16 お似合いのダンス
メルカの背後から物音が聞こえ、振り返ればトールが隣の木にもたれるようにして立っていた。
体重をかけた際に枝が落ちたのか、トールの身体の前で拳を強く握った手が中途半端に伸ばされていた。
「……! トール様!?」
メルカは、トールの常に隙なく整えられていた身なりが泥で汚れ、ところどころ傷が入っている惨状に驚いて表情を硬くする。
その上、トールの顔色は血の気が引いて白く、目の下の隈が黒々と影を落としていて、具合が悪いどころではなさそうだった。
「トール様、お身体が……!」
メルカは駆け寄り、トールの身体を支えようと腕を伸ばす。
ギリ、と歯を噛みしめたトールがその手を払う音がやけに大きく響いた。
「触るな」
短い拒絶の言葉は、いつも通り、というにはあまりに……傷を感じさせる温度で、メルカは弾かれた手の痛みなど忘れるほど、心がざわついた。
どうにか治療を受けてほしい、せめて、光属性魔法の1つである魔力譲渡だけでも、けれどトールはメルカと視線を合わせることなく、口を開くことも辛そうで、メルカとの問答を挟むのも心配になるほど消耗している。
メルカが動きあぐねていると、ミカエルが硬い声で淡々と告げた。
「こっちも十分魔物は狩れたし、成績については充分でしょ。誰かさんが倒れる前に下山しよっか」
メルカとしても、この状態のトールを繁殖期の魔物が多く潜むこの山へ置いておきたくはない。
無論、メルカとミカエルが居る以上、トールに怪我を負わせるようなことはあり得ないが、メルカたちに護られる状態をトールの矜持は良しとしないだろう。
頷くメルカに、何も反応を返さないトール。
ミカエルだけが素知らぬ顔して、獣道よりは人の行き来で枝葉の払われた山道を先頭きって進んでいく。
道中出くわす魔物はミカエルが剣の一閃で斬り伏せ、メルカはトールの隣でトールを案じながらも触れられず、トールは黙り込んだまま、3人は設定時刻より随分早くに教員たちの待機する山の麓の村へ戻った。
夕刻前、生徒の欠けの無いことを確認したのち、教員と3年生たちは学院へと帰還する。
メルカはトールに、保健室へ、と懇願するも、トールは無視して校舎の方へ歩いて行った。
演習後の保健室は混む、魔力回復薬を求めて錬金棟にでも行ったのだろうか。
まだトールの去った先を気にしているメルカの意識を、ミカエルが強い意志の籠った声で引き戻す。
「メル、俺は本気だから」
ミカエルはそう言うと、メルカの返答を聞くことなく男子生徒寮の方向へと歩いていった。
メルカには負い目がある。
前世であれだけ助けてもらったミカエルに、自身の死をもって深い傷をつけていたこと。
その傷によって、あの優しく天真爛漫だった御嘉を、トールを軽蔑するミカエルへと変えたこと。
何より、交友関係は広い割に根が寂しがりで、覚にだけその心を見せてくれていた御嘉を置いて死んでしまったこと。
メルカはミカエルを突き離せない。
メルカ自身の前世への愛着、寂しさ、孤独を理解される安心感、そういったもの全てを手放したとて、ミカエルの心の、未だジクジクと血が滲む傷の様を見せられた後では、もう一度ミカエルを置いて逝ってしまうことは、してはいけないと強く思う。
だからミカエルの言うように、トールを諦めて、魔王復活を阻んで、トールと分かたれて、ミカエルと共にあることが、メルカの幸せなのだという誘いをすぐに否定することが出来なかった。
同時に、手を払われ、無視をされても、トールの顔色の悪さ、彼の今現在の体調が心配でならないし、可能なら一晩中でも傍について看病をしていたい、その権利が欲しい、と希求するトールへの恋心がある。
そのトールはずっと、父親からの承認を求めて何とか立ち続けている、砂上の楼閣のごとき心理状態を抱えた人間だと、メルカは前世から知っている。
魔王復活を阻むことはある種簡単である、クリスへその事実を伝えれば良い、今すぐにも出来る。
ただそれをして、トールの助命だけはと何とか頼み込めたとして、その後のトールの心はどうなるのだろう。
父から死を望まれるほどに憎まれている現実を知り、身分と夢を失って、平民として生活の全てが違う存在として生きていける強さは、トールには無い。
