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15 逃げちゃわない?


前世日本において、山で遭難した際の正しい対処法は主に3つの行動とされている。


下山しようとせずその場を動かない、警察に通報する、救助を待つ、これらである。


それぞれに理由は様々あるらしいが、中学校のレクリエーション以外の山の記憶をあまり持たないメルカは詳細に覚えていない。


就職した後は仕事か買い物か『聖ヒロ』のリアルイベントかミカから誘われる以外ではあまり外にも出なかったインドア人間だったので、アウトドア知識が薄いのだ。


そんなメルカには、今現在の自分たちの行動が正しいのか判断つかないところである。


現在、メルカとミカエルは、アンヘリア山を上へ下へと練り歩いて、トールを捜索しているところだ。


討伐演習では、山の麓の村で実技演習科目担当の教員たちが非常時に備えて待機しており、山を降りればトールを一緒に探してもらうことも可能である。


ただし、信号魔道具を使用した場合と同様、成績には大きな失点がつく。


トールは強いし、水と食料も1人分持っている。


勝手に下山して教員へ救助を求めた場合、トールがピンピンしていたらプンプンされる、では済まない大激怒が待っているだろう。


そういった理由から、演習の時間いっぱいを使って自力での合流を目指した方が良いという結論に至ったのだ。


アンヘリア山は王都近郊の魔物出現場所であることもあり、元冒険者であるミカエルにとっては慣れた山であって、いざとなればミカエルとメルカだけで下山することは容易である。


ただ、演習終わりにチームのメンバーが揃っていない場合も成績はほとんど最低点に近くなるので、メルカほど必死ではなくとも、ミカエルもそれなり真面目にトールを捜索している。


その間、メルカはミカエルと移動しつつ、トールと分断されるに至った事態の解説を受けていた。



「ジェイソンベアは夏頃が繁殖期で、秋の今くらいの時期は母熊が子熊と一緒に行動してるんだよね。大体すべての生き物はそうだけど、子供を守ろうとする母親の気性の荒さってのはもの凄くてさ。ジェイソンベアの子熊の肉は柔らかいからそれなりの値段で売れるんだけど、子熊を狩る際は先に母熊を狩っておかないと、子供を失って怒り狂った母熊の猛攻に曝される」


「あのとき魔力、と言っていましたけれど、特定の条件下で起こる魔物の魔力変質が起きていたということですの?」


「そう。目を確認してないから確実とは言えないけど、あの魔法の威力から考えるとね。子熊を失った母親のジェイソンベアは魔力変質を起こして、自分が死ぬまで仇を攻撃するようになる。ジェイソンベアお馴染みの風魔法の威力は大体元の2~3倍にはなると言われてて、だから金持ちの商人の依頼でもない限り、冒険者はジェイソンベアの子熊は狩らない。割に合わないから」



特定の条件下で起こる魔物の魔力変質、というのは『聖ヒロ』公式設定資料集192~193ページに載っていた現象である。


『聖ヒロ』原作ゲームにおいて魔物の行動パターンが一定の条件を踏むと変わる仕様(攻略サイトなどでは変異種と呼称されていた)があり、その理由付けが解説されていた。


魔物を怒らせる行動や、生態を乱す行動をとると発生しやすい、基本的には瞳が灰色と赤色に変化し、通常種よりも強くなる、雑に言えばそんな感じのことが書かれていたのだ。


魔物にも生態や感情がある、という微妙に経験値ソースにしづらくなる情報を入れてくるあたりが『聖ヒロ』開発の嫌なところである。


ちなみに人間が魔王の器になるのも、人間という魔力をもった存在が一定の条件下で魔力を変質させた結果である、ということで、あながち無駄な設定と切り捨てることも出来ない、作りこんでいるのか適当やってるのか分からないゲームだった。



「ていうか、この時期のアンヘリア山での演習って時点で違和感はあったけど、つまりは貴族学院の生徒に繁殖期の魔物の間引きをさせようって魂胆だったわけね。冒険者はこの時期寄り付きたがらないし、兵士を動かすと国庫の金が動くし、でまあ国家運営としては合理的なのかもしれないけど」


「そうなんですのね。学院の伝統的行事とのことですから、そういった裏があるとは知りませんでしたわ」



ぼやくミカエルに、メルカは周囲の風景を観察しながら感心していた。


紅葉して色づいた葉が地面を覆う秋の山は綺麗で、てっきり貴族学院らしい景色を楽しむ目的を兼ねての演習なのかと思っていた。


思い返せば『聖ヒロ』原作ゲームにおいても戦闘能力のレベリングは討伐演習イベントの時期が最も効率的、とあったし、繁殖期と言われれば納得いくものがある。


メルカは深層の令嬢、というよりトールのストーカーとして立派にやっていたため、普段の魔物との遭遇率など知る由もなく、それなりの頻度で出現するそれらの数をそんなものだと思っていたのだが、ミカエルに言わせると「多すぎ」らしい。


