11 嘘つき。
メルカは一拍呆気に取られて、何度か瞬きをするも、クリスの真剣な顔は変わらない。
「何故、そのように極端なお話に?」
クリスは日頃ならその頭の回転の速さでもって相手の知能レベルに合わせた話をする。
つまり会話において相手を置き去りにするようなことは滅多にしないのだが、もっと幼い頃や、メルカやトール相手に興が乗ったときなどは過程をすっ飛ばして結論だけ話し、相手に疑問符を浮かべさせる悪癖があった。
首を傾げたメルカに、クリスは小さくため息吐いて、いささか面倒そうに説明してくれた。
「この部屋に来るまでは、トールもついに自覚したかと思って安心していたのだけれど、この状態ではね。後々ロクなことにならない。ロマリウス公爵令嬢が魔法封じの腕輪などつけられたことが万一世間に知られれば、王室の体面すら傷つけることになる、それは君も分かっているだろう、メルカ」
「ええ、そのくらいは……ですけれどお兄様、わたくし何がどうなって今この状態にあるのか、知らされておりませんの。お兄様はご存知なのですか?」
クリスは肩をすくめて、度し難い馬鹿だ、と言わんばかりの長々としたため息をメルカへ見せつける。
「大体はね。だから放っておいても良いかと思っていたのだが、事は君たち2人だけの話にするには大きくなり過ぎた」
「大きく……? そういえば、お兄様はどうしてわたくしがここに居るとお知りになりましたの?」
「ミカエル・アルマロスだよ」
クリスの口から出た名前に、メルカは安堵と申し訳なさを同時に覚えた。
「ミカが?」
「うん、ミカエル・アルマロスが聖人としての正式な手続きを踏んで王宮へ上がり、メルカが連れ去られたこと、メルカを連れ去ったのがケムエルン侯爵家の家紋を掲げた馬車だと証言した。それで、王宮内のある程度の人間は、今回の騒動について知ることになってしまったね。まあ、そうでもしなければ彼が私に直談判をすることは不可能だっただろうけど」
クリスは、ミカエルがメルカのことを非常に心配していたこと、今にも単身この本邸へ乗り込んでいきそうだったためにクリスが止めて王宮に留め、代わりとして自分が足を運んだのだという事情を説明した。
メルカは、ミカエルが教えた通りの聖人としての正式な手続きを扱えたことを少し教師のような気持ちで喜ばしく思ったが、流石にそんな場合でもないと思い直し、眉を下げた。
「お兄様にはお忙しい中お手数をおかけして申し訳なく……ミカエルのことも、ありがとうございます。ですが、何も婚約の解消とまでいかずとも……」
「君の悪い癖だね、メルカ。自分の価値を低く見積もり過ぎる」
クリスは表情から険しさを除き、いつもの柔和な雰囲気に戻るも、赤と青の双眸はピシャリと厳格な為政者の光を宿していた。
「メルカ・ロマリウス公爵令嬢の誘拐及び監禁、その上犯罪者まがいの魔法封じの腕輪の強制。この扱いが意図しない形で外へ漏れれば、ケムエルン侯爵家に仕える使用人はこの事実を知っているいないに拘わらず、全員縛り首にせざるを得ない、そういうレベルの話だ」
メルカも多少は危機感を抱いていたけれども、改めてクリスの口から聞くと、知らぬうちとはいえ自分が妙なものを装着させられたために命すら左右される人間がいることを再認識し、またその範囲の広さに腰が引け、口を噤む。
「メルカは他人に興味がないけれど、自分のせいでそんな事態が発生すれば気が咎める、そういう気質だということは理解しているよ。私としても、宰相職を輩出する家にそのような醜聞を背負わせたくはない、貴族派にとっての恰好の餌にもなるからね」
クリスはメルカよりもずっと大局を見て話しているのだろう、とにかく、メルカとしてはトールはもちろん、クリスへ迷惑をかけるのは本意でなかった。
だからこそ、とクリスは続ける。
「メルカ、君が選ぶんだ。現在のこの扱い、腕輪の部分は濁さざるを得ないけれど、それ以外でも十分に瑕疵としては大きい。これを公表して、ケムエルン侯爵家の有責で婚約解消を行うか、そもそも誘拐などは発生しておらず、メルカが自分の意思でここに滞在していることにするか。もし後者を選ぶのならば、その腕輪を含めて、他にどんな理不尽で過酷な目に遭ったとしても、それを一切の余人に訴え出ることを禁じる。私とて、助けてはあげられないよ」
珍しくクリスはメルカを心配しているらしい、と声音から僅かに漏れる気遣いの柔らかさにメルカは驚いた。
