09 夏季休暇が始まるぞ♪
縁だけ桃色がかった白い芍薬が咲き乱れる様の見事な庭園は、春から初夏へ移り変わる季節特有の爽やかな風が吹いていて、目の前の幼い少女の、芍薬の色味にも似た艶のある桃色がかった金の髪が歌うように揺れていた。
「はじめてお目にかかります、トールさま。わたくし、メルカ・ロマリウスともうします」
小さな体躯をしゃなりと折り曲げて礼をとる姿は5歳になったばかりとは思えないほど慣れた風であって、ロマリウス公爵家の教育が行き届いていることをその所作1つでもってこちらへ知らしめる。
それが一層、トールの劣等感を煽った。
トールがメルカ・ロマリウスと初めて顔を合わせたのは、彼が5歳を迎える2ヶ月ほど前の、春に近い季節だった。
既に王家主導で2人の婚約が確定した上での、顔合わせの席である。
爵位の違いもあって、トールの父であるケムエルン侯爵とトールとが、ロマリウス公爵邸へ招かれる形になった。
既に百花の王も恥じらわんばかりの美しさの片鱗を感じさせる少女を彩るように花々で整えられた庭は、トールの生まれて以降寂しさを漂わせるケムエルン侯爵邸の庭と違って、華美ながら穏やかで、トールとメルカの環境の違いを見せつけているように感じられた。
「おあいできて、わたくし、こころからうれしくおもっておりますわ」
頬を上気させて、深い緑の瞳を潤ませ、トールを一心に見つめるメルカの声音には少しの嘘も感じられず、まるで本当に、会ったばかりのトールを愛して止まないとでも言いたげな温度があって、トールはその無神経さに酷く苛立った。
お互いの父親は既に子らを放置し、小難しい政治の話を交わしていて、それを良いことに、トールはメルカへ挨拶どころか返事の1つもしなかった記憶がある。
だというのに何を気に入ったのか、その日からメルカは常識外れの頻度で1人ケムエルン侯爵邸を訪れ、日毎トールへ愛を叫ぶようになった。
"流石、気狂い女の娘、生まれつき頭が壊れているのじゃないかしら"。
トールの目の前でそう吐き捨てたのは、当時トールの乳母を務めていた女だった。
乳母の言う気狂い女というのは、元ボティスリー侯爵令嬢、メルカを産んですぐに故人となったので、故ロマリウス公爵夫人と呼ぶべき、カミラ・ロマリウス、すなわちメルカの母親を指す。
およそ4歳児に聞かせるべきでない、メルカとトールの母たちの事情及び己の婚約に至る事情についてトールが把握していたのは、乳母がトールの前で何度も悪意に満ちた社交界の噂話を語ったからだ。
曰く、トールの父であるゼルス・ケムエルン侯爵は、シェーラ・ルアクサ子爵令嬢と想い想われ愛し合った結果婚約を結んだ、高位貴族にしては珍しい恋愛婚約であった。
しかしゼルスへ横恋慕したカミラ・ボティスリー侯爵令嬢が、その爵位を笠に着て、学院や社交界でシェーラを虐めぬいた。
ゼルスはシェーラを守るため、学院卒業後すぐにシェーラを派閥内の伯爵家の養子にし結婚したが、どうしても男性の立ち入れない場というものはあり、そこでカミラが出自の低いシェーラを虐めるのを止めることは出来なかった。
既に臣籍降下していた王弟であるユーゴ・ロマリウス公爵が派閥の恥を回収する形でカミラと結婚するも、ユーゴはカミラへ無関心で、カミラの苛烈な嫌がらせは止まず、ついにシェーラは心を病んでしまった。
カミラはメルカを産んだ後狂死したという噂だ、けれど1度壊れたシェーラの心は治らず、2ヶ月ほど後、シェーラもトールを産んですぐ儚くなってしまった。
ケムエルン侯爵は代々アムドゥシア王国の宰相職を務める家系である、その家と現王家支持を明確にしているロマリウス公爵家との間に確執が残ったままでは対外的に都合が悪い。