確かに、貴族学院の生徒は庶民の冒険者や下級の兵士より魔力量に優れており、よほど強い魔物に出くわさない限りは集団で狩れてしまうスペックを持つ。


貴族子女の教育にもなり、国家予算の節約にもなり、魔物の間引きも出来る、と3拍子揃った良いシステムではないだろうか。


そのような話をしつつ、メルカたち2人はミカエルの案内の元、冒険者が普段使っているという野営地を見て回るようにしてトールを捜索していた。


2人きりで行動していることや、トールが1人ではぐれている状況を他の生徒に知られるとまたロクな噂にならないということで、他の生徒のチームは極力避けつつ動いている。


どうせトールが他の生徒たちと行動を共にしていることはなかろう、とはミカエルの言であるが、それについてはメルカも同意見であった。


元々1日目の夕暮れ近くにはぐれたこともあり、捜索は野営地で一晩明かして以降も続いた。


タイムリミットは今日の夕刻であり、あまり時間的余裕はない。


だというのに頻繁に遭遇する魔物に、メルカも国家運営における意義があると理解した後ではあれど多少苛立ちを覚えていた。


戦闘自体は、ミカエルが前衛に出て魔物をその場に留めながら攻撃、メルカは後衛として遠距離攻撃やミカエルへのバフ支援、といった形で大変スムーズに終わっているのだが。



「ある意味、まともに演習が出来るようになって良かったかもね~」



倒した魔物の討伐証明部位を慣れた手つきで剥ぎ取るミカエルは手早くも、呑気であった。


メルカは昨日の夕刻のトールの疲労具合、今のトールの体調、無事かどうかが気になって、とても成績を気にする心境にはなれない。


顔を曇らせて俯くメルカを、ミカエルは全くトールの心配はしていない口調で適当に励ます。



「まあ、昨日のアイツの無双ぶりを考えれば早々死んでもいないでしょ。成績偏執野郎なんだから向こうも俺たちを探してるだろうし、流石に夕方前には合流出来るって」


「トール様は……トール様は、ご自分の傷やご負担を表に出さない方なのです。昨日も、はぐれた時には魔力を使い過ぎていましたから……心配ですの」


「ゆうて100%自業自得じゃん」


「演習前、煽りに煽ったミカが言うことではありませんわよ……。あの方は、本当はいつもいっぱいいっぱいで、成績にこだわるのも、領政や政策立案に積極的なのも、宰相閣下に認めてもらうためで……昨日だってわたくしがもう少し早く、お止め出来ていれば」


「メルは悪くないでしょ。アイツが勝手に張り切り過ぎた馬鹿ってだけだし」


「トール様も本来ああいった態度をとる方ではありませんわ。ただ、わたくしが……」



母君の仇の娘である、と言おうとして、ミカエルはそれを遮った。



「それでもメルを侮辱して傷つけて良い理由にはならない」



ミカエルにしては硬質で、尖った声だった。


メルカが顔を上げれば、メルカを真っ直ぐに見つめるミカエルが、昨日の口論の際に見たような、憎悪にも似た揺らぎを夜空色の瞳に浮かべている。



「メルは分かってない」


「何を、ですの……?」


「俺が昔どれだけ苦しんだか。メルがあのクソ親に殺されたって聞いた時、霊安室で血まみれのメルの遺体を見た時、メルの葬式をあげたとき、骨だけになったメルを前にした時、メルの遺品を整理してる時、どれだけ後悔したか」



メルカは息を呑んだ。


祇園寺覚はあの父親以外の親族と交流はなく、下手人が父親だった以上、葬式をあげるのもその後の処理をするのも、天星家の人々が中心になってくれただろうことは、よく考えれば分かること。


