視点
木原が下に降りたとき、その女子学生は友人と思われる女子学生二人に助けられ、ようやく立ち上がったところだった。まだ泣き続けていた。
「すみません」
木原が声をかけると、三人とも足を止めて振り向いた。
「東等々力署の木原です」
警察手帳を示す。
「柊雄太さんのお知り合いですか」
泣いていた女子学生は、すぐには答えなかった。涙で濡れた目を木原に向け、何度か唇を動かしてから、ようやく声を絞り出した。
「あの……やっぱり、亡くなったのは柊君で間違いないんですか」
「ご家族の確認はまだですが、所持品などから見て、柊雄太さんである可能性が高いです」
そう木原が答えると、彼女は「なんで」と絞り出すように言いながら、もう一度両手で顔を覆った。
「少し、座りませんか」
木原は近くのベンチを示した。
ベンチに座らせても、その女子学生の涙はなかなか止まらなかった。両脇にいた友人らしい二人が、心配そうに背中をさすっている。
「お名前を聞かせてもらえますか」
木原ができるだけ穏やかに尋ねると、女子学生はハンカチで目元を押さえたまま、小さく息を吸った。
「相田……早苗です」
「相田早苗さん」
木原はメモ帳にその名前を書きつけた。
「学部は?」
「政経学部です。政治学科の二年です」
柊雄太と同じ法学部ではない。木原は、ペン先を止めた。
「学部がちがうようですが、柊雄太さんとは、どういうご関係ですか」
早苗はすぐには答えなかった。唇を噛み、膝の上でハンカチを握りしめる。
「授業が……同じだったんです」
「授業?」
「はい。憲法と、法学概論です。私、公務員試験を考えていて、それで法学部の授業も取っていて……最初の授業のとき、まだ憲法の本が間に合っていなかったんです。そしたら、柊君が、隣で見せてくれて」
そこまで言うと、早苗はまた涙で声を詰まらせた。
「それで、知り合いました」
「友人、ということですか」
木原がそう確認すると、早苗は小さく頷いた。
「友人……です」
そのとき、隣にいた女子学生のひとりが、我慢できないというように口を挟んだ。
「彼女でしょ。早苗、柊さんの彼女みたいなものだったじゃない」
「でも……」
早苗は俯いたまま、消え入りそうな声で言った。
「まだ、柊君から、付き合おうって言われたわけじゃないし……。柊君、バイトで忙しいし」
木原は、早苗の様子を見ながら、慎重に言葉を選んだ。
「最近、柊さんの様子に変わったところはありませんでしたか。悩んでいたとか、誰かと揉めていたとか」
早苗は涙を拭いながら、首を横に振った。
「いえ……特には」
「本当に、どんな小さなことでもかまいません」
早苗は少し首を傾げ、途切れ途切れに話し出した。
「柊君、来年から妹さんも大学生になるから、家計のためにも、今年からバイトを増やすって言ってました。それくらいです。あっ、あと、司法試験も本気で考えたいからって……だから、なかなか学校以外で時間がなくて」
早苗はそこで、かすかに笑おうとした。けれど、すぐに表情が崩れた。
「だから、まだちゃんとデートもしたことなかったんです」
そう言って、早苗はぎゅっと唇を結んだ。
「柊さんに最後に会ったのは、いつですか」
「一昨日の……午前中です。憲法の授業のあと、学食で一緒にお昼を食べました」
「そのあとは?」
「授業が違ったので、それきりです」
「学校が終わってから、柊さんと会ったり、電話で話したりは」
「していません。私もバイトがあったので」
当時はまだ、学生同士がいつでも連絡を取り合える時代ではなかった。会っていなければ、その日一日を相手がどう過ごしたのか、知る術はほとんどない。
木原は、メモ帳に「一昨日昼以降、接触なし」と書き込んだ。
「昨日はどうですか」
「昨日は、私は砧校舎に行っていたので……会っていません」
「砧校舎?」
「はい。うちの学部は、授業によって校舎が違うんです。昨日は一日、砧の方にいました」
「柊さんから電話があったりは」
早苗は首を横に振った。
「ありません。お互いに下宿の電話番号は知ってましたけど、私からかけたことは……まだ」
まだ、という言葉のところで、早苗の声が小さくなった。
「おう、どんな感じだ」
木原が相田早苗と別れたあと、昼頃になって坂元と合流すると、坂元は開口一番そう言った。
「親しくしていた女子学生を見つけました」
「彼女か?」
坂元が興味深そうに食いついた。
「と言っていいかどうか。本人は、まだちゃんと付き合っていたわけではないと言っています」
木原は、早苗とのやり取りを少し詳しく説明した。
「なんだ。じゃあ、まだ深い関係じゃねえか」
「ただ、自殺するとは思えない、と言っていました」
「まあ、男なんて、惚れた女の前じゃ弱いところなんか見せたくねえもんよ。だろ?」
「……まあ」
木原は曖昧に返事をした。
「そっちはどうでした」
木原が尋ねると、坂元は手にしていたメモ帳を軽く叩いた。
「ゼミの連中と、男友達を何人か当たった。司法試験、バイト、妹の進学。まあ、悩みの種はいくつもあったみたいだ」
「悩み、ですか」
「本人は真面目だったんだろうよ。真面目なやつほど、ひとりで抱える」
坂元の言葉に、木原はすぐには返事ができなかった。
司法試験。バイト。妹の進学。
早苗が語ったそれは、柊雄太がこれからのために考えていたことだった。けれど、坂元の口から聞くと、同じ事実が、死へ向かう理由のようにも聞こえた。
「それより、夕方前に柊雄太の家族が九州から来るらしい。お前も立ち会え」
「家族、連絡が取れたんですか。新幹線もまだあんな状態ですし、飛行機だって混んでるでしょうに。よく今日の便が取れましたね」
一月の震災以降、警察も交通機関も、まだどこか落ち着かない空気を引きずっていた。
「事情が事情だ。向こうの県警が何か手を回してくれたのかもしれねえな」
そう言って坂元が肩をすくめた。