ちょうど同い年に生まれたメルカとトールの性別が男女と分かたれていたことから、両家の子らを結び付けることで現王家派閥の結束を示す、そのためにトールは母の仇の娘と婚約することになった。
そのような話を何度も、トールの柔らかく利発な脳に刻み付けるがごとく吹き込んだ乳母は、トールの母シェーラの学友であったという。
乳母が、シェーラの直接の死因になったと言えなくもない、トールの存在を疎んでいたというのは、トールが7歳になった頃、職を辞した本人の口から聞いた話だ。
シェーラを亡くしたゼルスは滅多にケムエルン侯爵邸には戻らなくなり、王都のタウンハウスや王宮に泊まり込み、仕事へ打ち込んで、トールも1年に1度顔を合わせるどうか、という状態だった。
夫人の居ない本邸の整備は疎かになり、使用人らも当主から見向きもされない嫡男へいくらか距離を置いて接していて、乳母の悪口雑言や、トールの柔らかい手のひらに鞭打つ家庭教師の厳しい躾を咎める者は居なかった。
庭の花も、侯爵家の格を損なわない程度の飾りとして適当に花が添えられているといった状態で、ロマリウス公爵邸の庭園とは雲泥の差があった。
ロマリウス公爵はトールの父と同様、1年のほとんどを王都のタウンハウスか王宮で過ごしているらしかったが、メルカが10歳を過ぎる頃まではメルカの誕生日には本邸へ戻り、誕生パーティーを催していた。
これは婚約以降、毎年メルカの誕生パーティーに招かれていたトールが自身で見聞きした事実である。
トールは父親似の色と顔立ちをしていた、これがもう少しでも母シェーラに似ていたなら、という考えが、本邸の玄関ホールへ飾られたシェーラの肖像画を眺める度何度トールの脳裏を過ったか知れない。
5歳を待つ春の日、華やかな庭園で出会った己の将来の伴侶と定められたる少女メルカが、その微笑みが、本邸の玄関ホールにしか居ないトールの生母を思わせる雰囲気を纏っている理不尽をトールは呪った。
メルカがトールを見て幸せそうに美しくはにかむ度、眩暈に似た吐き気がして、トールの腹の底で怒りと憎しみがとぐろを巻いた。
トールの幸福を奪った女の胎から生まれた、おんなじ母殺しの分際で、どうしてあの娘だけあんなにも幸福げなのだろう。
おんなじ無関心な父であるはずなのに、どうしてトールの父はトールの誕生日に帰ってこないで、あの娘だけ父親からの誕生祝いを受け取れるのだろう。
メルカが陽だまりでトールの名を呼ぶ度、トールの内心には憤りと、憎悪と、嫌悪がこみ上げた。
トールはメルカを嫌い、憎んでいる。
そうあるべきで、そうでなくてはならず、当然そうであって、だからメルカも永遠に、トールの悪感情の的であり続けるべきなのだ。
トールは愛などという無神経で許されざる感情を謳うメルカに、一生、死ぬまで応えない。
一分の慈悲だって与えない。
そうして初めて、天高いところで幸福を享受しているメルカを、惨めな場所へ堕とすことが出来る。
それを嘲り踏み躙る権利が、トールにはある。
そのメルカが、運命の恋などと……トールを置き去りに、同じ陽だまりの似合う男の手を取ったことは、あの幸福に満ちた笑みをその男へ与えたことは、絶対に、決して、許してはならない罪だ。
天秤が釣り合わない。
必ず、改めさせなければならない。
トールの冬空色の瞳が、ほんのわずかな間、昏く赤い、曖昧な形の光を宿していたのを見た人間は誰も居なかった。
「それで? 会えなかったんだ」
学院のいくつもある庭園のうち1つ、人通りの少ない庭の小さなガゼボで机に肘ついて、呆れた目をしたミカエルがメルカを見やる。
「ミカ、お行儀が悪くてよ……」
