13 恋って決めごと
活動報告でお礼を言ったりしています。
メルカが目を覚ましたとき、目に入ったのは知っている天井だった。
というかこの2週間強で見慣れたベッドの天蓋である。
喉に焼けるような痛みがあるものの、口の中は薄っすら酸の味がするくらいで、まあ気持ちは悪いが気絶する前よりはマシといったところだ。
起き上がってみれば、吐瀉物の染みついていたはずの服は着替えさせられていて、部屋の中に饐えた臭いは少しも残っていない。
部屋の所々に花の活けられた花瓶が増えているのは臭い消しだろうか。
一応トイレも見てみたが、すっかり元の綺麗な状態だ、あの地獄みたいな吐瀉物と胃液の散乱を片付けさせられた使用人がいると思うと、いささか申し訳なさがあった。
ソファの間にあるテーブルには食器を使わず食べられる軽食が蜜蝋布のかけてある状態で置いてあったが、まだ胃のあたりが疼く――どうにも頭がぼんやりする。
霧がかかった思考を無理に動かしたら、また悍ましさに反応した身体症状が出そうであったため、ベッド横のサイドテーブルに置かれた水差しの水を飲むだけにして、メルカは再びベッドに潜った。
あれだけ酷く吐き散らかした割に、体はさほど重くない。
問題は気分の方だった、今までのこと、今のこと、これからのこと。
トールはやはり今のまま監禁を続けるのだろうか、今夜もこの部屋を訪れるのだろうか。
その時メルカは……どんな顔をして、何を言えば良いのだろう。
思考の奥、脳が警鐘を鳴らす、深く考えてはいけない、また苦しみと痛みがやってくるぞと。
頭を曇らせる頭痛未満の呆然を、メルカはしばらくそのままに、ベッドの上で上体を起こしてしばらく呆けていた。
どのくらい時間が経ったかは分からない、そもそも、メルカが気絶してからどのくらいの時間が経っているのかも……時報代わりの食欲が壊れているので、ハッキリとしない。
少なくとも窓の外は明るく、昼間であることだけは分かった。
そんな世と隔絶された部屋に、いつもとは少し調子の違うノックの音が響く。
開錠音と共に部屋へ入ってきたのは、いつも食事を運んでくる人ではない侍女で、見覚えのある服を手にしていた。
さらわれた日にメルカが着ていたドレスである。
この部屋のクローゼットルームにある服はゆったりとしていて、1人で着ることも苦ではない造りだったが、その服は侍女の手伝いが必要な部類だ。
見慣れぬ侍女はメルカが起きているのを確認してからテキパキとした口調で「お召替えをお手伝いいたします。」と言った。
メルカがわけもわからぬうちに、侍女はメルカをベッドから出して着替えさせ、ずっと嵌まったままでメルカの腕に痕をつけていた魔法封じの腕輪を正規の鍵で外す。
「お食事はよろしいですか」
「え? ああ、そうね……食欲がありませんの」
蜜蝋布がかけられたままの軽食をチラと見た侍女の確認に、メルカは状況を理解出来ていないまま頷く。
それを確認すると、侍女は整った所作で「玄関ホールへご案内します。」と頭を下げ、メルカを部屋から出して邸内を先導する。
何がどうなっているのか分からないが、侍女に詳細を尋ねても答える権限を持っていないかもしれない、メルカは疑問符だらけで侍女の後をついていく。
廊下をしばらく歩き、階段を1つ降りて、またしばらく歩いて――飴色が美しいオーク材の大きな扉を侍女が開け、そこから出れば、広い玄関ホールを2階の高さから見下ろす位置であった。
侍女が先導して階段を降りていくのでついていくと、玄関ホールの階段の踊り場、最も目立つところに儚げな美人の肖像画が飾ってある。
柔らかい曲線を描く金の髪に、深い緑の瞳で微笑む彼女は、『聖ヒロ』公式設定資料集182ページに記載のあったトールの生母、故ケムエルン侯爵夫人、シェーラだろう。
