12 過去→特異点→今
虐待・家庭崩壊の描写があります。
苦手な方は飛ばすことをおすすめします。
赤い2本の線が歩道の途中から曲線を描いている景色が、ずっと脳に焼き付いている。
祇園寺一家の住んでいたアパートから500mほど先にあった、交通量の多い国道の横断歩道前で起きた惨劇だった。
記憶に残る、ぎゃあぎゃあとうるさい音は覚の泣き声だった。
横断歩道前に母と手を繋いで立っていたら、突然母から道の端に投げ飛ばされ、膝や手のひらを擦りむいてとてつもなく痛かったから、泣いていた。
それに、母がいつまで経っても、覚を慰めに来てくれなかった。
いつもみたいに、いたいのいたいの、飛んでけ~って、優しい声で抱き上げてくれなかった。
それで覚はずっと自分の痛みで泣き叫んでいて、視線の先の赤い2本の線が何なのか、当時はこれっぽっちも理解していなかった。
これは覚がある程度の歳まで成長してから知ったことだが、事故の原因は年若い運転手のスピードの出し過ぎと、よそ見によるハンドル操作のミスだったらしい。
まあ、原因はさしたる問題ではない。
結果が全てだ、覚の父、祇園寺 藤の中では、覚は何より愛する妻の命を犠牲にして生き残った子供になった。
初めはまだ良かった、母の葬儀を終えた父は自室に閉じこもり、最低限の食事とトイレ以外、ほとんど出てこない期間が3ヶ月ほど続いただけだった。
だけとはいっても、当時の覚にとっては大事だった。
誰もご飯を与えてくれないから、お腹が空いては泣き叫んで母を呼んだ。
アパートの隣人が優しい壮年の女性であったことは、覚の生存にとっては幸運なことだった。
覚があまりにも泣き喚くものだから、心配して様子を見に来てくれ、定期的に食事を与えてくれたのだ。
もちろん、隣人の女性も父の部屋のドアを叩き、子供の窮状を訴えようとはしてくれたのだけれど、父は一切取り合わず、部屋から出てこなかった。
当時は児童相談所というのもあまり頼りになる制度ではなかったらしく、覚は隣人の女性の通報によって何度かその児童相談所へ連れていかれて話を聞かれたものの、最終的には父の居るアパートへ戻された。
この時点では、消極的虐待、ネグレクトだけだったことが大きかったのだろう。
当然のことながら、隣人の女性には女性の家庭があり、いつまでも赤の他人である子供にかかずらってはいられなかった。
覚の父が部屋から出てくるようになると、隣人の女性は安心したように(それはやっと他人の子供の世話から解放される、という意味合いもあったろう)覚から離れて行った。
覚の地獄はここから始まった。
閉じこもっていた3ヶ月の間に、父は必然会社を退職する形になっており、日がな一日ほとんど家に居て酒瓶を空にする作業か、フラフラと出かけて行って翌朝や昼に帰ってくるか、といった荒れた生活を送るようになった。
外に出て帰ってきた父には、アルコールと煙草の臭いが染みついており、どこか恐ろしく、覚は以前とはすっかり変わってしまった父へ無邪気に話しかけることが出来なくなっていた。
「お父さん」と呼びかけると、憎しみの籠った濁った目でじっと見下ろされるので、子供の理解力でも疎まれていることは分かる。
父がそんな調子であったので、覚は通っていた幼稚園へは当然通えなくなったのだが、覚を心配した幼稚園の教員が家へ何度か訪ねてきて、辛うじて小学校への入学手続きなどを父に代わって行ってくれた。
父も外部の人間には覚への憎しみを見せることなく、保護者のサインが必要な書類手続きなど、促されれば従っていた。
そして覚が小学校に入学する頃、お世話になった隣人女性の一家が引っ越して去っていった。
その頃からだっただろうか、覚が酒に浸った父から怒声と暴力を浴びるようになったのは。
「母親殺し」
と怒鳴られ、時には打たれ、また時にはコップや食器が投げつけられる。