メルカは己の幸福を手放してでも、トールを救いたい。
メルカの幸福を望むミカエルを拒絶出来ない、トールを見捨てることも出来ない、メルカ自身はトールの抱える問題を解決する手段を持たない。
メルカは自分がどうすべきなのか、どうしたら良いのか、分からない。
複雑に混線した心が軋んで痛みを生み、思考に靄をかけるようだった。
討伐演習が終わると、秋も深まり、"涼しい"が"寒い"へと変わる前に、生徒会主催の夜会が開催される。
夜会は学院の伝統的催しの1つであり、春の交友会、秋の夜会、と季節を彩る代表的な、生徒たちも心待ちにしている行事である。
交友会が大規模なお茶会という、派閥を広げたり友人関係を作ったりと交友関係の基礎的な部分を構築する場であるのに対して、夜会は婚約者との仲を深め周囲へアピールする、あるいは恋愛婚約を結ぶきっかけになる場となっている。
夜会は交友会とは違い、婚約者が参加するならば必ず婚約者と連れ立って入場しなければならないという明文化された規則があり、その場合はファーストダンスも婚約者以外と踊ってはならない。
交友会よりも少し堅い場ではあるが、ファーストダンスを踊った男女は必ず結婚出来る、というジンクスがあるなど、生徒に親しまれている行事だ。
そもそも婚約者の居ない男女が夜会に共に参加し、ファーストダンスを踊るということ自体、結婚の意志がなければ起こり得ないものであるので、ファーストダンスを踊ったから結婚出来たというよりは結婚するからファーストダンスを踊る、という現象なのだが。
貴族学院の生徒、主に1~2年生男子生徒は成人前のお年頃である、ジンクスを理由付けに夜会へ誘うという動機のある方が行動に移しやすいのだろう。
男子生徒は、というのは、夜会にカップルで参加する場合、必ず男子生徒から女子生徒を誘うという不文律があり、また婚約者や誘った相手の令嬢のドレスと宝飾品一式はその男子生徒から贈る、との決まりがあるのだ。
女子生徒から夜会へ誘うのははしたない行動とされ忌避されるのだが、一応「誘ってほしいな~。」と気になる男子生徒へ匂わせる程度の行動はセーフと判定される、中々面倒な貴族社会の風習である。
ちなみに1人での参加も認められており、誰も誘えなかった悲しき令息、誰からも声のかからなかった悲しき令嬢への救済措置となっている。
夜会はそういったあぶれ者同士が縁づく場でもあるのだ。
また、特殊な事情のある高位貴族も1人参加をする場合がある。
いつまで経っても王太子である兄が婚約者を決めないから自分の婚約が先延ばしにされているカナンや、いつまで経っても王太子が婚約者を決めないから下手に婚約者を決められないユリエラなど。
この2人は毎年1人で参加し、高位貴族の義務として派閥の取りまとめなどしてダンスは踊らずに過ごしている。
下位貴族の金銭事情を鑑みて、夜会への参加自体は自由となっているが、高位貴族は体面上参加せざるを得ない。
何事もないのに夜会を欠席すると、派閥内で諍いが起こった時などの対処が遅れる上、ダンスに自信がないのか、などと微妙に軽んじられる風潮があるためだ。
よって、父侯爵の名を重んじるトールは夜会に参加する。
無論、メルカは1年生の頃から、ただの1度も、トールから夜会に誘われたことが無いし、当然ドレス一式、宝飾品の1つだって贈られたことが無い。
しかしトールが参加する以上メルカは夜会に参加するし、ドレスや宝飾品は自前で用意する。
結果、トールから贈られた風のトール色のドレスと宝飾品を自腹で揃えて身に纏ったメルカがニッコニコでベッタリとくっついて回り、トールは去年までの2年間、婚約者と共に夜会に参加し、婚約者と(渋々ながら)ファーストダンスを踊る常識ある貴族と見られていた。
トールはあの討伐演習後、不気味なほどいつも通りに過ごし、沈黙している。
王都の学院へ戻るまでは魔力切れの関係で体調が思わしくなく、ミカエルの発言やメルカの振る舞いを詰る余裕がなかったのかと思って恐々としていたメルカは肩透かしを食らった気分というか、トールの内心が分からず不安なばかりである。
