6-21『三度目の核』
第六章
第二十一話『三度目の核』
胃と心臓と、それから他のあらゆる内臓が、口から飛び出るかと思った。
「大丈夫かあい?」
「……はい」
クイニークさんの肩から下ろされた私は、へなへなとその場に座り込みながら、辛うじて返事をする。
どう見ても、大丈夫には思えないだろう。
私だって、大丈夫だなんて一つも思えないまま、それでもなんとか頷いただけだ。
そんな私の情けない姿を見ながら、それでもクイニークさんはそれ以上何も言わなかった。
はあ、と一つ息を吐き出してから、顔を上げる。
目の前には、崖に囲まれた岩場に根付く、白黒の大樹があった。
岩ばかりで色合いは少ないとはいえ、普通の景色の中に色のない木が生えてる様子は、酷い違和感がある。
辺りに漂う腐敗臭は、過去の二回よりもやっぱり強い。
そしてその大樹の幹に、項垂れた女性が生えている。
この不思議な様子も三回目になれば、流石に少し慣れてきた。
長い髪が顔を隠していて表情は判らないけど、下半身を幹と同化させたような状態の女の人がそこにいる。
そこまでは今までと同じだったけど、目の前の女の人は、前までと明らかに違う部分があった。
髪の長さとか、胸の大きさとか、そういうところじゃなくて。
彼女の肌が、所々ケロイド状に盛り上がってる。
白黒の状態ですら痛々しいと思うくらいに、彼女の身体は傷痕だらけに見えた。
「……順当にいくとねえ」
私の視線を追うようにして、クイニークさんは静かな声で続ける。
「今の時期だとお、南の大樹が力を落とすんだよねえ」
「はい……」
やっぱりそういうことだよね。
崖の上でも充分に感じた腐敗臭が、これだけ近くに寄ると、今までよりもずっと強いことも判る。
今までの大樹の核は、匂いはともかく、見た目で弱ってるかどうかはよく判らなかった。
白黒なのと項垂れてるのは最初から全部そうだったから、そういうものなのかと思う部分もある。
だけど今回の彼女は……南の大樹の核は、ひと目見ただけで弱ってるんだと判った。
本来であれば力を落とすのはこの南の大樹だけで、他は元気であるはずなのに、東の大樹も力を落とし始めてる。
そう聞いていたけど、やっぱり西や北の大樹も弱り始めてるんだろう。
そうでなけりゃ、世界を支える大樹から腐臭がするなんておかしな話だ。
最初から腐った大樹に支えられてる世界なんて、少なくとも私が見てきた平穏を保てるはずがない。
「アディ」
「はい」
呼ばれて、クイニークさんを見上げる。
「立てるかなあ?」
にこりと微笑みながら、クイニークさんは私に手を差し伸べてきた。
クイニークさんが訊きたいのは、本当に立てるかどうかじゃなく、このまま先に進めるか、だ。
私は一度大きく深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
強い腐臭に眉が寄りそうになったけど、なんとかそれを我慢して。
「大丈夫です」
そう答えて、クイニークさんの手を借りて立ち上がる。
まだちょっと、ほとんど直角の崖を滑り落ちてきた衝撃が足腰に残ってるけど、立てないほどじゃない。
このままここでへたり込んでたって何も変わらないなら、行くしかない。
「いい子だねえ」
にこにこと微笑って、クイニークさんは私の手を引いたまま、大樹のほうに足を進める。
「こんにちはあ」
そうして躊躇うことなく、俯いた女性に声を掛けた。
けれど彼女は、クイニークさんになんの反応も返さない。
「こんにちはあ。聞こえますかあ?」
もう一度、クイニークさんは彼女に呼び掛けた。
今までなら、これで顔を上げてくれたんだけど。
やっぱりというかなんというか、目の前の女性は顔を上げるどころか、ぴくりとも動いてくれなかった。
クイニークさんはううん、と首を傾げてから、もう一歩、前に踏み出した。
「こんにちはあ」
彼女の耳元に口を寄せて、クイニークさんは穏やかな声を掛ける。
そうして漸く、彼女は小さく身じろぎした。
クイニークさんは女性から身体を離し、じっと彼女を見つめる。
私も、ゆっくりと顔を上げる彼女から、目を離すことができない。
顔を上げた彼女は、他の大樹の核と顔立ちは違ったけど、やっぱり姉妹だと言われればそうなんだろうと思うくらいには、何処か似た雰囲気だった。
ぼんやりとこっちを見る目は、輪郭だけが黒くて、それ以外は無色透明の空虚な雰囲気だっていうことも似てる。
ただ、顔にもケロイド状の傷痕みたないものが広がっていて、それが酷く痛々しかった。
