ある日、風邪をひいた。
嫌な予感はしていた。
喉に少し違和感があるな?と思っていたら翌日痛みが出て、悪寒とともに発熱した。
37.6℃。そこまで高くないので、薬でも飲んで安静にしておけばいいだろう。
職場に休みの連絡を入れて、風邪薬を飲む。
本当は食後がいいのだろうが、食欲はあまりない。とにかく寝る作戦で行こう。
もそもそとベッドに戻って横になり、目を閉じる。
咳が出て、鼻も詰まって、体もだるい。
久々にこんな風邪ひいたなぁ。
年末の忙しい時期や、クリスマスに被らなくて良かったと思おう。
「…マユミ?」
「ん…」
名前を呼ばれて目を開けると、皇帝さまが神妙な顔で覗き込んでいた。
「どうした?この時間は仕事ではないのか?」
そういう皇帝さまもどうしてこんな時間にここに居るんだろうか。
「ちょっと…体調が悪くて。お休みしました」
「酷い声だ」
そう言って綺麗な顔を歪ませた。聞き苦しくて申し訳ない。
「ハルさんは、どうしたんですか…?」
「ワードローブから明かりが漏れていたのでな。消してやろうと思ったのだが」
消し忘れだと思って様子を見に来たのか。優しい。
顔を背け、ゲホゲホと咳き込む。
うう、息が苦しい。
「医者には?」
「多分、ただの風邪なので…」
「診せていないのだな」
呆れたように息を吐く皇帝さま。
今の症状程度であれば、私は病院へ行く程ではない。と思う。
明日酷くなっていたら考えようかな、くらいの気持ちだ。
医者嫌いと言われてしまえば、否定はできないけれど。
「薬は飲んだので、寝てれば大丈夫です」
「食事は?」
「…あとで食べます」
寝て起きたらきっと食欲も戻って来るだろう。
今はとにかく寝てしまいたい。
皇帝さまが指を伸ばし、汗で貼り付いた前髪を分けて額に触れる。
その近さと、ボロボロの顔を見られるのに耐えられず、布団を頭まで被った。
「…すみません。うつして、しまうかもしれないので、帰ってもらえますか」
布団越しにもごもごと伝える。
言葉を選んだつもりだけれど、気遣う余裕がなかった。
皇帝さまに風邪をうつすわけにはいかない。
「多分、2、3日で治ると思うので…しばらく、来ないでください」
反応がなかったので、聞こえなかったかもしれない、と口元だけを布団から出して言う。
また咳き込みそうになって、すぐに被った。
「…わかった。ゆっくり休め」
そう返事が聞こえて、ポンポンと布団を叩かれる。
その後、気配が離れていき、パチッと電気を切った音と、続けてクローゼットの閉まる音がした。
追い出すような言い方をしてしまったが、うつしてしまうよりよっぽどいい。
無礼は全部後で謝ろう。
どうにか目を閉じて、意識を闇に沈ませた。
「う…」
次に目を覚ましたとき、部屋の中は薄暗かった。
トイレに行きたい。
まだ怠さを感じる体をのっそりと持ち上げ、部屋をよたよたと移動する。
なんとかトイレへたどり着き、用を済ませる。
鏡を見ると、酷い顔が映っていた。
キッチンの蛇口をひねってコップに水を取り、一気に飲み干した。
想像以上に喉が渇いていたらしい。
もう一杯水を汲んで、リビングに戻る。
時計の針は13時過ぎを示している。
それにしては薄暗いので、どうやら天気も悪いようだ。
なんだか気分も落ち込んでしまう。
部屋の電気をつける。
すると、起きたときには気づかなかったけれど、ちゃぶ台の上に見慣れぬ木のコップと、その横に紙が置いてあった。
『のめ』
少し粗くざらついた紙に、たった二文字のひらがながインクで書かれている。
まさか、皇帝さまの手書き?
いつの間に習得したのだろう。『め』なんてひらがなの中でも難易度が高いだろうに、とても綺麗に書けている。
そう感心しながら横のコップの中身を見て、思わず顔をしかめた。
緑がかった黄土色のような、説明しがたい色の液体で満たされている。
濁ってはいるがなぜか透明感があって、なにか繊維のようなものが浮いている。
匂いはわからない。なんせ鼻が死んでいる。
それが余計に怖い。
これを、飲むのか…。
向こうの風邪に効くものが、こちらの風邪にも効くのだろうか?
…などとぐるぐる考えるが、どのみち飲まないわけにはいかない。
あんなに態度の悪かった私に、わざわざ用意してくれたのだ。
皇帝さまが慣れない文字を書いてまで飲ませたいと思っているのだ。
愛が試されている。
「…いただきます」
意を決して、喉へと流し込む。
鼻は機能していない筈なのに、喉の奥から草と土の香りが込み上げる。
液体なのに、なぜか粉っぽい。
そして妙に甘い。これが舌に嫌な後味を残していく。
…要するに、酷い味だ。
一度飲むのをやめると二度と口をつけない気がして、なんとか一気にあおる。
そして、口の中を洗い流すように水も飲んだ。
ふう、と一息吐く。
向こうの世界では風邪をひくとこれを飲まなければならないのだろうか。
錠剤のありがたみが身に染みる。
ちゃぶ台に空のコップを置くと、ポン!と軽い音とともに、小さな木製のケースが現れた。
思わずビクリと肩を揺らした。なんだ魔法か。
可愛らしい小鳥の描かれたケースのフタを開ければ、中には透き通った小さな宝石が入っていた。
すごく綺麗だ。
部屋の明かりを受けると、奥にだけ淡い水色が浮かんで見える。
少しだけ気泡も見えた。
…これ、もしかして、飴?