覚は、小学校に上がる頃となっては流石に母がもう居ないことを理解していたが、父の怒声の意味を理解するには幼過ぎた。
ただ、「お前のせいで」「お前さえ居なければ」と父の恨みの籠った声で繰り返される毎日に、母が居なくなったのは自分のせいらしいと否応なしに認識せざるを得なかった。
自分の部屋を持たなかった覚は季節を問わず出来る限り家の外で過ごして、日の暮れて、帰るしかなくなる頃には父が酒で酔いつぶれていることを願う他ない生活。
どうやら父母はほとんど駆け落ちに近い状態で結婚したらしく、覚は最期まで祖父母をはじめとする親戚に会うこともなかった。
天星御嘉と出会ったのは、小学2年生のクラス替えの際だった。
「祇園寺さんってかわいいね!」
長く美容院にも行けなくてザンバラに伸びただけの覚の髪を無遠慮にかき分け、覚の顔を確かめた御嘉は星みたいに輝く瞳でそう言った。
入学式を含む全ての行事に親が顔を出さない覚は小学校で浮いていた。
サイズの合わない服を着ていたり、風呂に入れるタイミングが無くて体臭もあり、髪は脂でベタベタしているような子供であったので、そういう異常個体にまともな子供が近寄らなかったのは当たり前のことだと、幼くとも覚は自覚していた。
何なら、担任が妙な気を利かせて、グループ学習があるごと色んな子供に覚の相手をさせ、親しませようとして迷惑な顔をされる、という流れが出来ていて、小学1年生の頃の覚はクラスでいわゆるバイキン扱いをされていた。
無論、担任の教員もクラスであぶれた子供を放置することは職務上出来なかっただろうし、グループ学習はカリキュラム上必ず発生するものであったので、避けようのない事態ではあったのだが。
そんな、1年生のときに同じクラスだった子供たちから伝染して2年生のクラスでも同じ扱いを受けはじめていた覚に対し、フケだらけで汚いベタつく髪も意に介さず、親し気に接してきた御嘉へ、覚はおののいた。
御嘉は初め、覚の家の事情を知っていたわけではなかっただろう。
小学2年生が理解出来るような境遇でもなかったし、御嘉が覚に興味を持ったのは「苗字がカッコいい!」などという謎の子供っぽい理由だと、当初はそう聞いていたので。
ただ、野生の勘というべきか、そういったものに優れていた御嘉は自然に覚を自分の家へ招いて一緒にお風呂に入り、自分のおさがりの服を着せ、晩ご飯まで天星家で食べさせてから家へ帰すようになった。
後から明かされたところによると、これらの行動ははじめ、御嘉にとっては母親のこだわりに対する身代わりであったらしい。
女児らしい服を好まず、簡素な服で泥だらけに走り回るのが好きだった御嘉は、女児らしい恰好の子供に憧れとこだわりを持っていた天星母からのお説教にうんざりしていたそうで、自分の代わりに覚をお人形にしてもらおうと考えたのだそうだ。
生まれつき、御嘉よりも女性的に愛らしい顔つきをしていた小さな覚は天星母に大層気に入られ、御嘉の目論見通り、天星母は覚を構いつけるようになった。
もちろん、天星家の大人たちは覚の事情について、ある程度は知っていただろうけれど、覚に目立った大きな怪我がない限りは騒ぎ立てることもしなかった。
父親から離された覚が必ず今より良い環境へ移れる保障も無かったし、同じ学校であれば天星家が覚を保護し、養育することが出来る、とそのように思われていたのだとか。
覚がその辺りの大人の思惑を察したのは中学生になる頃で、幼い頃はただ天星家の優しさにもたれることしか出来ず、御嘉に対しても天星家の大人たちに対しても後ろめたさを覚えながら長じた。
その分、覚は勉強に励むことを目標にした。
御嘉は、地頭は良いのに年相応に勉強よりも遊ぶことの方が好きで、公園や運動場を駆けまわったり、漫画や家庭用ゲーム機に夢中になったり、夏休みの宿題は最終週になって慌てるような子供だった。