「こんにちはあ。僕はクイニーク・ハモンといいますう。南の領主をしていますよお」
彼女から身体を離し、改めてといった様子で、クイニークさんはそう言った。
「こっちの子はアディといいますう。貴方はなんと仰るんですかあ?」
にこにこと優しく微笑いながら、クイニークさんは首を傾げる。
返ってくる言葉は予想してるんだろうけど、それを確認する為の問い掛けだ。
『……』
輪郭だけが黒い、透明なビー玉みたいな目が、私たちを虚ろに捉える。
微かに唇が動いたけど、そこから声は聞こえてこない。
私たちは黙ったまま、次の言葉が続くのを待った。
『……わた、し、は……』
彼女の唇は、確かに動いてる。
だけど聞こえてくる声は、やっぱり夢の向こう側から聞こえてくるような、不確かなものだった。
今までと比べても掠れていて、何処か頼りない音だ。
『わた、し、は……南に、在るもの』
そしてやっぱり、過去二回と同じような名乗り方をする。
だからどういうことだよ、と思いはするけど、これはきっと大樹の核としての名乗り方なんだろう。
想像していた通りの言葉を聞き、クイニークさんは静かに微笑んだ。
「貴方がお望みなのはあ、アディですねえ?」
そう言われて、胸の奥で心臓が跳ねる。
私は何も言えないまま、黙って南の大樹の核を見つめた。
『……』
痛々しい傷跡の目立つ彼女は、小さく唇を震わせながら、私を見る。
色のない目からは、なんの温度も、なんの感情も伝わってこない。
『あ、あ……』
微かに聞こえる、涙が滲んだかのような、震える声。
だけど目の前の彼女は、表情さえ変えていない。
『くだ、さい……わた、しに……あな、たの……せい、を……』
北の大樹の核よりもはっきりと、彼女は望みを口にした。
だけどやっぱり、私に対して何を望んでいるのか、それがよく判らない。
『せい』って、どういう意味だ?
「貴方が欲しいのはあ、次に繋げる為のものですかあ?」
私はただ固まってしまってるだけだったけど、クイニークさんは違った。
彼は目を細めて、静かに大樹の核に問い掛ける。
『……』
大樹の核である彼女は、クイニークさんの言葉に声は返さず、ただ小さく、小さく頷いた。
クイニークさんは目を細めたまま、小さく息を吐く。
「アディ」
「は、はい」
突然呼ばれて、私は慌てて声を返した。
ゆっくりと私に振り返ったクイニークさんは、眉尻を下げ、困ったような顔をしている。
「お願いできるかあい?」
ここから先は、私しか行くことができない。
それは今までの流れから判ってる。
そのことを、他のみんなが後ろめたく感じていることも、理解してるつもりだった。
「はい、大丈夫です」
私は、ここから先に行く為にこの世界に喚ばれた。
だけど、この世界に生きる誰かに喚ばれたわけじゃない。
彼らは黎明の石板から、私が来ることを一方的に告げられたようなものだ。
この世界のみんなが私に対して後ろめたさみたいなものを感じてるのは、自分たちが私という稀人を召喚したわけじゃないからだろう。
この世界の崩壊を防ぐ為に、稀人という存在がやって来ると言われていたけれど、実際に来たのは過去の記憶すらなくて、召喚されたっていう自覚もない存在だったから。
それでも『お前は稀人なんだからどうにかしろ』と強要しても良かっただろうに、彼らは私という一個人を尊重してくれた。
もしも私に、稀人という存在への自覚があれば、もう少し違った対応をされたんだろう。
「行ってきますね」
私は小さく微笑んで、クイニークさんから手を離した。
前も、その前も。
私は誰かに手を引かれてこの場所までやって来て、最後にはその手を自分から離した。
それが護られるばかりの私にできる唯一のことで、私にしかできないことだと思う。
手袋越しでも判る温かい手を離して、私は南の大樹の核の前に立った。
透明な眼差しが、虚ろに向けられる。
「私にできること、ありますか?」
その目を見返しながら声を掛けると、彼女は小さく唇を震わせた。
何か言おうとしてるみたいなんだけど、巧く声にならないらしい。
どうしよう、と思ってたら、ゆっくりと白黒の手が伸びてきた。
今までの二人よりも少し細く感じるその手にも、傷痕みたいなものが沢山ある。
黙ってその手を受け入れようとした、その時。
『……つぎの、いのちを、ください』
「え?」
掠れたような声が、理解できない言葉を紡ぐ。
その意味を考えようとする前に、白黒の手が私に触れた。
イイイイインン────!
あの耳鳴りが襲ってきて、また急に視界が切り替わった。
続