触ってみると、確かに少し引っ付く感じがする。
違ったら恥ずかしいなと思いながら恐る恐る舌先で舐めてみた。
ほのかな酸味のあとから、口の中がすうっと冷えるような清涼感が広がる。ハッカほど強くはなく、柑橘系のようなすっきり感だ。
よかった。ちゃんと飴玉だった。
舐める前に写真撮ればよかったな、と後悔しつつ、もう遅いので諦めて舌に乗せて転がす。
変に残っていた口の中の甘さと香りが、爽やかに上書きされていく。
わざわざ飲み干したあとに出てくるということは口直し用なのだろう。
ありがたいな。
電気を消して、飴を舐めながらベッドへ戻る。
もう一眠りして、夜にはちゃんとご飯を食べよう。
小さな飴が口の中ですっかりなくなるころには、まぶたも重くなっていた。
再び目を覚ましたときには、窓の外も暗くなっていた。
まだ咳や鼻詰まりはあるが、昼に比べたら熱もだいぶ下がったような気がする。
その代わり、汗をかいたせいで全身が気持ち悪かった。
少し迷った末、手早くシャワーを浴びることにした。
さっぱりすると、不思議と食欲も湧いてくる。
何かを食べてから薬を飲もう。
キッチンに向かい、レトルト食品やカップ麺を物色する。
少しでも栄養を摂れたほうがいいだろう。カレーとか…?
その時、リビングの方から物音がした。
「マユミ?」
「あ…」
ガチャとリビングの扉を開けて、皇帝さまが姿を見せた。
咄嗟に、シャワーを浴びておいてよかったと思った。
「なぜ寝ていない」
「ええと、お腹が空いて…」
「であれば丁度良い。用意してきた」
促されるままリビングに戻ると、ちゃぶ台の上にいくつかの器が乗っていた。
「わ、ありがとうございます…」
スープと、煮た果物のようなものと、黄色いプリンのようなもの。
湯気が立っておりまだ温かそうだ。
「残してもいいが、なるべく食べた方がいい」
「はい、いただきます…あ」
棚を漁って、個包装のマスクが何枚か入った袋を取り出す。
その中から一枚抜き、皇帝さまへ差し出した。
「これ、つけてもらえますか」
「何だ、これは」
「風邪がうつるのを予防するものです。完全に防げるわけじゃないですが…。この輪の部分を耳にかけて、口と鼻を覆ってください」
ないよりはいい。
つけ方を説明すると、皇帝さまはマスクを訝しげに眺めながらもつけてくれた。
「息苦しいと思うんですけど、すみません」
「いや…布で覆うよりはかなりマシだ」
「使い捨てなので、帰るときにそこのゴミ箱に捨ててってください」
違和感があるのか端々を触っている。
申し訳ないがマスクも似合うな。
つい見つめてしまったのを咳で誤魔化し、視線を落とした。
スープは、なにか白っぽいものがとろとろになるまで煮込まれていた。
スプーンですくうと、柔らかな塊がほとんど形を残さず崩れていく。
まずは一匙口に運んでみると、野菜の甘みと旨味がじんわりと舌に広がった。
どうやらこの柔らかな塊は、スープをたっぷり吸ったパンのようだ。
お粥のパン版?ホッとする味だ。
空腹に沁みる。
「美味しいです」
「そうか」
黄色いプリンのようなものは、口に含むとどちらかというと茶碗蒸しだった。ぷるりと柔らかく揺れて口当たりがいい。
鶏っぽい風味がして、パンのお粥よりも少し味が濃い。
煮た果物のようなものは、紛うことなき煮た果物だった。
くたくたに煮てあるそれは、酸味が抑えられていて甘くて美味しい。
すっかりスプーンが進み、気づけばどの器も空になっていた。
風邪だというのに己の食欲が怖い。
薬を取り出して、水で飲んだ。
「ごちそうさまでした。あの…お昼にも来てくださったんですよね?すみません」
「ああ…いや」
珍しく歯切れが悪い。
そういえば先程から口数が少ない気がする。
疑問に思いながら、こみ上げてきた咳に顔を背ける。
ゲホゲホと一通り吐き出してからもう一度水を飲めば、眉を下げた皇帝さまと目が合った。
「…お前には来るなと言われたが、守れそうにない」
そう言って懐から袋を取り出し、中から宝石を取り出した。
「むぐ」
問答無用でそれが口に突っ込まれる。
ころころと舌の上で転がせば、昼にも舐めたあの飴だとわかった。
「政務が手につかん。このマスクとやらをしていればいいのなら、また来る」
頭をわしゃりとかき混ぜられた。
「休め」
食べてすぐ横になるのは少し抵抗があるが、皇帝さまが容赦なく電気を消した。
圧に負けてのろのろとベッドに戻り横になる。
満腹になったからだろうか。あんなに寝たにも関わらず、すぐにまぶたが閉じ始めた。
「…ありがとうございます」
もう一度お礼を言う。
暗い上にマスクで顔が見えないが、目を細めて笑ってくれた気がした。
皇帝さまの用意してくれたお粥のせいか、温かくて幸せな気分のまま、夢の世界へ旅立った。




