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四章その1 警戒

 駅から少し離れたところにあるカフェ。

 その店内の奥まった場所にあるパーテーションに囲まれた席で、俺と吹雪は向かい合わせに座っていた。

 俺の前にはミルクのたっぷり入ったカフェラテが、吹雪の前には苦味の強い品種のブラックコーヒーが湯気を立てていた。


 開口一番、俺は言った。

「特別実験棟で、まほろの診察をしたいんだ」

 都内最大の精神病院にある特別実験棟。

 ここはあらゆる状況での人間の行動心理を実験によって調べるために作られた建物だ。

 建物内は一、二階は洪水、地震といった自然災害を疑似的に再現する設備があり、三階から上は用途別の個室が並んでいる。

 そして今回使用する地下は全ての部屋が逆シェルター構造になっており、室内で何が起こっても外部には被害が及ばないよう設計されている。重機関銃をぶっ放そうが、キャッスルブラボーを爆破させようがびくともしない素材でできており、防護服を着た人間が室内で兵器の破壊力を前にどんな精神状態になるかなどの研究に使われるという。


 この病棟は設備の異常さ故とにかく悪い噂が後を絶たず、「ここでは非人道的な実験が行われている」と別の病棟の勤務者でさえ信じているらしい。治験にも使われるが、この病棟の名前が出るだけで募集率がぐっと落ちる。「特別実験棟で被験者を病ませて患者にして、治療費を請求すれば丸儲け」というジョークはネットを通して日本中に広まっている。

 だから吹雪が警戒したのは無理もなかった。

「……なぜ、実験棟で?」

 俺は努めて笑みを作って答えた。

「保険だ。俺の読みが外れた時のな」

「わたくしは何をするつもりか訊いたのですが」

「今は言えない。でも俺を信じてほしい」


 しばらく俺の顔を睨んだ後、吹雪は目を伏せて溜息を吐いた。

「……分かりました。ですが――」

 開かれた瞳は、研がれた刀のような冷然とした光を放っていた。

「もしもお嬢様に何かあったら、あなた様には命をもって償っていただきます」

「もちろん。俺は命がけでまほろを救うつもりだ」

「……分かりました。その言葉を信用しましょう」

 かくして特別実験棟でのまほろの診察が行われることとなった。




 実験当日。

俺はクリニックの休憩室で、診察の手順を再確認していた。

急に腹が痛くなり、お手洗いに向かおうと席を立った時、ドアが開いた。

「どこへ行くの?」

 髪をかき上げながら、ロールが入ってきた。

「花摘みだ」

「もう六度目よ。出勤してからまだ一時間しか経ってないのに」


 壁掛け時計を見ると、午前十時を指していた。

「朝食べた卵が腐っていたのかもしれないな」

「アナタ、自炊してないわよね」

「最近始めたんだ」

「ふーん。この前家に行った時は、冷蔵庫の中すっからかんだったけれど?」

「俺の家の冷蔵庫を勝手に覗かないでくれ」

「せっかくレディが来たのに総菜パンとカップ焼きそばしか出さないんだもの。冷蔵庫のプライバシーを侵害されたって文句は言えないわ」

 俺は両手を上げて肩を竦めた。

「そうだな。俺が悪かった」

「別に責めているわけじゃないわ。……緊張してるんでしょ、まほろのことで」

「まあな。不安で仕方がない」


 ロールは笑みを浮かべて、俺の手を取った。

「もしも上手くいかないって思ったら、実験棟の許可なんて取らないわ」

「感謝してる。俺みたいなひよっこじゃ、実験棟の使用許可なんてくれなかった。ロールが名前を貸してくれたおかげで、治療ができる」

「どういたしまして。でもアナタなら、すぐにアタシを追い抜いて立派な精神科医になるわ」

「だといいんだが。最悪、今日で医師の資格を剥奪されるかもしれない」

「そうなったら許可を取ったアタシも道連れね」

「参ったな。それじゃあ絶対に失敗できない」

 急にロールが距離を詰めてきて、背中に手が回された。彼女の柔らかさと温もりが服越しに伝わってくる。

 耳元でロールが囁くように言った。

「大丈夫。きっと成功するわ」

 俺も彼女の腰に手を回し、肩に顔を埋めた。

 ふわりと香水のフルーティーな香りがした。


   ○


 外部からしか開かない入り口を通り、階段を下る。

 実験棟の地下一階。

 辛気臭い病院の中でも、ここは格別に居心地が悪い。どの部屋も防音で、廊下を歩いていても音という音がなく、すれ違う人間も少ない。建物は違うが霊安室の傍よりも下手したら人気が無い。


 手前から数えて四つ目、三号室と書かれたプレートの部屋に入る。数が合わないのは一号室の前に救急治療室というものがあるからだ。実験で負傷者が出た場合はここで治療する。とはいってもここだけは設備が大したことがなく、簡単な応急処置しかできない。実験で使っている兵器の破壊力を考えれば、あっても無駄、気休めにもならないと関係者は思っているに違いない。

 部屋に入ると自動で照明が点いた。

 室内は住宅一軒がまるまる収まるぐらい広い。こんなに広いスペースが必要になる実験って一体どんなものなのだろう。古代ローマの人と猛獣の決闘でも再現しているんだろうか?

 壁には窓が一つもなく、スピーカーを除けば外部からの音は完全に遮断されている。

 照明だけは他の部屋同様の明るさだ。


 すでに必要なものは運び込んでおり、点検も済んでいる。

 一応念のため、部屋を見回して最終確認する。

 右端には診察用の事務机が一台、椅子が二脚。

 机上には卓上ライトとカルテとペンが数本。机の中には小道具が入っている。

 机の横には消火器が一本置かれている。よく見かける側面の赤い普通のものだ。

 部屋の奥の左隅にはサイドテーブルがあり、その上に古いCDプレーヤーが置かれている。病院から借りた備品だ。もしかしたら、後で弁償しなければいけないかもしれない。

 一般住宅ほどの面積と高さがありながら、室内にはこれだけのものしかない。


 自分の格好を見下ろしてみる。

 綿のワイシャツにウールのズボン、クレアシオン生地の白衣。

 それと手を覆っている、ガンツフェルト生地の黒いグローブ。

 ふいにスピーカーからポーンという軽いブザー音がした。

 ドアを開くと、廊下には白衣を着た若い男がカルテを持って立っていた。

「楼流さん。賀集まほろさんのバイタル検査が終わりました。結果はこちらをご覧ください」

「ありがとう」

 俺にカルテを渡すと、男は頭を下げてそのまま去っていった。

 ドアを閉じて、カルテを一通り眺める。そこには俺の思った通りの結果が記されていた。

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