不安を紛らわせるように、朝と昼の告白劇場では大仰なくらいにドストレートな愛の告白をぶちまける言動をとっていたのだが、トールはいつも通り短く冷たく拒絶するのみだった。
そして例年通り、トールからメルカへの夜会の誘いは無く、これまた例年通りにメルカは自腹でトールの色に合わせたドレスを発注した。
「トール様! 今日もご機嫌麗しくなさげなアンニュイさが非常に蠱惑的で愛おしさに胸が高鳴ります! 是非わたくしと昼食をご一緒しませんか!?」
「嫌だ」
昼休み、トールとのそのようなやり取りを経ていつも通りミカエルに回収されたメルカは、慣れた人気のない静かな庭園のガゼボでミカエルと昼食を共にしていた。
「最近みんな夜会の話してるよね」
「まあ、もう近日のことですもの。皆さま楽しみにしているのでしょう。特に下級生は、まだ婚約者をお持ちでないことも多いですから」
「メルカはあの偏屈野郎に誘ってもらえたの?」
「トール様をそのように不敬に呼ばわるのは止しなさい……」
「つまり誘われてないと」
「…………」
複雑な面持ちで黙って俯くメルカを見て、ミカエルは「ふ~ん。」と、前世から変わらない、悪戯を思いついたときの楽し気な声音になった。
「じゃあ夜会では俺と踊ろうよ」
メルカの見上げたミカエルは、邪気の無い顔で笑っている。
誘いは無かったけれども、トールは去年までと同様参加自体はするだろう、そうなればもちろんメルカはトールへついて回ることになる。
けれど毎年、トールに無理やりくっついて動いていると、嫉妬に駆られたケムエルン侯爵家派閥内のご令嬢たちから遠回しに「ケムエルン侯爵令息は悲劇的でお気の毒。」だとか「不出来な婚約者がストーキングしてきてさぞお困りでしょう。」だとかそういった内容の、メルカ的にも正直否定しづらいチクチク言葉をぶつけられることがある。
トールが義務ファーストダンスを終え、派閥内での社交を始めたタイミングで、少しだけ離れてミカエルの相手をすることは不可能でないし、メルカとしても無駄に攻撃を受けなくて済む安心感があった。
とはいえ婚約者以外の男性と夜会で必要以上に親し気にしているのは問題視される。
「ファーストダンスの後で、1曲だけでしたら、まあ……」
メルカは眉を下げ、少し悩んでからポツリと許可を出した。
「やった~。」と嬉しそうなミカエルへ、メルカは素朴な疑問を投げる。
「ところで、ミカって夜会用の礼服をお持ちでしたの?」
教会から貴族学院へ通うにあたって、聖人としての略装は何着かあつらえてもらい、それを着回しているとは聞いていたものの、正式な礼服を作ってもらったという話は聞いていなかった。
「え? いつもの服じゃ駄目なの?」
案の定きょとんと目を丸くしたミカエルを、メルカは礼儀作法の勉強で教えたでしょうに、と半目で見やる。
「学院の行事とはいえ、夜会は正式な社交の一環と見なされますから、聖人用の衣装とはいえその略装ではいけませんわ」
「え~、マジか。めっちゃお金かかる? てか服作るとかなったらもしかして間に合わない? 何とかならない? メルえもん~」
「不敬なミカ太くんですわね~……」
呆れ顔のメルカも、日頃ユリエラを内心でユリえもん呼ばわりしている不敬を働いているので、ミカエルのことを言えたこっちゃないのだが、自分のことは見事に棚上げしている。
しかし残念そうに項垂れたミカエルを見ると罪悪感が芽生えてしまう、メルカは仕方なしに、伝家の宝刀、切り札、8切りルールの8を使うことにした。
「お兄様にお願いしてみますわ。きっと何とかなるでしょう」
持つべきものは準最高権力者の天才従兄である、クリスならどうにかしてくれるだろう、とメルカはここでも内心不敬罪を働き、頷いた。
そして何をどうしたのかは分からないが、実際どうにかなった。
夜会の前日には、ミカエルの部屋へクリスから夜会向けの聖人としての礼服が届けられた、とメルカはその日の昼食で聞いた。
「汚したら嫌だな~」
礼服のあまりの豪華さにミカエルは顔を顰めていたが、夜会に参加出来ること自体は嬉しそうである。