その中で覚のために長い髪を切った心優しい親友が、どれだけの傷を抱えたのか……メルカは想像すべきだった。



「俺はあの後警察官になって、刑事になった。メルみたいな人を救いたかったから。本当に助けたかったのは、メル1人だけだったのに」



苦々し気に顔を歪めるミカエルへ、返す言葉が浮かばない。


覚の死が御嘉の進路までも左右していたことが、どこまでも申し訳なかった。


ミカエルは悔恨と苦しみに歪んだ顔を正し、もう一度真っ直ぐに、メルカを見る。



「あの男はメルを幸せにしない」


「それ、は……」



夏季休暇の吐瀉物の臭いを思い出す。


壊れた万年筆、鉄格子、冷たい腕輪。


あの胃液の痛みと、吐瀉物より汚らわしい己の本性の自覚を、トールの見せるメルカへの歪んだ感情を想う。


肯定も否定も出来ず、それでもと口にするには、メルカの恋心はまだミカエルの前世からの傷を超えられるほどのしかとした形をとりかねていた。


ミカエルは少し語気を和らげて、唐突に話題を変えた。



「アムドゥシア王国は結構デッカい国だけどさ、冒険者やってる時に聞いた話だと、余所も中々面白そうだったよ」



ミカエルは『聖ヒロ』公式設定資料集には載っていない、アムドゥシア王国の以外の国の話を始める。


魔法が無い代わり、蒸気と機械を使った文明が発達している国、砂漠のオアシスで独特の文化を織りなす国、一面の草原を渡り歩く遊牧民の一族。


メルカも公爵令嬢として学んだ中で知っていることではあったけれど、冒険者の口から聞いたという話はもっと生活に根差した内容で、アムドゥシア王国から出たことのないメルカにも色づいて聞こえるほど、庶民の心の豊かさが感じられる語りであった。



「冒険者ってあちこち行けて、危険もあるけど、夢がある。どこか住み良い国や都市に居ついて、家族を作ることだって、誰の許可も要らない」


「ミカ……?」



ミカエルの意図の読めない話ぶりに困惑するメルカへ、ミカエルはサッパリとした口調で誘いをかけた。



「卒業したらさ、2人で逃げちゃわない?」







トールは赤や黄色の葉をつけた樹々の間を鈍重な足取りで歩き、頭上から差す日光の角度で時間を予測しながら、メルカを探していた。


怪我は1つもないのに、貧血にでも罹ったがごとき眩暈と体の重さに、煮えたぎる苛立ちと己への怒りを抱えながら、それでも足を動かす。


昨日の夕べ、トールはジェイソンベアの成体、かつ変異個体の攻撃により、メルカとミカエルの姿を見失っていた。


はぐれた後に気がついたが、昔読んだ魔物の生態学についての本を思い起こせば、あれはトールの狩ったジェイソンベアの親個体だったのだろう。


その証拠とばかりに、攻撃を仕掛けてきたジェイソンベアはトールではなく狩られた熊の手を持つミカエルの方を執拗に狙っており、煙幕のごとき土埃の中であの男がどう対応したかは分からないものの、おそらくはメルカを庇いながら変異した成体を相手取るのは無謀と考え、その場を離れたのだろうと推測出来る。


トールはミカエルたちを見失って暴走し始めたらしいジェイソンベアの遠距離攻撃を避け、魔法で防ぎながら応戦していた。


高速で移動して位置を変えながら遠距離攻撃を仕掛けてくる魔物をどうにか倒し、周囲を探ったときには、メルカたちは既に遠くへ退避していたようで、騒動の起きた場の近くには既に居なかった。


そのままミカエルたちの向かった方向を探そうとするも、トールは全身に重石を括り付けられたような強い疲労感を覚えて、身体が急に力を失い、その場に膝をついた。


魔力切れが近いときの症状だと、本の知識が浮かぶ。


常時展開していた索敵魔法は切れ、トールはあと1発か2発、魔法を撃ち出せば自分が意識を失うだろうと理解した。


このまま魔物と遭遇すれば、命が危ぶまれる。


トールは大規模な戦闘の余波で周辺の魔物が集まってくることが予測される騒動の場を緊急避難的に離れ、重い体を引きずってどうにか山頂近くの大きな木の洞に辿り着き、疲労困憊でそのまま倒れるように眠りについた。


眠りの中で、トールはいくつもの事柄を思い出していた。


まず、メルカとミカエルの2人と分断されたあの現場には誰の血もなく、土で汚れた熊の手が転がっているのみであった。


メルカは少なくとも、死んでいない。


あの聖人が守ったからだ。


分断された時、土煙の向こうでメルカが「トール様」と呼んでいた気がした。


勝手に名前を呼ぶな、そんな許しは出していない、そう何度言っただろうか。


許しなど、誰にも……トールは夢の中に、自身を名前で呼ぶ人間たちの顔を見る。


有能だが厄介な王太子殿下、ついでにその弟殿下、弟殿下にくっついている暑苦しい脳筋馬鹿男、そしてメルカ。


唯一、トールが望んでいる父親の声は、記憶のどこにも無かった。


生まれてこの方、父親に名前を呼ばれた記憶はない、記憶に無いものは夢にも出てこない。


トールをその名で呼ぶ声はいつも、メルカのものだった。


メルカ・ロマリウスは異常に変な女だ、これはトール以外も頷くだろう、周知の事実である。


トールは5歳の頃からずっと、その奇行に振り回されてきた。


大貴族たる公爵家の唯一の令嬢だというのに、易々と領地を離れてはトールの居る場所へついてくる。


トールは何1つとして有意義な返事をしないにもかかわらず、トールと居る間は延々とトールを褒め、他愛のない話をしてはそれにかこつけてトールを褒め、よくも語彙が尽きないものだ、公爵家の教育がこんな無駄なことに使われていて良いのか、と何度も釈然としない気持ちにさせられた。