これがメルカの生母が苛め抜いて死に追いやった女性か、と思えば居たたまれなさに手を合わせたくなったが、『聖ヒロ』の世界に仏教はない、妙な目で見られることは簡単に予測がついたので、頭の中でのみ、謝罪をしておいた。
肖像画をよくよく見ると、何だか不思議な既視感を覚える。
トールの生母だから、顔の雰囲気が似ているのだろうか……いやあまり似ていない、トールの微笑みなんて見たことも無いし。
そんなことを考えてぼんやりしているメルカへ、階段の下のホールから、空気を読まない明るい声がかかった。
「おおい、ロマリウス! 元気してたか~!」
「ゲッ」
その声の主を見て、メルカは思わず令嬢らしからぬ呻きを小声で吐き出した。
玄関ホールにはトールの後ろ姿と、トールより頭1つ分大きな背丈と大柄な体を持つ同い年の男の、人懐っこい笑顔が見えた。
その男は色の濃い茶髪を短く刈り込んで、琥珀色の目を大きく開き、健康的に日に焼けた腕をメルカへ向けてブンブンと振っている。
ラハバット侯爵家嫡男、次期騎士団長とも言われている、『聖ヒロ』攻略対象の1人、マクス・ラハバットである。
別名脳筋剣術馬鹿、勉強が苦手で魔法の扱いに難があり、『聖ヒロ』では底抜けの明るさの裏に自分が父の跡を継げるのかと不安を抱いている、そういうキャラクターであった。
その辺りはすごくどうでもいいのだが、コイツは次期宰相と目されているトールに何らかの親近感を覚えているらしく、幼い頃からメルカの居ない隙にトールへ話しかけては冷たくあしらわれ、それで懲りないどころか学院に入ってからは「勉強を教えてくれ!」と厚かましくもトールへ頼み込んでは拒否されている厄介男なのだ。
前世ではコイツとトールの腐った関係性を妄想した薄い本なども出ていた、解釈違い甚だしい。
つまりコイツはメルカの敵だ、いや、勝手にメルカが敵視しているだけなのだが。
何故ならメルカは、同担拒否であるので。
メルカは貴族としての礼をゴミ箱に叩きこんでいるといって過言でない、笑みのえの字もない無の表情で声音に宿る険も隠さずマクスの方へ向かった。
「ごきげんよう。ラハバット侯爵令息がどうしてこちらへ?」
塩の塊でも削っているかのごとき棒読みで挨拶するメルカへ、全く気にした様子のないマクスは笑って答える。
「カナン殿下がロマリウスと話したいんだってさ! 俺はそのおつかい!」
「名代ということですわね、ご苦労様です」
メルカはちっとも労わる気持ちを乗せていない声で適当に返事をした。
スンとした顔のまま、メルカは思考を巡らせた。
マクスは1ミリも理解していないだろうが、これはカナンの意志ではなく、クリスの指示だろう。
恐らく、千里に渡ると言っても誇張表現にならない優れ過ぎたクリスの耳目にメルカの不調の情報が引っかかり、王太子の立場で動くと事が大きくなることから、事情を知らないはずのカナンの名前を使って迎えを寄越してくれた、そんなところだと予想する。
つい先日、助けてあげられないよと釘を刺していた割には甘い対応だ、何かメルカが必要になる事態でも起きたのだろうか。
「じゃあトール! 俺はロマリウスを連れて王都に戻るぜ! また休み明けにな!」
マクスが満面の笑みで話しかける相手へ、メルカも腹をくくって視線を向ける。
トールはやはり白く見えるほど顔色悪い様子の、不機嫌極まりないしかめ面で、マクスとメルカを睨んでいる。
「勝手に名前を呼ぶな。鬱陶しい」
「そうですわよ、礼儀というものを弁えてはいかが?」
トールのマクスへの拒絶に、メルカもそうだそうだと言っていますをするが、トールはメルカに対しても「僕はお前にも許してない。」と釘を刺した。