持つべきものは以下略、メルカはクリスへ感謝の手紙をしたためた。
夜会も当日になって、入場前、待機用の控え室で品良く座って待つメルカは普段よりずっと絢爛優美な服装をしていた。
普段下ろしている髪はアップにして、最高品質のトルマリンを5つ、ツル模様を描くプラチナの土台にはめ込んだシンプルながらも格式高いティアラをつけている。
デコルテから胸元には、薄い水色のブルーサファイアをメインストーンとし粒の大きなダイヤでメインの色を引き立たせた、豪奢なネックレスをつけ、胸元から足下では黒に近い青から明度の高い青へグラデーションを成すプリンセスラインのドレスが最高級の絹の艶めきを見せる。
ドレスの腰から下のサイドにはスリットがあって、そこから覗く薄い絹で作られた水色のチュール生地にはいくつもの小さなダイヤが散りばめられていて、ドレス全体を輝かせていた。
足下は、夜会のドレスコードに反しない7cm程度の高すぎない細いヒール、アンクルストラップのついた黒いパンプスを履いて全体を締めている。
他に繊細な総レースの肘上までを覆う手袋や、ブルートパーズの指輪、ラピスラズリのイヤリング。
王都に男爵家規模のタウンハウスの2つや3つを建てておつりが出るくらいに高価なドレスだが、メインの色が暗く、これでも装飾を控えめにした装いであって、国で唯一の公爵令嬢としては地味と言える。
トールがあまり華美な装いは好まないと昔から知っているため、メルカの被服費は全額自腹でも、公爵令嬢にしては安上がりだった。
ミカエルの礼装は、宝石類はダイヤとパールだけの透明感ある装飾で、ただ首元から指先までを覆う聖職者らしい慎ましさを示す露出度の低い服、それを構成する布の高価さと重なりの妙、刺繍の精緻さで格式を示していた。
全体的に白い絹の生地に、金糸の刺繍が施され、足下まで白い皮のストレートチップで構成された、これぞ聖なる者という出で立ちになっている。
それを纏うのが、白に近い金髪と慈愛の青紫の瞳をしたミカエルであるので、統一感があって立っているだけで品を醸し出していた。
「よく似合っていますわね、ミカ」
「メルこそ、今日はいつもと違った方向性で綺麗だね」
こう笑って褒め合う男女が婚約者同士でないというのがもう何かの間違いじゃないのか、と同じ控え室に座って入場順を待っているカナンは頭痛を堪えた。
何がカナンの頭を痛ませているかって、トールがこの場にいないことである。
もうユリエラも入場していって、そろそろトールが入場する時間であるというのに、トールが控え室へ来る気配は一向に無い。
メルカは控え室にあるトール用のテーブルを見て萎れた顔を見せはするものの、ミカエルから話しかけられればそのうち顔を明るくする。
この問題児ども~~~! とカナンはトールとメルカを揃えて詰め寄りたい気持ちに駆られたが、さすがに今回はメルカに非はない。
カナンはクリス経由で、トールが毎年メルカを夜会へ誘っていないことは聞いていたし、今年もおそらくそうなのだろう。
でも不参加ならそうと俺にだけは伝えといてくれないか!? カナンは比較的簡単に予測出来る、これから起こる事象へ考えを巡らせ、その収拾をどうしたものかと1人で内心頭を抱えていた。
生徒会の係の生徒が、ついにトールを呼びに来て、不在に怪訝げな、困惑した表情を浮かべる。
「ええと……ケムエルン侯爵令息が不参加でいらっしゃるなら、ロマリウス公爵令嬢の入場順となるのですが……」
係の生徒も顔を青くしている、主な理由はメルカの横でニコニコしているミカエルの存在であった。
「トール様は……やはり、まだ体調を崩していらっしゃるのでしょうか」
討伐演習からしばらく経っていて、体調面で無理をしている様子があるようには見えなかったが、夜が冷え込む時期でもあり、夜更かししがちなトールが風邪でも引いた可能性はある、とメルカはトールの具合を案じた。
しかしミカエルが、顔を曇らせたメルカのレースに覆われた手をひょいと取る。
「じゃあ俺と一緒に入ろ~」
こうなると思った! カナンは思わずミカエルを睨んだ。
聖人の夜会での入場順というものは、生徒会のルールでは明文化されていない。