トールが父から軽んじられていると揶揄してきた他家の令息をその場で殴って(平手でなく拳であった)、双方の親を巻き込む問題を起こしたこともあった。


野蛮過ぎる。


誕生日にはどこから聞きつけたのか、トールが学んでいる最中の他国語の紀行本や植物図鑑を送り付けて来たり、どこのものとも知れない謎の木の苗木を贈って来たり、最近のものはまだまともな部類であったが、プレゼント1つとっても奇異だ。


普通の令嬢の贈るものといえば、自分で刺繍をしたハンカチであったり、自分に近い色の装飾品であったり、そんなところだと穏やかな家庭教師から教わったときは、思わず己の婚約者の奇怪さに渋面を作った覚えがある。


メルカが異常行動を起こす度、トールは呆れ、辟易としていた。


メルカが大人しくしていたのは、王宮にいるときくらいだったろうか。


幼い頃は、メルカとトールはクリスの話し相手として頻繁に王宮へ呼ばれ、トールもクリスとはよく話をした。


トールがクリスと政治や領政について話をしている間は、メルカは、珍しくほとんど話に入ってこないで、大人しく聞き役に徹していた。


クリスは異常に頭が良い、自身の能力の高さに自負を持つトールをしてとても追いつかないと思わせるほど優れた人間である。


将来仕えることになる王太子が才気煥発な人物で良かったと思うと同時に、クリスがその優れた観察眼でもって、メルカを1から10まで理解している、という風に振舞うことには、奇妙な引っかかりを覚えた。


隔意と言えば不敬に当たる、しかし本物の兄妹のように楽し気に軽口を交わすクリスとメルカを見て、メルカのしていたように大人しく聞き役に徹することは、何故かトールには難しかった。


それはクリスという優秀な上役と話す機会を無駄にしたくないからだと思っていた。


クリスがメルカとの会話を楽しんでいることは見ていれば分かる、トールは割り込むことなく、2人の会話を無表情に聞き流していた、聞かないようにしていた。


クリスは生まれつき特別な人間で、メルカがトールの居る場でトール以外と話そうとする、という意味でも特例的な人間だった。


他の人間相手であれば、メルカはほとんど興味を示さず、ただトールを見つめて、トールだけを呼んだ。


長じれば他の子女との関りも増えて、少しはつきまとい行為もマシになるかと思いきや、メルカは変わらなかった。


国で唯一の公爵令嬢という己の立場を一顧だにせず、いつまでもトールの居る場所にだけ押しかけてくる女。


学院という他人との接点が強制的に増える場所へ入っても、メルカはトールだけを見て、トールだけを呼んだ。


「トール様」という短い響きに柔らかさを、どこまでも無邪気な情を乗せて呼ぶ声は常にメルカのものだけ、メルカの声はいつもトールのためだけのものだった。


夢の中に響くその声音が、段々と恐怖や緊張の混じったものに変わり、メルカの声はトール以外の名前を呼ぶようになった。


「ミカ」、そのたった2文字の呼び名には、今までトールだけに向けられていた柔らかさがあって、トールが聞いたことのない親しみと信頼が込められていて、どこか甘えるようですらあった。


聖人というものは、それほど偉いのか、王太子より信頼出来て、王太子より親しくなれるものなのか、よりにもよって、あの異常女が。


あの男と向き合う時のメルカの顔が嫌いだ、あの男へ向けられるメルカの感情が全て嫌いだ、あの男が、メルカが大嫌いだ。


ただの平民の癖に、たった、偶然、聖人という肩書のお陰でメルカの視界に入っただけの分際で、当然のようにメルカの隣に立ち、自分の権利と主張するかのようにメルカを庇う。