そう咎めつつも、表情に覇気のないメルカは、魂でも出ていそうな虚ろさで中空を見つめていた。
「ケムエルン侯爵領で洪水被害だそうですわ……。本来侯爵家当主が差配する筈の公務ですが、トール様は王都を離れない宰相閣下に代わって指揮するため急遽学院を休んだと……」
「そんな展開『聖ヒロ』にあったっけ?」
「少なくとも描写はされておりませんわね……ただ、夏季休暇周辺は逆ハールート狙い以外では、攻略対象以外の様子は描かれないものでしたし……」
ミカエルは机の上に広げられたバスケットからクッキーを1つつまみながら、鼻で笑ってみせた。
「へ~、つまんないの。順位表の写しをもらってあのクソ男の前で高笑いしてやる予定だったのに」
「品位に欠ける行為はお止めなさい、トール様にも失礼です」
「アイツはメルに対してもっと失礼だけど」
「そこが無限にあるトール様の魅力の1つでもありますの」
「理解不能~、メルはマジでその男の趣味の悪さ直した方が良いって」
「トール様は、この世で最も、魅力的な方ですわ!」
不満げにミカエルをひと睨みし、胸を張るメルカの言を、ミカエルはクッキー片手に聞き流す。
「そもそもさあ、あの男に会って何する気だったの? メルは」
「む」
そう言われるとメルカは押し黙った。
何も考えていなかったからである。
順位表が出てすぐ、トールの姿を学院内で探し、ついにはゴミ箱の蓋まで開け始めたメルカをミカエルが回収したのはその日の夕方の話。
今朝も男子生徒寮の前で遅刻寸前まで張り込み駄々をこねるメルカを引きずるようにして学院内へ押し込んだミカエルは、そういえばメルって聞き分けが良い優等生の顔して頑固なんだった……と前世の様々を思い返し、げんなりとしていた。
「経緯を聞くだに、このまま夏季休暇に入るでしょ。メルは自分も早めの夏季休暇に入ってストーキング再開しちゃおうとか馬鹿考えてないで、今のうちに少しくらい同性の友達とか作りなよ。今の状態で学院卒業したら俺とリリスベル侯爵令嬢以外の友達ゼロだよ」
「ミカ、貴方わたくしのことを何だと思っていらして? 流石に公務でお忙しいトール様を煩わせるようなことはしませんわ。それに、貴方とは違ってわたくしの場合、友人を作るにも色々とハードルが……」
以前ユリエラからもらったリストの生徒たちは、既にユリエラ同席のもとミカエルと引きあわせ済みだ。
ミカエルは「授業中ペア組む相手に困らなくなった~。」などと微妙に罰当たりなことを言っていたが、何だかんだと上手くやっているようである。
相変わらず朝夕昼休み、メルカと2人行動なのは変わっていない辺りが予想通りと言える。
対してメルカはもにゃもにゃと友達を作れない理由について言い訳していたが、2人の過ごすガゼボの近くを通る数人の生徒たちの会話内容で、ふと言葉を止める。
「ケムエルン侯爵令息、"領地でご公務"らしいぞ」
「聞いた聞いた、言い訳にしちゃ立派だよな」
「平民上がりの聖人様に婚約者を盗られた上、唯一の取り柄の成績でも負けたとなっちゃ、そりゃ顔も見せられないよなあ」
「あの”氷悧の貴公子”様が、ねえ。お笑い種だよな。顔と家柄でちやほやされてただけで、あんなのただの不愛想な冷血漢じゃないか」
声の主である男子生徒たちは、誰がそこに居るのか知らないまま、ガゼボの近くを通り過ぎようとしていた。
スッと顔の下半分を扇子で隠したメルカは険を剥き出しにした目で立ち上がり、その生徒らの視界に入るようガゼボから数歩出る。
「大体さあ……」
「っ! おい!」
「あっ…………ロマリウス公爵令嬢、ご機嫌麗しく……」
急いで上位貴族に対する礼をとる男子生徒たちへ、メルカは冷ややかな声で返した。
