四章その2 荒療治
再びブザー音が鳴ったので、ドアを開けた。
「ジークさん、こんにちは」
廊下にいたのは制服を着たこころだった。
「……やっぱり来たのか」
「今日治療するって教えてくださったのはジークさんではありませんの」
「そうだが、まさか本当に来るとは思わなかった」
こころは白衣の裾をつかみ、上目遣いに俺を見てくる。
「一生のお願いですわ。あたくしをまほろちゃんの治療に立ち会わせてください」
彼女の目からは硬い意思を感じ、梃子でも動かぬだろうと察せられた。
「……分かった、認めよう」
「本当ですの!?」
歓喜するこころに、俺は強い口調で言った。
「ただし一つ条件がある」
「治療に立ち会えるなら、どんな条件でも飲みますわ」
「治療の最中は、実験室の隣の観察室で大人しく見ていてほしいんだ」
「どういうことですの?」
「とりあえず部屋に入ってくれ」
俺はこころを部屋に入れ、右奥に向かっていった。
そこの壁の一部を押すと微かな金属音が聞こえ、ドアのように左半分が奥に沈んでいく。
「隠し扉ですの!?」
「ああ。普段は被験者には秘密にしてるんだ」
隠し扉の奥には小さな一室がある。
そこには録音スタジオのようにあらゆる機材が置かれている。機材の中には特に大きなモニターが四台あり、画面はさらに四分割されていて、様々な角度から実験室が見れるようになっている。
「この部屋からなら、実験室の様子をリアルタイムで確認することができる。壁一枚越しだが治療中、まほろの傍にいてやることもできる」
こころはドアとモニターを何度か交互に見やった後、口を開いた。
「……分かりました。ここで治療の様子を見させてもらいますわ」
「すまないな。あと悪いが、音声は切らせてもらっている。診察や治療中の会話は機密事項に含まれるから、聞かれるわけにはいかないんだ。それと俺が出たら鍵を閉めといてくれ。万が一ってこともあるからな」
「承知いたしました」
こころは俺の手を取り、真っ直ぐ目を合わせてきて言った。
「どうかまほろちゃんのことを、助けてあげてくださいまし」
俺は大きく頷き、こころの手を握り返した。
その時、三度目のブザーが鳴った。
「……行ってくる」
こころは微かに頷き、俺の手を放す。
彼女の横を通り過ぎて、隠し扉を開ける。
背後で扉が閉まり、鍵がかけられる。
狭い観察室から出て改めて見ると、実験室はより広々としているように感じられた。一人きりでいるからというのも、無論あるだろう。
漠然とした不安が胸の内に芽生える。
だがそれを表に出すことは許されない。お天道様なんていう不確かなものじゃなくて、今の俺をしっかり見ている人がいるのだから。
頬を強く叩き、気合を入れる。
呼吸を落ち着けてドアを見据え、一歩一歩地を踏みしめて進む。
ドアの前で立ち止まりノブに手をかけ、力を込めて引く。
開いたドアの向こうには、予想通りの姿があった。
「待ってたぞ、まほろ」
まほろは覇気の無い表情で小さく頷く。
今日の彼女の服は海外ブランドで作られた一級品で揃えられている。トップは滑らかで柔らかそうなニット、スカートは星空のようなプリュミティ刺繍がなされたチュール生地。アイボリーのドレスはピアノの発表会に来て行ってもおかしくないぐらい上等だ。それと頭にクリスタルの装飾が施された金色のカチューシャを付けている。
良家のお嬢様の雰囲気が漂う完璧なコーデ。
だが今のまほろにはお洒落なんて考えている余裕はなさそうだ。おそらくこの格好は吹雪のチョイスだろう。
まほろの隣には看護婦が付き添っていたが、俺に頭を下げてすぐに立ち去っていった。
たった数日会っていなかっただけなのに、まほろは依然見た時よりもやつれて見えた。元々細身だったから、今の姿からは不健康な印象を受けてしまう。
「……ちゃんと飯、食べてるか?」
彼女は表情を変えずに首を横に振る。以前から引っ込み思案な性格ではあったが、会話することはできていた。精神的にかなり弱っているらしい。
こんな状態のまほろに治療を行っていいものかと迷いが生じた。
俺が行おうとしているのはかなりの荒療治だ。失敗したら現状を改善するどころか、まほろの心に新たなトラウマを植え付けることになってしまうかもしれない。
だがその迷いは憔悴したまほろを見ている内に消えた。
もしもここで治療をやめたらまほろはますます弱って、取り返しがつかないことになるかもしれない。
覚悟を決めて、俺はまほろの手を取った。
「……こっちに来てくれ」
まほろを部屋に入れてドアを閉め、鍵をかける。
彼女は手を引かれるままに俺についてくる。まるでそうプログラミングされたロボットを相手にしているように、彼女からは生気が感じられない。
まほろを席に着かせ、俺は事務机の前の椅子に座る。
「……検査の方はどうだった?」
質問に対しまほろが答える様子がない。ただぼんやりと宙を見ているだけだ。その姿は屋敷で見た放心状態の喜久子にそっくりだった。
彼女の場合はまほろの名前が引き金となって正気を取り戻した。
なら今回も同じ方法でどうにかなるのではと、試してみることにする。
「なあ、まほろ。喜久子さん……お母さんとは話せたか?」
じっと観察したが、まほろはまったく反応しない。
