て悪い、お前のせいだ、お前のせいで、僕はずっと地獄にいるのに、お前は罰されなければならない、僕が罰する、そうして、こんな世界はもう、壊れてしまえば良い」
首が今にも折れてしまいそうなほどに痛く、苦しい。
絞められた血管が、脳に酸素を運べなくなり、メルカの思考、意識が強制的に薄らいでいく。
それでもメルカは真っ直ぐにトールを見上げていた。
メルカが死に近づくほどに、トールの澄んだ、そう、ちょうど今の季節の青空を切り取ったような冬空色の瞳が、灰色に濁っていく。
赤い光が瞳孔に灯り、美しい瞳を侵食していく。
魔力の変質現象だ。
メルカは世界を恨んでいないと言い切れるほど清廉でもなければ、前世も合わせて幸福に満ちた人生を送ってこられた人間ではなかった。
宰相自身に代わる、世界を恨む生贄として、問題なく適合してしまうのだろう。
この部屋にある魔法陣はやはり、魔王復活のためのものなのだ。
このまま、もう数分もしないうちに、メルカは生贄として死に、トールもまた魔王の器となって命を失う。
でも、メルカは"そんなことどうでもよかった"。
魔王の器となる条件は、愛を持たないこと、愛を失うことである。
メルカがトールの手で命を失おうとしている今、メルカの死が近づくごとに、トールの魔力が魔王の器へと適合するように、変質していっている。
それはつまり、逆説的に、"トールがメルカを愛している"ということに他ならない。
苦しい、痛い、息が出来ない、とても生きてはいられない。
メルカは17年よりも前の記憶、血が流れ出て、父親という男の笑い声だけ聞こえていたあの夕暮れ時と似た感覚、死の気配を感じていた。
けれどメルカは、生まれて初めて、何もかもが満たされた気持ちだった。
視界が白くぶれていく、その中でもトールの色を、その大好きな色が濁っていく現象を、見失わないよう瞼を押し開いて見上げている。
嬉しいからだ。
何よりも嬉しいのだ。
今のメルカの心からは、メルをもう一度失って酷く嘆き悲しむだろうミカのことも、きっと静かに悼んでくれるクリスのことも、消えていた。
なんて自分勝手なのだろう。
なんておかしいのだろう。
なんて、愛おしいのだろう。
トールは、メルカを、愛している。
それならもう、何も要らない。
自分の命すら。
だって満たされちゃったのだもの。
やっと解ったんだもの。
私はトールを、トールだけを愛していると確信出来たんだもの。
ああ、生まれてきて良かった!
だから今、この瞬間、この愛の中で死にたい!
見上げるトールの瞳、もうほとんど灰色と赤だけに変わりつつあるその2つから、水滴が落ちて来て、メルカの顔を濡らした。
メルカはそれを薄らいだ意識でぼんやりと認識して、最期の力を振り絞って、重い重い手を伸ばす。
トールの涙を掬いたかった。
トールをずっと、救いたかった。
メルカの指が僅かに、トールの目尻に触れる。
指に滲む水の感触、トールが泣いていることを確信して、メルカは、失われる間近の自身の命と、トールの命とを前に、口角を上げた。
縊られた顔は赤黒く、口からは涎が零れ、瞳の焦点も合わない、とても見られたものではない醜い顔で、ただ心から、笑った。
ふっと首にかけられていたトールの両手の力が緩む。
突然気道が開かれ、メルカの身体に呼吸が戻ってくる。
「……ッゲホ! グ、ゴホッ……!」
メルカは生理現象のままに激しく咳き込んで、ボロボロと涙を床へ零した。
ヒュー、ゲホ、ヒュー、と咳混じりの聞き苦しい呼吸音が、別荘邸の何もない部屋に響いた。
本能的に呼吸を整えているメルカへ、トールが、呼吸音で掻き消されそうなほど小さく、呆然として呟く。
「お前は……何故、今、笑った……」
トールの瞳はすっかり濁りを無くし、淡い空色に戻っている。
メルカが死ななかったから、トールは戻ってきた。
「ェホッ……コホッ……」
メルカはまだ残る息苦しさを咳き込んで緩め、まだ酸素の戻り切らない脳が浮かべたままの感情で、トールへ幸福に微笑んだ。
「わたしが、あなたを、愛しているから、です。ごめん、なさい」
「何故、謝る……」
「わたしの愛は、あなたを幸せには、しないかもしれない、から」
両手を力無く落としてメルカを凝視し、動けないでいるトールへ、メルカは手を伸ばした。
未だ鈍い音立てる鉄枷の重さなど忘れたかのように、翼に似た白い両手が、トールの体へ向かっていって、床へ引き込むように、抱き寄せる。
「わたし」
メルカはトールを強く抱きしめる。
ほとんど力の入らない体ではあったけれど、トールは抵抗することなく、メルカの腕の中に収まった。
「あなたを、貴方だけを、愛しています」
「どこへも行かないから傍において」
メルカが掠れた声で懇願を、たったひとつの決意を囁いた。
「貴方の居る場所が地獄であっても、私はそこへ堕ちていく」
メルカには今のトールの顔は見えない。
けれど床とメルカの背の間に、トールの両手が恐る恐るといった風に差し入れられ、メルカの華奢な背に回る。
メルカも、トールも、ほんの少し、弱弱しくしか相手を引き寄せられない。
ただ、床へ倒れ込んだ2人は、互いの呼吸の音だけ聞いて、ずうっと離れないでいた。
活動報告が上がります
タイトル→GARNET CROW 「flying」より