というのも本来であれば、聖人や聖女も、教育のためどこかの伯爵程度の貴族家に所属しているものであって、その家の家格に合わせて入場するものであるからだ。
ミカエルの場合、その所属先となる貴族家が無いものだから、自分から入場すると言い出さない限りにおいては、国で最高位の令嬢であるメルカと雑談している途中に、通常の伯爵家の順番で呼びつけて良いものかと係の生徒も判断出来ず、今まで呼ぶに呼べずだったのである。
カナンはカナンで、トールの到着が遅れているだけと思っていたので、ミカエルへ強いて入場を促さなかった。
実際、トールは毎年メルカにまとわりつかれる時間を減らすため、侯爵家の入場順が始まったくらいの時間に控え室へやってきていたからだ。
それが来ないので、今、このように問題が起きている。
メルカも流石に迷った顔をして、この場での最高位にあたるカナンへ視線を送ってきた。
カナンは、俺に訊くなよとむかっ腹立てながらも、ミカエルをメルカの後に入場させるわけにはいかないと考え、そうなるとミカエルの後にメルカが入るのも2人が同時に入るのも、トールが居ない以上はほとんど同じ結果を招くだろうと予測した。
「……勝手にしろ、トールが無断で不参加を選んだのが悪いといえば悪い。最低限の節度は保てよ」
もはやカナンもこう言う他なかった。
メルカはミカエルに手を引かれて控え室を去る際、最後までトール用のテーブルを見つめていたが、それも扉が閉まれば見えなくなった。
「ロマリウス公爵令嬢……ミカエル・アルマロス殿、ご入場です!」
係の生徒がなるべく会場に響きませんように、と願って出した知らせの内容は、しかし波打つように全体へと広がり、大いに会場を騒めかせた。
呑気な顔をしているのはミカエルだけ、いや一応メルカも公爵令嬢として品格を保った優雅な笑みを浮かべてはいるが、心中穏やかでなかった。
交友会ならいざ知らず、夜会で共に入場する男女、というのは、流石に”そういう仲”と見なされても致し方ない。
トールが来ていれば、イレギュラーな順ではあるものの、ミカエルの後にトールとメルカが共に入場することになって、それならば大きな問題とはならなかったろう。
2学期の半分をかけて火消ししてきたメルカの心変わり説が、また学院中で激熱コンテンツとして大盛り上がりするに違いない。
メルカもカナンと同じ理屈でミカエルの入場を促さずにいたため、頭を抱えたい気持ちを抑えるのに必死であった。
せめて会場内では行動を別にしましょう、と不満げなミカエルを説き伏せて、メルカは適当なシャンパンのグラスを手に、出来るだけ隅の壁際に寄る。
ミカエルは会場の軽食をつまみつつ友人たちへ挨拶をしてくるそうだ、メルカも友人が居れば……今ユリエラの元へ行ったら確実にお説教が始まる。
ユリエラの体面的にも、一応の爵位の序列的にも、それは避けた方が良いだろう、ユリエラもメルカが来れば苦言を呈さざるを得ないだけで、望んではいまい。
そんなわけで出来るだけ存在感を消して会場の隅で大人しくしていたメルカであったが、噂の中心人物が注目を集めないわけはなく、当たり前に会場の噂という噂が聞えよがしに耳に入ってきた。
噂とは、飛躍するものであり、何鰭でも付きまくるものである。
メルカはとんでもない話を耳にした。
「メルカからクリスへ頼んでミカエルへ礼服が贈られた」という流れの、そもそもその話がどこから漏れたのかも不明だが、クリス部分だけが何故か消えており、「メルカがミカエルへ礼服を贈った」ということになっていた。
夜会の文脈で読み取れば、メルカは浮気者の破廉恥女で、かつミカエルへプロポーズじみたことをしたという話になる。
会場中の好奇の目に曝されて、メルカの居心地の悪さはたとえようもないほどであった。
一応、トールが遅れているだけで、途中から夜会に来るかもしれない可能性に一縷の望みをかけていたものの、影も形も見えやしない。
カナンが入場し、ファーストダンスの開始時間を少し遅らせるよう指示した気遣いも見事に無駄になり、ファーストダンスが始まってしまった。