肩を落とすメルカに、わははと笑うマクス。
なにわろてんねん、メルカはマクスをひっそりと睨んだ。
しかしこの流れで行くと、このままメルカは王都に戻ることとなるのだろう。
最後に交わした会話があの調子であり、メルカは伝えたかったことを何も伝えられていない。
今となっては、何を伝えれば良いのかもわからない。
「トール様……」
眉を下げ、トールの様子を伺う。
このままメルカが戻っても良いのか、そう問いたいメルカと視線を合わせることなく、トールは2人へ背を向けた。
「僕は公務で忙しい。さっさとその女を連れていけ」
「おう! お前もちゃんと飯食えよな~!」
シリアスな空気を吹き飛ばす、底抜けに明るい、言い換えると考えなしのすっとこどっこいの声を最後に、メルカはケムエルン侯爵家本邸を去ることになった。
本邸を出たところで、マクスはメルカの長年の塩対応を意にも介していない様子でにこにこと話しかけてくる。
「ロマリウスと一緒に行動するのって珍しいよな! 王都までよろしく!」
きらりと白い歯を見せて笑うマクスに、メルカはげんなりとした顔を隠せなかった。
当然馬車は分かれるとしても、コイツと一緒に王都へ戻るのか……暑苦しい・鬱陶しい・羨ましいの3拍子揃ったマクスを、メルカは嫌っている、同担拒否であるので。
男である分、マクスはメルカが一緒に居られない間もトールと話すことが出来るし、何か勝手にトールの友人を自称しているし、妬ましいことこの上ない。
率直に逆恨みと理不尽な妬み嫉みである。
王都への旅路はメルカの深々としたため息から始まった。
ケムエルン侯爵領領都から王都までは、急がなければ馬車で2日ほどの道程である。
必然、メルカは朝・昼・晩の3回の食事を2日分、つまり6回もマクスと食事を共にすることになってしまった。
メルカはマクスの顔を見て話さないし、返事もほぼ「はあ」か「そうですか」の2択であるというのに、マクスは全くめげることなくメルカへ話しかけ続けた。
めげるっていうか、多分メルカの反応もよく見ていないし理解もしていない。
マクスの口から出てくるのは、大体剣術の話か、カナンの昔話か、カナンの最近の話か、剣術の話か、筋肉の話だった。
うるせ〜~~!
知らね~~~!
なるほど、これが5歳からほぼ毎日続いたらノイローゼになるかもしれない。
メルカは己の行いの罪深さを、このタイミングでまざまざ見せつけられ、二重に辟易した。
マクスはうるさいし、自分の過去からの行いは完全なる迷惑行為であることが身に染みて分かってしまうし、自己嫌悪もどん底まで行こうというもの。
その心労のせいか、メルカはうっかりマクスの話題に乗ってしまった。
夜は火を焚く関係上、どうしても至近距離での会話になり、マクスの話がメルカの耳を右から左へ抜けていく。
小麦色の男性らしさが前面に出たマクスの顔を、焚火の赤がゆらゆら照らしている中で、マクスは突拍子も無くトールの話を始めた。
「それにしてもトールって頭良いしもう家の仕事も任されてるし、スッゲー奴だよな~!」
「……当たり前です。トール様は素晴らしい才能をお持ちな上、持って生まれたものにあぐらをかくことなく努力でご自身を磨き続けていらっしゃるのですから」
「うん? よくわかんねーけどトールは頑張り屋って話だよな! 俺もそう思う!」
「よく分からないのにトール様のことを分かった風に語るのはお止しになって。わたくしの方がずっと……」
ずっと、そこで不意にメルカは言葉を切った。
ずっと、何だろう、トール様を理解している? トール様のことが好き? トール様の役に立ってきた?