だから覚は御嘉を助けられるほど勉強を得意分野にして、少しでも恩を返そうと、画面の向こうの冒険譚に夢中な御嘉の隣で教科書とノートに向き合う日々を送った。
天星家の面々も御嘉の勉強嫌いには手を焼いていたので、覚に促されれば渋々と机へ向かう御嘉に感動し、覚をほとんど家族の一員として遇してくれた。
中学生に上がれば、覚の勉強は御嘉を助けるためだけでなく、高校へ進学するための内申点稼ぎの手段にもなった。
自由に行先を選べる御嘉と同じ学校へ通いたいという強い想いもあった。
幸いにも中学校の教員たちは覚の家庭環境に理解を示し、助けにもなってくれた。
中学生活も後半になってくると、背の伸びて1人の人間らしく成長した覚に対して、父の暴力はいよいよ遠慮が無くなってきた。
打つ手は平手でなく拳になり、投げつけられるものは手のひらサイズを大きく超えたもの、重たい酒瓶であることもあった。
そして、それまで働くこともせず事故の賠償金と生命保険金を使い潰す生活をしていた父は、ついにお金に不自由しはじめ、覚の学費にも手をつけだした。
それに対して覚が流石に我慢ならず言及すれば、当然のように殴られた。
「母親殺しの分際で」
「お前のせいでこうなったのに」
そう怒鳴られて折檻される回数と時間は増え、それまで服で隠れる位置に留められていた暴力は、顔など目立つところにも及ぶようになった。
御嘉が高校生になって、母親のために伸ばしていた綺麗な長い髪を短く切って剣道部に入部したのは、本人はそう言わなかったけれど、覚を護れるようになるためだと分かった。
高校生になった覚は放課後や休みの日にバイトをして学費と、天星家へ入れる食費を自分で賄った。
お金を父から隠すため天星家に置かせてもらい、父が家にいる間は天星家に泊めてもらうことも多かった。
申し訳なさに顔を曇らせる覚へ、御嘉は「メルとお泊り会がたくさん出来て嬉しい。」と笑ってくれた。
けれどその御嘉の、短くなった髪を見るたび、覚は自分のせいだと気が塞いだ。
家へとあまり帰らなくなった覚は、父と偶然に遭遇する度、父からの殺意、命の危険を感じるようにもなっていて、いよいよ家を出て、父から離れなければならないと決意を固める。
母との僅かな思い出のあるアパートの一室は、枯れて土しか残っていない植木鉢と同様、色褪せて、もはや恐怖の象徴ですらあり、未練はなかった。
本当は御嘉と同じように、大学へも行ってみたかったけれど、これ以上天星家に迷惑をかけるわけにはいかない。
そうして覚は寮のある職場を選び、父に隠れて必死に就職活動をして、中規模の地元企業の下請けである、小さな会社の事務員に就くことが出来た。
大学と就職、と進路は分かれたけれど、御嘉は変わらず覚にベッタリで、覚の休日にはいつも遊びに誘ってくれた。
そんな頃に、覚は『聖女ヒロインになろう』に出会い、トール・ケムエルンという青年を好きになった。
トールの人生を、自分に重ねていたと自覚がある。
父親に認められたい一心で努力を重ね続け、しかし最期には「母殺し」と憎しみを顕わにされ、その"父親から殺される"彼に。
死に方まで推しに近づきたいと思ったことは流石になかったのだが、トールの人生をなぞるかのごとく、覚はある休日の夕方、食材を買って寮へ帰る途中の道で、脇の小路から飛び出してきた、ホームレスのようにくたびれた風体の男――己の父親に、出刃包丁で滅多刺しにされ、殺された。
夕陽の差す道、真っ直ぐに迫ってくる男、鈍く光る刃物、警鐘みたく頭をガンガン鳴らす体中の痛みを覚えている。
とうに機能しなくなった視覚は暗く、聴覚も遠くなっていく中で、狂った父親の枯れてガサついた笑い声が響いていた。
さて、『聖ヒロ』の特異点であるトール・ケムエルンの話をしよう。
トール・ケムエルンは、攻略対象の1人でありながら、彼のハッピーエンドルートと逆ハーレムルート以外の全てのルートでラスボスとなる。