まあ、メルカが異常なだけで、この世界の一般的な貴族において魔法適性や魔力量の多さというものは婚姻や就職を左右するほどの重大事であり、それを勝手に封じられるというのは、貞操を奪われることの次くらいに忌避されることだ。
ケムエルン侯爵家を宰相職から外さないためには、どちらを選んでも魔法封じの腕輪の件については一切公表出来ないだろう。
婚約者の拉致監禁、については……ケムエルン侯爵家の非というよりは、トールの後継者としての資質に疑義が唱えられる結果となることが予測出来る。
ケムエルン侯爵家の親族がトールを次期後継者の座から引きずりおろそうと、あの手この手を使うことは想像に難くない。
メルカは、トールがどれほど彼の父の跡を継ぐことを望んでいるか、そのためにどれほど努力してきたかを知っている。
そしてその姿の全てが、メルカにとって愛すべき彼だ。
メルカはクリスへ、一片の迷いも無く言い切った。
「わたくしはここへこのまま、留まります」
「……それで良いのかい、メルカ」
「はい。トール様が心配ですし、何より、トール様のお顔が見られるのなら、わたくし何も不自由はありませんもの」
メルカはクリスへ微笑んで見せた、何ひとつ心配することなどないのだというように。
そんなメルカの柔らかな表情と言葉を少し舌の上で転がすように思考を巡らせてから、クリスはすっと表情を消した。
稀代の芸術家が彫り上げた神像と呼んで差支えないほど整った美形が無表情を作ると、流石のメルカも少し腹の底に恐れが疼く。
何より、クリスがそのような顔を浮かべたことは、今まで1度もなかった。
どうしたというのだろう、と恐々したメルカへ、クリスは静かな声で告げる。
「それを選ぶならば、メルカ。君もいい加減に自覚し、トールの心がどこにあるのかを知らなくてはならないよ」
「自覚……トール様の、心……?」
困惑に眉を下げ、復唱したメルカへ、クリスはいつもの王子様然とした雰囲気で微笑んでから席を立つ。
「ミカエル・アルマロスには上手く伝えておくよ。ではメルカ、また休暇明けに」
「あ……はい、お兄さま。ミカのこと、よろしくお願いいたしますわ」
メルカも慌てて立ち上がり、王太子が部屋を去るのを見送る。
扉が閉められてからやはりすぐに聞こえる施錠音に、引き返せない非日常を感じ、僅かな不安で顔を曇らせた。
この日の夜のトールの機嫌は、地を這っていた。
いつもどおりノックや声掛け無しに部屋へ入ってきて、閉めたドアの前で足を止めたまま、メルカを見ようともせず、ソファの方を険しい顔で睨んでいた。
メルカは予想外のトールの不機嫌に、首を傾げる。
トールなら、周囲の口煩い人間がいない状態でクリスに会えたなら、政策立案だとか領政についてのアドバイスだとか、色々と気兼ねなく相談も出来ただろうし、機嫌が良くなることこそあれ悪くなる理由には思い当たらない。
もしかして、メルカの扱い、主に魔法封じの腕輪についてクリスから怒られたのだろうか。
クリスから群を抜いて気に入られている自覚のあるメルカから見て、クリスはトールに対しても甘いと思う。
トールの幼馴染といえば、メルカは同い年のカナンではなく、クリスを思い浮かべるくらいだ。
トールはクリスを尊敬しているように見えるし、クリスはメルカとの関係について面白がりつつもトールの才能を見込んでいる、そういう関係の二人であるはずだ……それが、メルカを理由に叱責を受けたのなら、トールが不機嫌になるのも分からなくはない。
今日のクリスの話を振り返ると、王都でメルカを誘拐したのも、魔法封じの腕輪をつけたのもトールである、ということになる。
とは言ってもお互いもう17歳、クリスお兄様から怒られたんですか? などと尋ねるのは悪手極まりない。
メルカはまず世間話レベルで話を振って、クリスからの叱責などの話題が出たら、自分がクリスへ取りなしてみると話を繋げよう、と考えた。
「トール様……ええと、お兄様とはどんなお話をなさいましたの?」
クリスがメルカの居る部屋に滞在したのはごく短い時間だ、効率と合理を好むトールなら、この機にクリスへ様々相談をしたのではないか、その程度の想像でメルカは尋ねた。
しかしメルカの口から「お兄様」という呼び名が出た瞬間、トールはソファを睨んでいた目をメルカへ向け、冷たい声音を返す。
「お前は……昔からあの王太子がお気に入りだったな。逆か? 誘惑して取り入るのが上手かったとでもいうべきか」
メルカは気品もへったくれもなく、ポカンと口を開いた。
ゆーわく……誘惑。
それは、メルカがクリスに対し、男女の情でもって、気を引こうと……そんな馬鹿な!