「麗しいように見えますの?」
「…………」
男子生徒たちは頭を下げたまま黙り込む。
貴族学院では身分差によって学習が妨げられることのないよう、礼は略式でも構わないとされているし、クラス分けも一部の最上位貴族か平民以外は実力で振り分けるシステムが採られてはいるが、身分差が無くなるわけでは決してなかった。
メルカが見る限り、目の前の男子生徒たちはせいぜい下位貴族の次男三男といった生まれであろう、礼の所作が相応に崩れていた。
メルカは、出自で人を差別する血統主義者ではない、けれどトールを侮辱した人間たちを黙らせるのに、生まれ持った身分を振り翳すことには一切の躊躇いを持たない。
「貴方がた、王家に次ぐ身の上たるわたくしの友人関係について、随分と軽い口で物言いなさって……その上、わたくしの将来の伴侶たる、ケムエルン侯爵令息について酷く侮辱的でしたわね」
「も、申し訳ありません……!」
「分不相応な口を聞きました、どうかご容赦を……!」
その場に膝をついて最上位の謝罪の姿勢をとる男子生徒たちが、メルカの身分に対して膝を折っただけで、内心では反省していないことは、その目をちらとでも見れば分かることだった。
「構わなくてよ。わたくし、貴方がたのお顔は覚えましたもの。将来、ケムエルン侯爵令息の差配なさる王宮に出入り出来るかは、彼の方のお慈悲次第でしょうね? どうぞ、もうお行きなさいな」
そうまで言えば、男子生徒らは流石に下げた顔を青ざめさせて、極力メルカの視線から顔を隠し、逃げるように去って行った。
メルカは扇子をしまい、分かりやすく怒っている顔でガゼボへ戻る。
のんびりお茶を飲んでいたミカエルは、やはり納得のいっていない様子でメルカを見る。
「あんな男のために、メルが悪者になる必要あった?」
「ミカ、ご覧の通り今わたくし機嫌が麗しくありませんの」
「見なくても分かるって。まあ、俺も勝手に他人の叩き棒にされるのは癪だったけどさ」
お茶でも飲んで落ち着きなよ、と言ってミカエルはメルカのカップに紅茶とミルクを継ぎ足す。
ミルクは入れるが砂糖は入れない、たったこれだけのメルカの嗜好を把握している人間が、ミカエル以外には居ない。
メルカの内面、趣味や嗜好にまで細かく意識を割いてくれるのは前世から変わらず、ミカエルだけだ。
今世で親しい友人を作らなかったのはメルカ自身の選択ではある。
しかし、生家同士の関係や身分差のあるこの世界で、ミカエルと同じくらいメルカ個人を気にしてくれる友人が作れただろうか。
きっと無理だったし、せっかくの友人を記憶の中の親友と比較してしまう、それはメルカが友人を作らない根本的な原因でもあった。
性別が分かたれただけのことで、ミカエルというたった1人の大切な親友との仲を邪推されるのは、それは当然だと17年で培った貴族としての意識が断じるものの、メルカ個人の意識が納得出来ない、非常に不本意で疲弊することだ。
自分の行動が起こした事態と分かっている、それでもメルカはミカエルとの友情に距離を置きたくはない。
その上で、ただの我儘、どっちつかずの振る舞いだと理解していても、トールへの恋心は別に存在していて、それを手放すこともメルカには不可能だった。
ミルクティーの水面に映るメルカの顔は、憂いを帯びて、少しぼうとした様子で、疲れてもいた。
前世でメルカが、覚が主に飲んでいたのは水道水、1人暮らしをするようになってからは麦茶がほとんどだった、安いからだ。
御嘉と出かけたときにだけ、たまの贅沢としてカフェに行き、紅茶やコーヒーを飲んだ。
だから、覚がコーヒーより紅茶を好んでいて、顔にそぐわず甘いものをさほど好かないと知っていたのは御嘉だけだった。