めげずに俺は続ける。
「金之助……お父さんは確かに、酷いヤツだ。せっかく娘の作ったクッキーを粉々にするなんてな。でもまほろ自身を嫌ってるわけじゃないんだ」
瞬き一つさえ、まほろはしない。人形のように微動だにせず椅子に座っている。
「この前、こころと会ったんだ。俺にはああいう幼馴染っていないから、まほろが少し羨ましいよ」
どれだけ心を込めて語りかけても、まほろには届かない。
「吹雪はさ、ちょっと冷たいけど、いいヤツだよな。金之助の命令を無視して、お前のために色んな場所に連れてってくれてさ。吹雪との思い出、たくさんあるんだろう? 俺にも聞かせてくれよ」
光を失った瞳は、虚空以外に何も映さない。
俺はまほろの手を取り、彼女の名前を呼んで強く、必死に訴えた。
「なあ、まほろ。何か言ってくれよ。まほろ……!」
しかし彼女は答えてくれない。
まほろの手を放すと、それは振り子よりも力なく重力に引かれて垂れ下がる。
俺は唇をかみ、自分の不甲斐なさを悔やんだ。
彼女の医師でありながら、今まで何もできなかった自分が情けなくて仕方がない。
だからこそ。もうこれ以上後悔しないために、俺はこの場で決断しなければいけない。まほろに苦痛を強いる決断を。
深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。そして頬を叩き、覚悟を決める。
席を立ち、部屋の隅にあるCDプレーヤーに向かって歩いて行く。
黒く重たく、不親切なぐらい小さなボタンがたくさんついていて、無駄にデカい。
長いこと使われていなかったそれは、ついさっきまで埃をかぶっていた。
プレーヤーにはすでにディスクが入っている。
動作確認は済んでおり、プレーヤーにもディスクにも異常はなかった。
後は再生ボタンを押すだけでそこに録音された音を流し始める。
すでにさんざん悩んだ、考えた。
迷いはなく、伸ばした腕は止まることなく。
指先は再生ボタンに触れ、一押し。カチリと音が鳴り、ディスクが回りだす。
ピアノの強く厳しい音を皮切りに、スピーカーから旋律が流れ始めた。
フレデリック・ショパン作曲『幻想即興曲』。
ピアノによって奏でられる独奏曲で、主に急き立てるような荒々しいメロディと、緩やかで物寂しい調べの二つで成り立っている。
ラストは感情が入り乱れるような音の洪水で最高潮を迎える。
ショパンの曲の中では有名なものらしいが、俺は音楽に関してほぼ興味がなく、今まで知らなかった。
それでも出だしで聞く者の心を強く引きつけ、そこから美しい音色で旋律の世界に迎え入れるドラマティックな演奏は、無関心な俺でもつい聞き入ってしまう。
演奏時間が五分と短いこともあり、クラシック音楽の中ではとっつきやすい印象を受けた。
多くの人に愛され、今もなお聞き続けられる名曲。
しかしその音色は、ある一人の少女の恐怖を呼び覚ます。
「いや……いやっ!」
背後から少女の声が聞こえる。
透明感あるピアノの奏でる音に勝るとも劣らない、耳に心地いいはずの声音。
しかしその声は今、悲鳴となって俺の心を突き刺してくる。
「やめてっ、その音楽……いやなの!」
その懇願を無視して事務机に戻り、引き出しを開けた。
俺が取り出したものを見て、まほろの苦し気な表情は恐怖によって引きつる。
「なっ、そっ、それって……」
糸の飛び出た白く滑らかな太い棒に金色の皿、そして小さな箱。
「見て分からないか? 蝋燭にキャンドルプレート、それとマッチ箱だよ」
まほろの顔からさっと血の気が引く。
椅子に座ったまま後ずさろうとした彼女は、体勢を崩し転げ落ちてしまう。
だが俺は構わず小箱からマッチ棒を取り出し、赤い頭を箱の側面に擦りつける。
「やっ、やっ、やめてッ……!」
まほろは飛びかかってきて俺からマッチを奪おうとする。
しかし彼女の動きは遅く、横に少し移動するだけで簡単にかわすことができた。
目標を失ったまほろは勢いそのまま床に倒れ込む。
ちょうどその時、頭薬と側薬が反応し火が灯った。
顔を上げたまほろがそれを目にした瞬間。
「いやぁあああああッ!」
彼女の手からマッチの火とは桁違いの巨大な紅焔が噴き出した。
すぐにマッチを振って火を消したが、もう遅い。
暴走したまほろは我を忘れて焔を現出させ続け、『幻想即興曲』の旋律がさらにそれに拍車をかける。
焔は床や壁に燃え移り、勢いを増して燃え上がる。
俺は消火器の安全ピンを抜きレバーに手をかけ容器を持ち上げ、ホースの先端を手にまほろの周囲で燃える焔に狙いを定めた。
そしてレバーを強く握り、消火剤を噴射する。
勢いよく放たれた消火剤は火を射抜くかのごとく命中した。しかしいくら消火剤をぶっかけても焔が弱まることはなく、むしろますます激しく燃え盛っていく。
やがて焔はまほろの周囲を包み込み、彼女の姿が遮られ影絵のようにしか見えなくなる。
一際高く燃えた焔が鎌首をもたげてこちらを見下ろした。その先端がぱっくり割れ、俺を嘲笑うかのように歪んだ。
「チクショウ……」
熱を感じ、額に汗が浮かぶ。
喉が渇き、内側が引っ付きそうだった。
サウナなんて目じゃない、全てを焼き尽くす灼熱が室内を支配していく。
思考がぶつ切りになり、視界が霞みがかっていった。