メルカは少し和らいだ周囲からの目線に小さくため息吐いて、ここまで来なかったとなると今年トールは不参加なのだろう、と諦めをつけた。
ゆったりとしたテンポの音楽が流れる中、メルカは豪華すぎて壁の花というよりメイン絵画にしかなれていないながらも、初めての学院の夜会でぎこちなく踊る1年生だろう男女たちを眺めるなどして、気を紛らわせていた。
夜会でファーストダンスを踊る仲なだけあって、どのカップルも仄かに頬を染め、嬉しいという感情が顔や仕草から零れている。
2年前のメルカは、どんな顔をしていただろうか……時間的にも、心理的にも遠くなってしまった記憶を辿るも、トールの不本意極まりないといった仏頂面しか思い出せなかった。
1曲目が終わる頃、友人の男子生徒たちから離れたミカエルがメルカの元へ戻ってくる。
ミカエルは片手のシャンパングラスを空にしており、もう片方の手でパタパタ顔を扇いでいる。
「久々にお酒飲んだら熱くなっちゃった。ね、ちょっと外行こうよ」
アムドゥシア王国における、アルコールの扱いは雑である。
一応貴族社会においては15歳まで飲酒を避けるべきとされているのだが、庶民社会では子供でも軽いアルコールで日常的に飲酒するのは珍しくないらしい。
だからミカエルは酒を飲み慣れていてもおかしくないはずなのだが……。
そういえばミカエルは、前世から酒には弱かった。
メルカもそう強い方ではなかったけれども、御嘉はワイングラス1杯で酔ってしまうくらいには弱かったこと、前世で20歳になったとき御嘉と一緒に開けたワインボトルのほとんどを覚が飲み干す羽目になったことを思い出す。
実際ミカエルの頬は少し赤くなっていて、友人と話し、軽食をつまみながら飲んでいたらペースを間違えて酔ってしまったのだろうと想像ついた。
会場にいてもすることが無いのは事実であったし、居心地の悪さは大層なものだったので、メルカは1つ頷いて夜会会場であるダンスホールから続く庭園へと出る。
庭園は完全な暗闇を作らないよう、各所に光魔法の魔道具が煌々と灯されており、秋咲きの薔薇が暗がりの中でも色彩を主張していた。
羽目を外して暗がりで一線を超えるカップルが出ないようにと、定期的に生徒会メンバーが見回りをしているらしいとは聞いたことがある。
ファーストダンスの曲の直後であるからか、その見回りの生徒や他のカップルは庭園に出ておらず、メルカとミカエルは人気のない明るい夜の庭園を散歩するように歩いていった。
メルカの1歩先を進むミカエルは鼻唄を鳴らして機嫌良さそうだ、居心地の悪すぎた会場からメルカを連れ出す気遣いと、酔いを醒ましたいという建前と、おそらく半々ずつくらいなのだろうな、とメルカは苦笑した。
「ミカ、会場から連れ出してくれてありがとう。針の筵の気分でしたから、助かりました」
そうメルカが言葉にする頃、歩いて行った先で、明かりがあるのはここまでですよと区切りをつけるように、開けた場所へ出た。
月と魔道具に照らされた庭の広場の中心には小さな噴水があり、視界の両端に1つずつベンチがある。
メルカが既視感を口にする前に、ミカエルがメルカを振り返って、頭上に広がる夜空と同じ色の瞳を和らげて返事をした。
「お礼なんて要らない、けど」
そう言ってからミカエルは、メルカの右手をとって口づけ、僅かに熱を孕んだ目で囁く。
「麗しき方、私に慈悲をくださるなら、今ひと時、この手をとってもよろしいですか」
それは上位の貴族令嬢をダンスに誘う際の正式な手順と口上であった。
メルカは今日ファーストダンスを踊っていない、トールが居なかったからだ。
ファーストダンスの時間は終わっているとはいえ、このままミカエルと踊ったなら、それは明確に夜会の規範に反することとなる。
しかし今は誰も見ていない、ミカの瞳の熱は何? トール様はどうしていらっしゃらないのだろう、ミカはお酒に酔っている? ダンスは断るべきだ、でも御嘉は親友で、ミカエルでもあって。
メルカはミカエルの、いつもとは明確に違う、メルカを見上げる瞳の温度に混乱した。
ミカは、メルの、親友だ。
親友ならダンスを踊ってもおかしくはない、けれどメルカにとっての今日の、学院の夜会の最後のファーストダンスで、トールは居なくて、ここにはミカエルとメルカしか居なくて。