どの言葉も頭に浮かんではそのおこがましさに胃の腑が疼いて、胃酸の味を思い出す。
突然俯いて黙り込んだメルカへ、察するとか気遣うとかいう能力を全く持ち合わせていないマクスは、無神経にも地雷を踏み抜く。
「そういやトールとは仲直りしたのか? 俺はロマリウスの恋、応援してるぜ!」
「恋……ですか」
そもそも別れ際のあの雰囲気で仲直りが出来ていると欠片ほどでも思える辺りが、脳筋馬鹿そのものである。
メルカが恋という言葉を口にしたときの重々しい様子に、マクスは首を傾げた。
「わたくしは……トール様に、恋をしているのでしょうか」
「はあ?」
マクスは漫画的表現の目を点にするという言葉がピッタリ合うような顔で、眉を上げ、目と口を大きく丸く開いて固まった。
人が大真面目に悩みを吐露したというのに何だその顔は、額縁でも持ってきて「馬鹿ヅラ」とプレートを提げてやろうか、とメルカは思ったが、17年の令嬢経験をもって呑み込んだ。
「ロマリウスがトールのこと好きじゃないなら、恋って何なんだ? 俺わかんなくなっちまうよ」
貴方はこの世の半分以上の事柄を分かっていないのではないかしら、と言うのも我慢し、メルカはぐっと黙り込む。
「俺だったら、好きじゃねー奴とあんなに一緒にいようとはしないぜ? スゲー嫌がられてるしな!」
ガハハと笑ったデリカシー欠如野郎のデカい口に燃えている薪を1本突っこんでやろうかとメルカは思ったものの、辛うじて乾パンをぶち込むだけに済ませた。
マクスがふがふがと言っている間に、メルカは暫し思考を巡らせる。
メルカの感情は、見返りを求めない、悪く言えば相手の感情を蔑ろにした押し付けであった。
けれどまあ、目の前にいる口いっぱいの乾パンで顔が変形している脳筋野郎の言うことも一理はある。
この12年間のメルカの行動は、トールを好きだという気持ちは、嘘か本当か。
己の醜さに恥じ入り、消え去りたくなる自己嫌悪とは別に、どうしてもトールを1人にしたくない、トールを死なせたくない、トールの傍に居たいという心の底をチリチリ焦がすほどの感情があるのを感じる。
前世から変わらない、メルカの、初めての、大切な恋心だ。
それが本物でなければ、12年も、解釈合致と誤魔化しながらトールへ付きまとうことは出来なかった。
ひとまず、メルカはトールに恋をしている、これだけは間違いないのだろう。
細く息を吐いて、スープに浸した乾パンを呑み込む。
マクスの言がきっかけというのは、本当に、まったく、心の底から、癪なことこの上ないが、ぐるぐると迷宮に迷い込んでいたメルカの心が多少なり落ち着いたのは事実だ。
「お礼を申し上げますわ、形式上だけ」
スープを飲み切ってしまって、メルカは焚火の前から立ち去る。
まだもしゃもしゃと乾パンを咀嚼しながら、「ほあいうふももーひょいはへはほうはいーほー。」と謎の声を上げる礼儀のなっていない野蛮人マクスを放置し、メルカは食器類をラハバット侯爵家の従者へ任せ、自分用のテントへ入る。
キャンプ用の寝具に包まって、眠る前に想うのはやはりトールのことだった。
あの広い邸に彼を1人置いてきてしまった、逃げてきてしまった、その後悔を言葉に出来ず、瞼の裏で反芻しながら眠りに落ちた。
2日の旅程を経て、無事王都に着き、王宮へ上がる際にマクスとは別れた。
学院外でのマクスは普段、騎士団の訓練所かカナンの執務室に居る、という設定だった気がする。
あまりにもどうでもいいので記憶が定かでないが、まあマクスと行動が分かれるということは当初のメルカの予測は当たっているのだろう。
予測通りに、メルカはカナンではなくクリスの私室へ通される。