「誘惑……!? お兄様、いえその、王太子殿下に対してそのように恐れ多いことはしたことも、することもあり得ませんわ」
まず、あの王太子の本性を知った上でそんなことをするのは、恐れ多いというか、恐れ知らずの狂気の沙汰だと思う。
更にメルカは言い募った。
「だって、何よりわたくしは、トール様の婚約者ですもの」
妙な誤解を解くために必死なメルカは、その言葉が致命的なまでにトールの逆鱗に触れたと察するのが遅れた。
トールとメルカの間の床に、トールが小さなもの――万年筆を思い切り叩きつける。
衝撃でどこか破損してしまったのか、部屋の絨毯にジワジワと黒いインクが滲んだ。
その万年筆は黒と青のマーブル模様をなす気品ある石から削り出された一点もので、キャップの先には薄い水色の宝石があしらわれている。
メルカにはよく見覚えのあるものだ、それは今年の6月、トールの誕生日にメルカがトールへ贈った品だった。
メルカは5歳の婚約以降、トールの誕生日に必ず贈り物をしていた。
幼いうちはトールの好みそうな異国の本であったり、目に良いという果実の苗木であったりと様々だったが、成人も近い学院入学以降は一流の職人に作らせた万年筆と書き物にちょうどいい質の良い手帳のセットに決めていた。
1日の、寝ている以外の時間のほとんどを書き物に費やしているトールには、長く使える万年筆が多くあれば便利だろうと思ったし、何よりトールの役に立つものを贈れるならそれが一番嬉しい。
そう思って毎年、職人と何度も手紙を取り交わして、美しく実用性を伴った、トールにふさわしい満足いく品を作らせてきた。
この3年弱、トールが実際に使っているところを見たことはなかったが、領地で使われているかも、と思い、メルカはめげずに3年、それぞれペン先の細さやデザインの異なる品を、去年までは手渡しで、今年は分厚い手紙を添えた郵送で、贈ってきた。
それが今、目の前で黒いインクに塗れ、無残な姿を晒している。
捨てられていなかった嬉しさと、壊れてしまったことへのショックが同時に来て、メルカの頭は混乱した。
何も言えないでいるメルカを、トールが上から荒々しく怒鳴りつける。
「軽々しく婚約者だのとのたまうな! 本当は僕を見下げている癖に、本当は、王太子か……あの聖人が良いのだろう!」
メルカは男の怒声に対して、条件反射で体が固まり、声が出せなくなる。
反論を声に出来ないメルカへ更に苛立ちを募らせたトールは、整えられた髪が乱れるのも構わず頭をガリガリかきむしり、荒らげた声でメルカを貶める。
「お前のような……お前のような母親殺しの、気狂いの娘、僕の母の仇、どうして、どうして僕がそんな女に縛られなければならない!」
トールの顔を見上げられないメルカの視界の先にある、壊れた万年筆。
絨毯を汚す黒いインクがじわじわ、メルカの心も侵食していくようだった。
「お前はいつも、無神経に、僕に付きまとって愛だ恋だと譫言を並べて、身勝手だ……! 己の立場を弁えろ! 僕に、お前は相応しくない!」
メルカは何か言おうと、声を出そうと口を開いては閉じて、何も出てこない。
怒声に伴う痛みの記憶が、メルカの頭を支配していた。
立ち尽くすメルカへ、トールはトーンを落とした、けれど侮蔑と嫌悪がありありと感じられる声で、吐き捨てる。
「……お前の顔を見ると、声を聞いていると、吐き気がする。僕は、お前が大嫌いだ」
「お前さえ居なければ、僕はもっと幸せになれた」
そう言いきって、メルカのことも床の万年筆も顧みることなく、トールは部屋を出て行った。
"母親殺し"、"お前さえ居なければ"、それが他ならぬトールの声でメルカへ向けられたことに、メルカは暫し呆然としていた。
過去からの声が、今しがた聞いたばかりの、大好きな声に重なって聞こえて、カクンと膝が折れ、メルカは床へくずおれる。