会場の方からは、次のダンスの曲の入りが聞こえてきている。
ミカエルはメルカの複雑な立ち位置のために、庭園へ出てきてしまった。
その上、入場の時の騒ぎと討伐演習の時のチーム分けの結果を思えば、ミカエルとダンスを踊ってくれる勇気ある令嬢は見つからないだろうとも思う。
これを断れば、今後聖人として必要になる女性のエスコート経験、ダンスの経験を、ミカエルから奪うことになってしまうのではないか。
そう思うと、メルカは少しだけ震える声を隠すように、囁き返した。
「よ、ろしくてよ」
その囁き合いと、夜の庭で小さく身を寄せて、離れた会場からの小さな調べに合わせてダンスを踊る2人の姿は、それこそ1枚のスチルのように完成された、恋人同士同然の姿だった。
白と金のミカエルの正装が月明りと光魔道具の中キラキラと輝いて、メルカの暗い色のドレスと対になっているような見映えの良さ。
月光に輝く花々の夜露も、ドレスの宝石も、何もかもが2人を祝福しているようだ。
ダンスの間、メルカはミカエルの、トールより少し高い背を見上げる。
ミカエルはメルカを気遣うよう、酔っているとは思えないしっかりとした足取りで優しいステップを踏む。
こちらを見下ろす2つの瞳には温かい感情が滲んでいて、ミカエルは嬉しそうにメルカを見つめていた。
そこには確かに、安心感があった。
トールとのダンスはいつも、絶対に失敗しないように気を付けて、その合間にトールの、心底からメルカを厭うているといった顔の、逸らされた瞳を見上げるものだった。
でも、それでも、メルカはそのたったひと時、トールに触れて、彼の体温を感じられて、まるで恋人同士みたいに身を寄せられる時間が、何より――。
「素晴らしい夜を、ありがとうございました。貴女の今夜の輝きにこの手を添えることが叶い、光栄に存じます」
1曲が終わり、ミカエルは終わりの口上を述べた。
それはメルカが教えた通りの作法で、交友会の頃にはあったぎこちなさが抜けて、すっかり一人前の紳士に見える。
「わたくしも、楽しいひと時を分けていただけました」
メルカが追憶を振り切ってよく出来ました、と微笑めば、ミカエルは急に真面目な雰囲気を崩し、悪戯成功、とばかりに笑った。
「これで原作通りだね」
原作、といえば『聖ヒロ』のこと以外にあり得ない。
そう、先ほどの既視感、この噴水のある夜の小さな庭園は、メルカの記憶にもしっかり残っている、『聖ヒロ』ゲームのスチルの舞台だった。
聖女と踊りたがる令息から攻略対象が夜の庭へと逃がしてくれ、ヒロインと攻略対象は2人きり、噴水の前で静かに踊る、そういうスチルを獲得出来るのが、この夜会というイベントだった。
それはヒロインのファーストダンスであり、攻略対象によって構図もヒロインの衣装も変わるということで、色物が混じる『聖ヒロ』のスチルの中では屈指の人気を誇る場面だ。
「……ミシェルじゃありませんし、相手もメルカ・ロマリウスですけれどね」
何の因果か、ここにいるのはミカエルとヤンデレホラー令嬢なのだ。
原作通りの場所で起こった、あまりに原作と乖離した構図が面白くて、メルカも思わず笑い返す。
その時、庭園の、光魔道具の無い方向から、茂みの動く音がして、見回りの生徒だろうか、とメルカは何気なく視線を向けた。
そこには、庭園の外から来たのだろうトールが立っていて、能面のように消え去った表情の中で、僅かも感情の見えない目をメルカへ向けていた。
「トール、さま……!」
ダンスの直後で、メルカとミカエルは肩が触れ合うほど距離が近い。
その距離の中、2人して笑っていた、楽し気に。
トールの名前を呼んだメルカではあったが、この状況では何を言っても言い訳にしかならない。
メルカはファーストダンスを、ミカエルと踊った。
二の句が継げないでいるメルカの前、トールとの視線の間に、自然な素振りでミカエルが割り込み、無言でトールを見返す。
それに対して、激昂するかと思われたトールはその予想に反し、黙ったまま会場とは逆方向、庭園の先の暗がりへと去って行った。




