未開封の温度
いったん現場から引き上げて署に戻ると、時計は午前一時をとっくに回っていた。
前日は夕方前に寮へ戻り、慌ただしく風呂をすませ、コンビニで買った弁当をかき込んで、午後八時頃には布団に入った。それでも、木原が眠れたのは三時間ほどだ。
この件を、生活安全課は自殺の方向で処理したいらしい。書類も彼らが作る。強行犯係の木原が出しゃばる場面ではない。ただ、臨場者として署名が必要だと言われ、帰らずに待機することになった。
眠気を覚ますため、木原は署内の自販機で缶コーヒーを買った。冷え切った手を、その熱々の缶で温める。
その瞬間、現場で感じた違和感の正体が、ふいに輪郭を持った。
これから死のうという人間が、体を温めようとするだろうか。
いや、最後に温かいものを飲みたいと思う人間だっているかもしれない。
だが、あの缶は開いていなかった。飲むために買ったのなら、なぜ開けなかったのか。
もう一度、木原は缶を両手で包み、手を温める。
そうだ。あの缶コーヒーは、死にに来た人間の持ち物ではない。まだ寒さをしのぎ、その先の時間を過ごすつもりだった人間の持ち物ではないのか。
木原には、そう思えた。
自販機の前にある長椅子に腰を下ろし、木原は懐からメモ帳を取り出した。
自販機の明かりだけを頼りに、現場の状況を、思い出せる限り克明に書き留める。
壁に近すぎる落下位置。背中の茶色い汚れ。その位置を、簡単な図にもしておいた。
最後に、こうも書き加えた。
未開封の缶コーヒー。温。これから死のうという人間の持ち物か?
木原が、この疑問を誰に伝えるべきか迷っていたその時、生活安全課のドアが開いた。
小園という、木原より少し先輩にあたる刑事だった。
小園はつかつかと木原に近づくと、バインダーに挟んだ書類を差し出した。
「内容を確認して、臨場者の一番後ろに署名と印鑑な」
眠そうな声だった。真夜中の事件で叩き起こされたせいか、機嫌が悪そうにも見えた。
木原は急いで内容に目を通し、署名して、その後ろに判を押した。
署名を終えると、小園は奪い取るようにバインダーを手にし、深いため息とともに生活安全課の部屋へ戻っていった。
とても、きのう今日刑事になったばかりの自分が口を挟める雰囲気ではなかった。木原は、その疑問をいったん腹の中に押し込んだ。
肩のあたりをぽんぽんと叩かれて、木原は目を覚ました。
そこには、係長の浅井の顔があった。
あれから寮に戻る時間も惜しくて、仮眠室から毛布だけを引っ張り出し、刑事課の応接ソファに横になったところまでは覚えている。どうやら、そのまま一瞬で眠ってしまったらしい。
エアコンをつけっぱなしにしていたので寒くはなかったが、喉が乾いて痛かった。
「あっ、おはようございます」
木原は飛び起き、枕がわりに丸めていたダウンのジャンパーを羽織った。
「悪いな、非番だったのに。やっぱり飛び降りか?」
「坂元先輩は、その方向みたいです、が……」
「が?」
浅井が顔を覗き込んできた。
「あ、まあ」
「なんだ、言い淀んで。何かあるのか」
「実は」
木原は、腹に押し込んだ疑問を、少し声を落として一気に話した。
「ふうん。なるほどな。確かに少し引っかかるところはあるか。でもなあ」
浅井が腕を組んだ。
「言葉では言いにくいですが、ちょっとずつ何かがすれ違っている気はするんです」
「まあ、缶コーヒーには妙な不自然さが残るな。ただ、落下の状況については、坂元さんも素人じゃない。あの人なりに見てるだろうしな」
「それを言われると、僕も絶対違うとまでは言えないんですけど」
木原は頭を掻いた。
「ああ、そうだ。今日もあっちの応援をひとりくれと頼まれてる。お前、続けて行ってこい」
「はい」
「それで、その違和感を確かめてこい」
「はい、わかりました」
「それとな」
浅井も周囲をうかがい、声を落とした。
「はい」
「もし、お前の違和感が確信に変わったら、まず俺に言ってこい。いいな。これは生活安全課の帳場だ。変なトラブルだけは起こすな」
木原は黙って深く頷いた。
朝になって、木原はふたたび大学へ向かった。
生活安全課の捜査員たちは、いくつかの班に分かれて聞き込みに入った。木原は、坂元の班に入った。
非常階段の下には、まだ規制線が張られていた。朝の光の中で、鑑識係があらためて現場を確認している。
「いいか、自殺なら、どこかに前兆があるはずだ。金、進路、家庭、交友関係。いつもと違う様子がなかったか、よく聞いてこい」
坂元が捜査員たちに指示を飛ばした。
まずは、柊雄太が出ていた講義やゼミを洗い、そこにいた学生たちを当たることになった。
「俺はゼミの教授と、男の友人関係を当たる。木原、お前は女子学生を頼む」
「女子ですか」
「お前の方が歳も近いから話しやすいだろう。俺はどうも、若い女が苦手でな」
坂元はそう言って、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
木原は法学部の女子学生を何人か当たったが、柊雄太のことをよく知る者はいなかった。
名前は知っている。講義で見たことはある。真面目そうだった。
返ってくるのは、その程度の答えばかりだった。
聞き込みがひと区切りついたところで、木原は非常階段へ向かった。
昨夜、坂元が懐中電灯で照らした四階の踊り場に立ってみる。鑑識の姿はない。指紋などの採取は終わったらしい。
少し赤茶色に錆びた手すりの向こうへ身を乗り出すようにして下を見ると、足元がすっと冷えた。
見下ろした先には、まだ規制線が残り、所轄の警官が警備に立っていた。
その規制線の外側に、ひとりの女子学生が座り込んでいることに気がついた。
その学生は肩を震わせ、顔を両手で覆っていた。遠目にも、他の学生とは様子が違った。
木原は反射的に、非常階段を駆け降りていた。