その女の居場所はそんなところではない、その女は誰かに守られるような、そんな上等な存在ではない。


トールの受けた仕打ちを、その不利益を贖うための、トールだけが触れて良い罪深い人間だ。


夢の中のミカエルへ怒鳴りつけるように、メルカを取り戻そうと手を伸ばして……そこで、目が覚めた。


体はどうにも重苦しく、衣服に染みついた汗が疎ましい。


薄暗い木の洞から外を見れば、明け方の淡い光が木々の隙間から差していた。


演習用の携帯食糧はあったが、食欲がないために、トールは手持ちの水筒の水で口の中を湿らせるに留めた。


昨夜からの魔力切れは引き続きトールの身体に影響を及ぼしており、昨夜ほどではないものの万全な状態と比べればあまりに少ない魔力に、トールは深くため息ついた。


魔力の温存のため、トールは付近に川を探して、顔を洗う。


川面に映るトールの顔は、疲れと、何か他の……グロテスクな何かの感情によって、酷く醜く映った。


顔を洗うため掬った水が、トールの指の間から零れ落ちる。


その水の様子に、夢の中で聞いた、変わっていくメルカの声を重ねて、足下が揺れるほどの怖気と、醜い顔を更に歪める頭痛を感じた。


メルカが、トールの元から去るのではないか。


トールの頭の中を侵食する声は、民間伝承の中の悪魔を思わせた。


現に今、メルカはトールの隣に居ない。


不本意ながら実力は認めざるを得ないあの聖人が容易く抜かれるとは思わないが、今、メルカの命はトールのあずかり知らぬところにあり、それがどのような危機に陥っていても、トールはそれを知ることすら出来ない。


何より、あの聖人と、2人きりで行動している。


学院で、わざとトールに聞こえるくらいの大きさで囁かれる、面白おかしくてたまらないといった愉悦混じりの噂話が過る。



「ロマリウス公爵令嬢は、アルマロスさんを選んだのでは?」



メルカが、あの聖人を選ぶ、トールの元を去って?


トールは生まれついた理不尽に対する唯一の復讐の手段を、メルカを、奪われる。


たった数ヶ月しか共に過ごしていないはずの、トールの知らない男、あのメルカが、トールの隣を去って、あの陽だまりに似た男の隣を選ぶ。


メルカの柔らかい声は全てあの聖人を呼ばうためだけに使われて、二度と「トール様」と口にしなくなるかもしれない。


今、メルカがトールの隣に居ないということは、その悍ましい想像を現実だと突き付けてくる事実だった。


トールはただ歩くのにも難儀する魔力の尽きかけた体を引きずって、メルカを探した。


魔法を行使出来る回数は限られているが故に、普段なら一瞥もなしに屠れるほどの取るに足らない魔物からも背を向けて逃げる必要があって、酷く惨めで屈辱的だった。


止むを得ず遭遇し、逃げ切れないと判断した魔物だけを殺す程度の行動しか、今のトールにはとれなかった。


索敵魔法で敵を、あるいはメルカを探すことも出来ない。


本来ならば、魔力が安定するか、学院の教員が救助に来るまで、眠るのに使った木の洞にでも隠れて時間をやり過ごすべきなのだろう。


少なくともトールの理性はそうすべきだと言っていた。


けれどトールの執着が、思い通りに動かない体を無理やり前へ、山の探索へ押し出していた。


トールは、メルカに、執着している。


その短い自覚は、トールの中に空虚に焼き付けられた。


そうして鈍間に動く中、昼も過ぎた頃だろうか、山の中腹ほどで、トールは小さな声を拾った。


メルカのものだ、トールは厭うほど聞き慣れた声を間違えない。


その声だけを頼りに進んだ先、トールは少し開けた樹々の合間へ至る。


魔物との戦闘に向いた場所だ、冒険者は魔物との接敵の際に有利に戦える、そういった場所をよく知っている、と聞いたことがある。


ミカエルに守られた(奪われた)メルカはここに居るはずだ。


目の前の木へ体重を預けるようにして枝を掴み、声の主の元へ、トールはやっと辿り着いた。


ちょうどその瞬間に、ミカエルが言った。



「卒業したら、2人で逃げちゃわない?」



トールに対し背を向けた状態で居たメルカが、その言葉を受けてどんな顔をしたのか、トールには分からなかった。


掴んだ枝が折れ、ガサリと音が鳴る。



「……! トール様!?」



振り返ったメルカの顔は笑みでなく、あの柔らかさもない、硬い驚きだけ籠った声だった。


トールの接近に気づいていたのかどうか、ミカエルは黙ったまま、疲労と魔物からの逃走で煤けたトールの無様な姿を見ていた。


トールは何も口に出来ないで、立ち尽くす。


森の木の騒めきと、どこか遠くで鳴く魔物の声だけが聞こえる山中で、3人の間には、ただ沈黙が満ちていた。

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