王太子の庭園のガゼボではなく私室に呼ばれるというのは、本当に親しい間柄の相手と私的な話をするときだけだ。
メルカが従妹で、他に婚約者を持つ身とはいえ、本来であれば適齢期の令嬢を通すべき場所ではない。
それを押して私室に呼ぶのだから、クリスは今まで感じていたよりもメルカに甘い、のかもしれない。
今更気づくのも失礼な話だけれども、少なくとも、玩具として楽しむのと同程度には親しみも抱いているようだ。
近衛騎士に案内され、王太子の私室へ入り、背後で扉が閉まると同時に、ぶつかるくらいの勢いで抱きしめられる。
メルカは思わず悲鳴をあげかけてから、メルカの頭の斜め上ほどにぐりぐりとこすりつけられる頭の、白金の髪を見て、それがミカエルだと分かった。
驚いて固くしていた体から力が抜ける。
「メル、メル……!」
男性らしい低さでありながらも清澄な雰囲気を持つその声を聞くのを、やけに久しぶりに感じた。
思えば学院の終業式まではほとんど一緒に行動していたのだ、2週間と少しとはいえ、離れていた期間が長く感じられるのも道理だろう。
「ミカ……心配をかけたのは悪かったのですけれど、ここは王太子殿下の私室ですのよ。一旦離れなさいな」
そう言っても、ミカエルは中々メルカを話さなかった。
「だって……また喪うかと思った……」
そう涙声で言われては、メルカも無碍には出来ない。
前世での覚の死は、御嘉にとって家族を喪うに等しい出来事だったのだろうと、容易に想像がつく。
彼女がその後どうしていたのかは聞きづらくて聞いていなかったけれど、これを機に尋ねてみても良いのかもしれない。
時間にして3分ほど、ミカエルがメルメル鳴く新手の動物のごとくになっていたところで、部屋の奥からクリスの声がかかる。
「その辺にしておいてくれるかな、話が出来ないからね」
「ぐぬぬ……」
ミカエルは渋々とメルカから離れた。
メルカもそろそろ潰れそうだと感じていたので、ありがたい助け舟である。
抱きしめられている間、メルカは前世と今世の"ミカ"の身体の違いというものを、不意に実感していた。
前世では抱きしめられても柔らかく優しい香りのしていた同性の御嘉が、今世では固い胸板に筋肉の力強さを感じるミカエルとなっている。
これもまた今更ではあるが、今のミカエルは間違いなく男性なのだという実感を得て、にわかに寂しさを感じた。
ミカエルに乱された身だしなみを軽く整えて、メルカは部屋の奥に座って机に肘をつき、心中の読めない笑みを浮かべているクリスへ向き合う。
「自覚は出来たかい? メルカ」
クリスはまずそれだけを問うた。
「…………はい、お兄様」
クリスはずっと前から察していたのだろう、トールの心境の変化と、メルカの歪んだ心のことを。
それを言葉で教えなかったのはいつもの面白くないから、ではなくて、きっとトールとメルカの2人でしか解決し得ない問題だからだ。
暗い顔で俯くメルカの頭を、隣からミカエルが撫でる。
「……ミカ、私室とはいえ王太子殿下の御前ですよ。礼を失する行為はお止しなさい」
メルカのお小言に、ミカエルはけろりと返した。
「いや、この2週間以上ほとんど一緒に居たし、今更感あるっていうか」
「はい? ミカ、貴方、今まで何をしてましたの?」
「稽古つけてもらってた、みたいな?」
あざとく小首を傾げたミカエルを胡乱な顔で見上げてしまう。
案の定、クリスから半分面白がっていて、半分呆れているという器用な声音で注釈があった。
「ミカエルはメルカを助けに行くって言ってきかなくてね、私が居る間は私が片手間に押さえられていたから問題なかったのだけれど、私が居ない間は残った近衛が総出で止めるほどの騒ぎを起こしていたらしい。私にとっては愉快極まりない話とはいえ、近衛たちには災難だったろうね」