前世から、こんな時にいつも助けてくれたのは……そうしてミカエルの顔を思い出すのは、確かに裏切りなのかもしれない。
混乱と恐怖に震える指先で壊れた万年筆を拾ったメルカは、迷子の幼子の顔をして、溢れそうな涙をただ拭った。
その後、メルカはベッドに入るも、ちっとも眠気は訪れなくて、仕方なしに、窓辺に立って鉄格子越しに夜の庭を見下ろしていた。
綺麗に洗って汚れを落とした、壊れた万年筆を手に、トールのことを考えた。
トールが何故このようなことをしているのか、分からない。
魔法封じの腕輪はもちろん、婚約者とはいえ上位の家の令嬢を監禁するなど、公然と冷たく振舞ういつものやりとりとは比較にならない、冗談では済まない話に発展することくらい、メルカにだって分かること、トールも分かり切っていたはずだ。
その上、トールは領地で起きた災害の対応で忙しいはず。
そんな状況にあって、どうしてこんなことを……窓の鉄格子を握れば、夏の夜の冷気そのままに冷たい。
冷たい……トールの目を思い出す。
幼い日から今日までの、トールの目、表情、仕草……それらはいつもメルカを拒絶し続けていた。
けれどいつも何かを求めてやまない寂しさも滲ませていた。
「……あれ?」
トールの顔を、その目の奥を、よくよく思い出す。
それはいつからだっただろう、思い出せない。
いつからか……トールに付きまとうメルカへ、彼が嫌悪を示すとき、トールの奥にあったはずの寂しさは、薄らいでいた気がする。
メルカはふっと、今日のクリスの言葉を思い出した。
"自覚"。
"トールの心がどこにあるのか"。
トールの心は、いつも……メルカを嫌い、拒絶して……それならどうしてこんなことをしているの?
どうして、毎夜会いに来るの?
どうして、ミカエルと一緒にいると怒るの?
今日のクリスについての言動だって、まるで、……まるで。
それじゃあ、トールが嫉妬しているみたいだ。
嫉妬する、なんてことがあるのなら、トールは、つまり、メルカのことを。
メルカは自身の口の端が酷く醜く痙攣したことを自覚して、万年筆を取り落とす。
ハァ、と息を吸い込んだ音が夜の静かで暗い部屋に響いた。
にわかに、喉の奥からせり上がってくるものがある。
メルカは咄嗟に口を両手で押さえてトイレへと駆けこんで、白い便器に向かって消化されかけた夕食をほとんどそのまま吐き戻した。
口の中が焼けるようにジンと痛み、胃酸の饐えた味が舌を刺激して気持ちが悪い、吐瀉物の臭いが気持ち悪い、吐き気がする。
吐き気が……何に対して?
メルカはゾッと背筋に寒気が走って、身体の重心を失い、吐瀉物のかかった便器へ縋りつくように倒れかかった。
心が、恐ろしさに、ずっとずっと落ちていく感覚を伴って、冷え込んでいく。
トールは、メルカを、憎からず思っている?
メルカを酷く罵るのは、その裏返しで……吐き気がする、どうして?
喜ぶべきだ、そうでなければおかしい、だってメルカはトールの愛を、愛を、ずっと欲して。
本当に?
トールから愛される未来など、考えたことがあっただろうか。
メルカはいつも、好きだと叫ぶばかりで、トールの心など……そうだ。
メルカは"どうでもよかった"。
だって、メルカは愛される筈がないからだ。
今世も、前世も。
メルカは覚は決して愛されない人間だ。
気持ちが悪い。
吐瀉物の刺激臭が再度の嘔吐を誘発し、頭がガンガン金槌に打たれているかのごとく痛む。
気持ちが悪い。
愛を謳って、乞うて……それら全てが嘘だった。
嘘つき。
歪み切った自分のことが、心の底から気持ち悪い。
メルカは吐瀉物に塗れて、気絶するまで、まき散らすものが胃液だけになっても、吐き続けた。
活動報告を書いています。特に読む必要はないです。