正確にはトールの父ゼルス・ケムエルンから魔王の器として利用され、ラスボスである魔王となる際に精神的に死亡するのだ。
魔王はアムドゥシア王国建国神話にてこのように語られている。
世界を創世した神のうち、片割れが人々から忘れ去られたことで堕落し、世界の全ての生き物の負の感情を受け止める器となり、世界を滅ぼさんとする魔王に変じてしまった。
本来人の世に直接関与出来ない神は、堕落したことにより、人を害する手段を手に入れてしまったのだ。
残った神がその時代で最も無垢な魂を持つ女性へ聖なる力を与え、剣の腕が立つ青年と共に魔王を封じに行かせる。
聖女と青年は各地で人を助け、仲間を増やしながら魔王の元へと向かい、魔王を封じることに成功した。
魔王を封印することしか出来ないのは、聖女の聖なる力の元となった神の権能では、堕落したとはいえ片割れであった魔王を殺すことが出来ないためである。
残った神は片割れのように人々から忘れられぬよう、また魔王の遺した魔物への対抗策として、聖女の仲間を中心に人間へ魔法という力を与えた。
その後、聖女は剣の青年と結ばれ、アムドゥシア王国を興したのである。
魔王の封印は、緩めば魔物が活性化してしまうため、一定の期間の中で生まれる聖女や聖人が封印をし直している。
ただし、魔王全盛期には魔王を崇拝する邪教があり、その邪教の書物には魔王を封印から解き放つための方法が書かれている。
トールの父、ゼルスは愛する妻の死に絶望し、世界を恨み、ほとんどが焚書されたはずの邪教典を執念で手に入れた。
魔王復活は、世界を恨む負の心を持った人間の生贄を1人捧げ、ある条件を満たす人間を魔王の器にすることで可能となる。
魔王の器たる条件は1つだけ、「愛を持たないこと」。
トールのハッピーエンドと逆ハールートでは、メルカ・ロマリウスが器とされる。
それ以外の全てのルートで、トールは魔王の器となり死亡し、聖女たるヒロインたちの手で倒される運命にある。
トールのバッドエンドでは、トールは聖女によって1度は愛を得るものの、メルカが聖女を殺したことにより、愛情が全てメルカへの憎しみに変わり、愛を失った、魔王の器にふさわしい人間となってしまう。
また、トールが魔王となったとき、真っ先に死ぬのは必ずメルカ・ロマリウスだった。
つまりメルカ・ロマリウスというキャラクターは、『聖ヒロ』というゲームにおいてはどのルートでも死ぬ運命にある。
それでも祇園寺覚の前世を持つメルカは、自分の命を惜しむのではなく、ただトールを救いたかった。
トールに愛を知らせ、魔王の器として利用されることを防ぐため、いつも過剰なくらいに愛を叫んでいた。
メルカが愛を返されずとも、トールが愛を知ることさえ出来れば、メルカにとっての最悪は防げると、そう思っていた。
覚がメルカ・ロマリウスとして生を受けた時、ロマリウス公爵家は異様なほど静かであった。
ロマリウス公爵たる父親は出産に立ち会わず王宮で仕事をしており、ヒステリックな言動が激しかったらしい母親のカミラは使用人のほとんどから避けられていたので、出産のときカミラの近くに居たのは、助産師と光属性の回復魔法使いの2人だけだったそうだ。
メルカを産んで幾ばくもしないうち、一応の後継を産んだカミラは用済み、あるいはやっと汚点を消せるとばかりに、実家のボティスリー侯爵家から毒杯を飲まされたらしい。
今世の生母の死の真相をメルカが知っているのは、幼い頃家内仕事を回すため公爵家本邸内をうろちょろしていたときに、古株の使用人たちがヒソヒソ話しているのを偶然聞いたからだ。
そんなわけで今世でも母を失ってしまったメルカは、初め、今度こそ父親から愛されるための努力をした。
ある種メルカを産んだために死亡したともいえるカミラではあるが、父公爵との関係は薄かったと聞いており、母のことは除外して父と娘の関係性を構築出来るのではないか、という希望を持っていた。