「ミカ…………」
王宮でのマナーについても散々教え込んだはずだが、この2週間と少しの間で活用されることはなかったらしい。
メルカが額を押さえていると、更に追加で行状が足される。
「その上メルカが体調を崩した話をどこからか聞き出したらしくてね。私を殺してでもケムエルン侯爵領に行く気満々だったから、カナンの名前まで借りて何とか宥めたというわけだ。ラハバット侯爵令息が体力馬鹿で助かったよ、本来2日の道を半日で駆けさせたものだから」
クリスの今回の対応はメルカに対する甘さというより、ミカエルの引き起こしたものであったらしい。
「ミカ……! こともあろうに王太子殿下を弑しようとはどういうことですか……!」
「だってぇ……」
「だってもかかしもありませんわ! いくらクリスお兄様が殺しても死なないだろう人間離れした有能さを誇るとはいえ、無礼を超えて狼藉に至ってしまえば、わたくしでも庇いきれませんのよ!」
「私これ貶されてるの? 褒められてるの?」
メルカがミカエルの立場を慮って叱っていることが分かっているミカエルは、尻尾を下げた大型犬のように萎れている。
メルカはメルカでそれなりの暴言を口にしていたが、幸い私室内にはクリスとメルカとミカエルの3人しかいなかったので、クリスがクスクスと笑うだけで済んだ。
「まあまあ、元はといえばメルカとトールの関係の拗れが発端なのだし、私は面白かったし」
小一時間は続きそうなメルカの説教をクリスが笑顔で遮る。
「つい先日王宮を離れたこともあって、片付けるべき仕事も残っている。カナンに埋め合わせをしてあげる時間も必要だし、私も暇ではないんだ。犬の躾は残りの休暇中に済ませてくれたまえ」
ヒラヒラと片手を振って退室を命じるクリスの言葉に、ミカエルは半目になって呟いた。
「権力者ってこんな横暴な物言いしても良いの?」
「お兄様ですもの、日常茶飯事ですわよ、このくらい」
「メルの周りの男ってロクなの居なくない?」
「トール様への無礼は許しませんわよ、ミカ」
「いや、私への無礼も叱っておいてね、メルカ」
そのようにわちゃわちゃと気心の知れた会話を5分ほど続けて、結局クリスの私室から出てきたのはメルカだけであった。
ミカエルは引き続き王宮に留まって、クリスの手の空いたときに戦闘訓練をつけてもらうらしい。
メルカは正直マゾか? と思ったが、生まれ変わって男の子になったミカエルは強くなることに貪欲であった。
目の前でメルカをさらわれたことも大きな理由の1つだろうと思えば、止めるのも気が咎め、メルカだけで王宮から下がることとなった。
王宮に滞在中のミカエルが脳筋あたりから変な影響を受けていないか、腑に落ちない顔をしつつも、メルカは王室の馬車で王都のロマリウス公爵家所有タウンハウスへ帰る。
帰る、と言ってもメルカがこの家に滞在するのは久しぶりだ。
基本的に学院の休暇中か、トールが王都に居る間しか使うことが無いため、ケムエルン侯爵領領都の最高級宿の最高級部屋の方がよほど滞在時間も長く、実家感が強い。
あまり見慣れぬ邸に少しの居心地の悪さを感じつつ入ってゆけば、なんとメルカがこの邸にいるよりも珍しいことに、メルカの父親であるロマリウス公爵、ユーゴ・ロマリウスが在宅だという。
メルカが邸を使う際は王宮の血族用離宮に泊まり込んでいるのが常だというのに、どういう風の吹き回しだろうか。
眉を寄せるメルカへ、家令は「ロマリウス公爵がメルカを呼んでいる」と、これまた槍でも剣でも降ってきそうな指示を伝えてきた。
今世における実父との12回目の顔合わせである、だからといってわざわざ着替えたり、着飾ったりは徒労であるので、メルカはその足で父公爵の私室へ向かった。
