泥に咲く信仰
「……う、あ……」
喉の奥が焼けるように熱い。彰人が目を開けると、視界に飛び込んできたのは、湿り気を帯びた岩肌と、消えかけの松明の火だった。
(救急車……じゃねえな。撮影か? どっきりにしては、この血の匂いは生々しすぎるだろ)
「……目覚められた。……救いの王が、目覚められたぞ!」
しわがれた叫び声に、彰人は弾かれたように身を起こした。
そこにいたのは、人間ではなかった。
頭から捻じれた角を生やし、古色蒼然とした法衣を纏った老人。その隣には、彰人と同じくらいの年齢に見える、白い髪と淡い青の肌を持つ少女が立っていた。
「な……なんだよ、ここ。コスプレ大会の会場を間違えたかな、俺」
彰人は精一杯の虚勢を張り、飄々とした笑みを浮かべた。だが、心臓はこれまでにないほど激しく警鐘を鳴らしている。
(待て、落ち着け。彰人、お前は警察官の息子だろ。状況を整理しろ。まず、体が重い。……いや、重すぎる。腕一本動かすのさえ億劫だ。それに、さっきから頭の奥で誰かが囁いてやがる)
(――この民を守り、戦いを終わらせろ。そうすれば、帰れる)
(……帰れる? 親父のところに? 冗談だろ、あんな家、誰が……。いや、でも勇太は? あいつはどうなったんだよ!)
「……おうさま。これを」
思考の渦を遮ったのは、自分と同じくらいの背格好の少女だった。彼女は泥に汚れた手で、見たこともない赤い実を差し出してきた。
「たべて。……なにもないけど、これだけは」
彼女の瞳は、凪いだ湖のように静かだった。だが、その指先が触れた瞬間、彰人は異常な感覚を覚えた。彼女の周囲だけ、空気が歪んでいる。
「ウルティマよ、下がりなさい。失礼いたしました、我が主よ。私は宰相ゴーズ。あの日、魔族王国が崩壊してから数百年……我ら一族は、この日を、あなたの再臨を待ちわびておりました」
老魔術師ゴーズは、深々と頭を下げた。その背後には、彼を慕う数百の異形たちが跪いている。
彰人は、ひきつりそうな頬を無理やり動かして、軽薄な笑みを作った。
「宰相に、救いの王、ねえ。悪いけど人違いじゃないかな。俺、日本って国でただの高校生やってたんだけど。……まあ、おじいさんのその長い髭は、嘘をつくようには見えないけどさ」
(……嘘だ。全部嘘であってくれ。なんだよ魔族って。王国って。俺に何を求めてるんだよ)
数日間、彰人はその洞窟で「魔王」として扱われた。
ゴーズの話によれば、魔族は長命で魔術に長けているが、繁殖力が低く、今や人類の物量と剣術の前に滅びの一歩手前だという。
そして彰人は知った。目の前の少女、ウルティマが実は100歳を超えた重力魔法の使い手であること。彼女は一騎当千の魔法使いであるということ。
対して、自分には何もない。
戦う力も、導く言葉も。あるのは、視界の端でチラつく『信仰値』という不気味な数字だけだ。
「……なあ、ウルティマ」
洞窟の外、荒れ果てた荒野を見つめながら、彰人は隣に座る少女に声をかけた。
「俺さ、本当はめちゃくちゃ怖いんだよ。今すぐここから逃げ出して、あいつと一緒に唐揚げでも食いたいって思ってる。……信じられるか?」
ウルティマは、不思議そうに首を傾げた。
「わからない。……でも、ゴーズ様は言った。あなたは私たちを『元の場所』へ帰してくれると。……私は、あなたについていく」
「……『帰れる』、か。あいつ(神託)も同じこと言ってたな」
彰人は立ち上がり、煤けた上着の埃を払った。
依然として、内面はパニックのままだ。元の世界に戻りたいのか、それともこのまま逃げ出したいのかさえ判然としない。だが、ゴーズから託された「ウルティマと共に世界を見て、まずは魔族の現状を知ってほしい」という願いを無下にできるほど、彼は冷徹にはなりきれなかった。
「わかったよ。とりあえず、ここでおじいさんの昔話を聞いてるよりは、外の空気を吸ったほうがマシそうだ。……ウルティマ、案内役、頼めるか?」
「……ん。どこへでも」
ウルティマが軽く指を動かすと、彰人の周りの重力がふわりと軽くなった。
それは、彼を縛っていた「期待」という重圧を、一時的に忘れさせてくれるような感覚だった。
「よし。じゃあ行こうか。……魔王様の全国行脚ってやつだ。……ああ、親父が見てたら『不審者との同行は控えなさい』って説教されるんだろうなぁ」
彰人は、かつての親友に見せていたような、少し冷めた、けれど優しい笑みを浮かべて歩き出した。
彼が真に「神託」を信じ、この世界の「王」としての覚悟を決めるまでには、まだ多くの血と、涙が必要だった。
一方、その頃。
人間の国グラウディア王国を少し出た暗い森の中。勇太が初めての「魔族討伐」で、一人の魔族を切り捨てていた。
「……ごめん。でも、これをしないと、僕は帰れないんだ」
その瞳から、迷いの光が消えようとしていた。