前世で好きなもの――トールの話が出来たのも、御嘉だけ……家の事情もあって、覚はあまり深くに踏み込む友人を作りたがらなかった。
今世ほど友人が居ないということはなかったとはいえ、実質は似たようなものだったかもしれない。
覚は家電量販店の家庭用ゲーム機コーナーでトールに一目惚れしたけれど、顔だけ好きなわけではもちろんなかった。
画面の向こうの彼はいつも1人で、寂しそうで、それなのに他人を拒絶していて……御嘉の居ない自分を想像したら、こんな風だったのではないかと思わせる姿をしていた。
違う世界に生きるトールへ届くのはヒロインの声だけで、それは覚の気持ちとはズレていて、それでも彼の救われる姿は覚に生まれて初めての感動と希望と、恋心をもたらした。
トールへの恋心は前世では笑いものにされるだけの、異常な感情だったから、御嘉以外には話せなかった。
ただトールの情報を追いかけて、彼の新しい言葉1つ、表情1つに喜んだ日々は、覚にとって初めて得た自由で、幸せだった。
前世では触れられも、声を届けることも出来ないトールは遠い人で、結ばれる相手はヒロインだけ……それが、生まれ変わってみれば、同じ世界にいて、いくらでも近くへ寄っていけて、触れることも出来て、伝えたい言葉全てを届けられる婚約者になった。
メルカが口を開けば罵倒、拒絶、眉間の皺1つ、とにかく何か反応はしてくれる。
メルカが、メルカだけの言葉で愛を伝えることが出来る、トールを1人にしないでいられる。
そんな環境に、暴走していたことは確かだ。
メルカにだって自覚くらいある、見ないふりをしていただけで。
トールとメルカ・ロマリウスの背景事情を知っていれば、トールがメルカをきっと一生愛しはしないことだって、分かっている。
それでもメルカはトールの全て、声も仕草も表情も、父親に顧みられたい一心で無茶な程の努力を重ねる一途さも、1人でいるときの寂しさを隠す冷たい空気も、メルカを見て浮かべる嫌悪の情だって、何もかもが好きなのだ。
本当は前世と何も変わらないのかもしれない、トールへ届くのはミシェルという少女の清らな心、ただそれだけなのかもしれない。
でも、ミシェルという少女が居ない以上は、メルカが頑張ってみても良いのではないか。
最期まで、メルカは諦めたくない。
今の状態を変えたい、ミカエルとの距離感のことを含めて、ちゃんと話をしたい。
前世がどうのと言い出したら頭がおかしくなったと思われるかもしれないが、よく考えれば今更の話だった。
メルカ・ロマリウスは恋に狂った、非常識な令嬢なのである。
夏季休暇が終われば……トールも多少、落ち着いているはず。
少なくともメルカ1人で会うのに、あの交友会の日のような激昂は見せないだろうと思う。
休暇明け、会いに行こう、今までと同じように、貴方のことだけが好きなのだと伝え続けよう。
メルカの決心を、ミカエルは馬鹿にはしなかった。
呆れつつ、「危ないと思ったら俺を呼ぶこと。」とだけメルカへ念押しした親友は、前世から変わらずどうしようもないメルカの恋心を、最終的には受け入れてくれるのだ。
7月も半ばになって、1学期の終業式があり、メルカはミカエルと、昼の明るい時間帯に寮への道を辿っていた。
メルカがトールへのストーキングを禁じられて以降は、ミカエルがメルカを女子生徒寮まで送って行き、それから1人で男子生徒寮へ帰る生活をしていて、今日もその道順は同じである。
件のトールは、ミカエルの予想通り、終業式までに学院へ戻ることはなかった。
「結局メルは休暇中何するの? 家の掃除だけ?」