家令が開けた扉の向こう、部屋の中では、無表情の壮年の男性が机で手紙か何かを書いており、メルカを一瞥もしないまま「入りなさい。」とだけ命じた。
ユーゴ・ロマリウス公爵は現国王陛下の同母弟であり、王家の特徴である輝く金髪をオールバックに撫でつけた几帳面そうな表情の男性である。
瞳の色はメルカの緑に近い暗めの青緑だ。
メルカの母であるカミラは赤い髪に灰色の目をしていたという話を使用人から聞いたことがあるため、メルカを構成する色彩遺伝子のほとんどはこの男から来ているだろうことが分かる。
逆に言えばメルカは色以外で、父親との共通項を感じたことはない。
ユーゴは何事にも無欲であり、国の安定した統治にしか興味がない、そのように王家が教育したのだ、と古株の使用人が10といくつかくらいの歳の頃のメルカへ教えてくれたことがあった。
だからお父君をお恨みにならないでください、との言には、恨むも何もメルカにとってはもはやどうでもいい人間に過ぎなかったので、頷きあぐねたのだが。
そんなわけで、メルカのトールへの異常執着などは母親に似たのだろうと思われており、ユーゴはカミラというヒステリックの化身の娘に関わることを極力避けて17年を過ごしてきたのである。
それが今になって何の用だろうか、メルカが内心訝しんでいると、ユーゴは如何にも面倒がっている内心を隠さない声でメルカへ短く命じた。
「ケムエルン侯爵家との婚約を解消することは避けるべきだ。妙な噂は立てないように」
メルカはなるほどと合点がいった。
娘への無関心を極めた父親の耳にも入るほど、今回の誘拐騒動は王宮で人々の口の端に上がったのだろう。
ミカエルも随分と暴れたらしいし。
ユーゴの言葉を翻訳すれば、「ミカエルと関わるのをやめなさい」ということだと分かる。
メルカは内心で舌を出しつつ、「噂を立てているのはわたくしではなく、周囲の皆さまです。わたくしは何も、公爵家の名に恥じることはしておりませんわ。」と返した。
ユーゴは少しだけ眉を寄せ、手紙を書く手を止める。
「ミカエル・アルマロスは友人です。わたくしが愛しているのは……」
メルカの心が軋む、本当に? と問うたあの日の己の声が今も頭に染みついている、吐瀉物の臭いを思い出す。
けれどメルカは心にとぐろを巻く黒い靄に似た感情を無視し、言い切った。
「わたくしが愛しているのは、トール様だけです。婚約の解消などいたしません」
メルカの恋心は本物だ、そうでなければ立っていられない歪んだ構造があるとしても、メルカは自身への不信を振り切って断じた。
もし、そう言いきれなかったとしても、たった12回しか顔を合わせたことのない遺伝子上の父親の言葉など、ミカエルとの友情とは比べるべくもない、紙切れ以下の戯言である。
メルカが言外の命令を聞くつもりがないのを理解したユーゴは、やはり面倒そうに、小さなため息を1つだけ落とした。
「では退室して良い」
2年半ぶりの、いや学院の入学式でも話はしなかったから、実質7年ぶりだろうか、父娘の会話はものの3分で終わった。
先ほどまで、ミカエルとクリスとの3人で話していた時間の方がよほど長い。
メルカも僅かの未練もなく、さっさと父の私室から退出した。
タウンハウスの自室に戻ったメルカは、着替えるためにクローゼットルームを開け、そこにかけられたトール色のドレスの数々を見る。
メルカはトールに恋をしている。
それだけは、それだけが間違いない、たった1つの真実だ。
だから必ず、トールを破滅の運命から救ってみせる。
誓いを未だ惑いのある心に刻んで、メルカはこれからに思いを馳せた。