天星家のような明るく愛のある家庭への憧れがあったのだ。
誕生日にだけ義務的に顔を見せる父へ、精いっぱいの笑顔を浮かべ、愛想良く接したし、父の誕生日には会えずとも贈り物をした。
その贈り物がいつも、父の周辺を掃除する侍従にゴミと共に廃棄されているのを、それを父が良しとしているのを知ったのは4歳の時分である。
メルカは早々に、父からの愛情というものを諦めた。
前世の怒声と暴力を浴びせる男に比べれば、無関心はよほどマシだと、強がった。
そして5歳になり、トールと出会えて、本物のトールを前に高鳴る心を感じて、トールへの恋心だけは本物だと信じた。
だから、トールのために出来ることは何でもしようと誓った。
公爵令嬢として与えられている高額の小遣いを使ってケムエルン侯爵家の使用人へ賄賂を渡し、ケムエルン侯爵家の内情を探った。
まず、虐待レベルの体罰を躾と呼ばわる狼藉者の家庭教師を排除し、父公爵へ手紙を書いて頼み込み、有能でトールの才能を伸ばせるまともな家庭教師を手配してもらった。
トールへ悪感情を向けていたらしい乳母は、トールの母の学友だったこともあり排除が遅くなったけれども、可能な限りの手と金を尽くして、トールとの婚約から2年ほどで地方へ追いやり、トールの周囲を綺麗にした。
父公爵によるメルカの誕生日パーティーが10歳を機にパッタリと終わったのは、あからさまに誕生日パーティーという義務を面倒がっている父公爵への交換条件として、メルカが提示したからだ。
父公爵のメルカへの誕生日プレゼントはいつも、王都のタウンハウスで使用人に摘ませた適当な花を押し花か魔法でプリザーブドフラワーにしたもの1輪のみ、パーティーの規模も年々小さくなっていっていたので、メルカから「わたくしが人との交流を好んでいないということにして、誕生日のお祝いを無しにしてくださいませ。」と言ったのだ。
メルカが友人を持たないのは、これも一因としてある。
父侯爵へはメルカの誕生日に義務で領地へ帰ってくる必要もないと言い切った。
その代わり、ケムエルン侯爵家の内部へ手を入れる許可と力添えを願った。
一応、メルカがこの先嫁ぐ家であるからか、あるいはメルカの懇願が鬱陶しかったからか、父公爵の手配は速く、2年ほどの間で家庭教師から乳母までの排除、そしてケムエルン侯爵家の使用人たちも、役目を弁えた上等の人材に入れ替えることが叶った。
結果として、10歳の最後の誕生日パーティー以降、メルカが今世の父親と顔を合わせたのは貴族学院の入学式1度きり、手紙は家政においての必要事項が発生したときのみ、幾度か交わしたけれど、直接顔を合わせた回数は今世を通してきっかり11回である。
交友会の日、トールはメルカへ言った、「お前に愛などというものが分かるわけもない。」と。
それはほとんど事実であった、だからこそミカエルは激昂したのだ。
母の実家であるボティスリー侯爵家は誕生日パーティーにも来ないほどメルカと関わることを避けており、顔を合わせたこともない。
今世での唯一の肉親である父公爵の顔すらもうほとんど覚えていないメルカは、愛を知っていると言えるだろうか。
前世の母から与えられたか細い記憶と、天星家という血のつながらない人々の優しさの記憶だけが、ほんのりとメルカに家族の在り方を教えてくれた。
トールはメルカを嫌っている。
その理由は至極真っ当で、しかもメルカにはどうすることも出来ない、過ぎた出来事である。
そう思っていたからこそ、メルカはトールへ愛を、恋情を叫びながら、それが返ってくることを少しも期待していなかった。
メルカは、愛を諦めた、冷たい人間だ。
そういう歪んだ心根をした、醜い人間であると……メルカは自らの吐瀉物に塗れながら、ようやっと自覚した。
ここまでで前編が終了します。
明日から後編です。