「そうですわね……家の掃除、というか家政ですけれど、タウンハウスにも領地の本邸にも、それぞれしっかりした管理人がおりますし、わたくしが手を入れなくてはならないことは少ないのですわ……ケムエルン侯爵領へいつでも行けるよう、わたくしがそういう体制を整えたのですけれど」
以前も言った通り、流石のメルカもトールの公務の邪魔はしたくない。
領地へ戻って、ケムエルン侯爵領の状況が落ち着いたと聞けば、休んでいた間のノートを貢ぎに行くなどのストーキングの理由は立てられるが……あのトールのことだ、休む前にあらかた手配していて、メルカの手伝いなど必要とはしないだろうし、やはり休暇明けを待つのが良い気がした。
「つまり暇なんだ」
「そうとも言えますわね」
「じゃあさ~」
ミカエルは子供っぽく笑う。
前世からミカエルがメルカを遊びに誘うとき、いつもこんな目の輝かせ方をしていたなとメルカは思い出し、ミカエルの次のセリフに大体の予測がついた。
「この休みは俺と一緒に冒険者やろーよ! メルも平民の暮らしには多少興味があるでしょ」
「まあ、多少は……でもバレたら面倒ですわよ? わたくしの身分」
「だいじょーぶだいじょーぶ、学院で知り合った豪商のお嬢様だって言っとけば。平民に貴族様の上下の区別なんかつかないから」
メルカも学院で実技試験を受け、その上で5位以内という成績順に身を置く人間だ。
攻撃手段は魔法が主体とはいえ、かなり精緻で強力な魔法が使える。
ミカエルの務める前衛に不安を覚えることはないし、メルカが居る以上ミカエルは慎重に慎重を期して行先を選ぶだろうし……危険は無いと思われた。
王宮の次の主であるクリスも、そういえば「最近つまんないな~、何か面白い話無いの?」などとのたまっていたし、休暇明けに冒険者体験を話したらそれはもう、身を乗り出して聞き入るに違いない。
何なら「その手があったか、私もやる!」とか言い出しかねないが、黙っていてもバレるのだけは確かだ、王太子の奇行は彼の周囲に頑張って止めてもらえば良い。
平民に混ざって、魔物を狩るなんて……高位の貴族令嬢でそんな体験が出来る者はそう居ない、メルカも少しワクワクしてきた。
「じゃあ、アリバイ作りを考えなくてはなりませんわね」
タウンハウスも本邸でも、使用人らがメルカの暴挙を知れば卒倒しかねない。
何て言って邸を抜け出そうか……そんなところまで話が弾んでいて、かつ、昼日中で、何度も通った学院近くの警備の厳重な道であるという意識が2人ともにあって、背後を気にする警戒心が抜けていた。
まさか、すごい速さで近づいて来た小さな馬車から伸びた手が、メルカの腕を掴んで馬車へ引き入れ、そのままさらっていくなど、考えもつかなかった。
「おい!」
ミカエルは咄嗟に追撃の魔法を撃ち込もうとするも、馬車が小さすぎて中のメルカを巻き込みかねないこと、またその馬車の掲げる家紋に気づいて躊躇した。
その間に馬車は道の先を曲がり、ミカエルの追跡の及ばない速さで去って行ってしまった。
いつの間に気を失ったのか定かでない――目を覚ましたメルカは、知らない部屋にいた。
部屋の中は貴族邸らしい装飾と調度が揃っており、何故だか部屋の雰囲気にはいくらか見覚えがある気もする。
天蓋付きのベッドに寝かされていて、手足に拘束はない。
どのくらい気を失っていたのか分からないが、記憶の最後には、ミカエルの焦った顔が残っている、きっとこの上なく心配をかけていることだろう。
ひとまず、立ち上がったメルカは構造から鑑みるに部屋の出口だろう扉のノブへ手をかけた。
ガチリ。
厳重に施錠されているらしい音が、メルカの他には誰も居ない瀟洒な部屋に響いた。
拉致監禁……メルカの脳にはその4字がハッキリと浮かんでいた。




