違和感
ドアを激しく叩く音で目が覚めた。枕元に置いた目覚まし時計を見ると、午後十一時を少し回ったところだった。
木原が寝ぼけ眼でドアを開けると、当番の先輩が立っていた。
「署から電話だ」
先輩はそれだけ言うと、さっと背を向けた。
その頃木原は、玉川にある警察の独身寮に住んでいた。
刑事になって二年目、二十六歳のときだ。
パジャマがわりのジャージのまま、一階にある共同電話へ向かう。まだ頭がうまく回ってない。
「はい、木原です」
共同電話の外してあった受話器を取る。
「おう、すぐ××大学に行ってくれ。生活安全課の連中がいるはずだ」
当時の係長、浅井警部補の声だった。名乗らなくてもわかるだろう、という前提で話してくる。「どなたですか」なんて聞くものなら、後でこっぴどい目にあうのが当たり前の時代だった。
「川沿いのあそこですよね。何があったんですか」
「ああ。学生の飛び降りらしい」
「飛び降り? それって強行犯の出番、あるんですか」
「そう言うな。あいつらも人手が足らねえんだ。応援だよ」
その頃、一月に起きた阪神淡路の震災で、警視庁からも多くの警察官が関西へ応援に出ていた。その影響で所轄も人手不足は当たり前のようになっていた。
木原自身も前日からの張り込みで、寮に戻ったのは夕方だった。ようやく泥のように眠っていたところだ。
正直、行きたくない。
それでも、浅井に行けと言われて、行かないという選択肢はなかった。
着替えて原チャリで現場に向かう。まだ三月の夜中の風は激しく冷たい。革の手袋をしていても指が悴んでくる。吐いた息が口の周りで固まる。
大学が近づくと、パトカーの赤いランプが見えた。近くの適当なところへバイクを止め、入り口で警備する制服警官に軽く手を上げて、木原は規制線をくぐった。
遺体はすでに担架に乗せられ、搬出されるところだった。
「ちょっとだけ、いいですか」
応援とはいえ、現場に入る以上、木原も一応は遺体を確認しておきたかった。
掛けられた布をめくる。頭部からの出血はあるものの、思ったよりも顔はきれいだった。
「少し、背中を見てもいいですか」
「ああ。もう確認は済んでます」
鑑識係に手伝ってもらい、遺体をわずかに傾ける。
冬物のジャンパーの背中に、赤茶けた錆のような汚れが筋になってついていた。ほかに、大きな損傷は見当たらない。
「おう、熱心だな」
そこへ、生活安全課のベテラン、坂元が声をかけてきた。
坂元は階級こそ巡査部長だったが、現場一筋で、上からの信頼も厚い男だった。
「あ、お疲れ様です」
「悪いな、こんな夜中に。人が足りなくてよ」
「いえ、大丈夫です」
「それに、たぶん結果は動かないとは思うが、事件性が薄いところでも、一応は強行犯にも見といてもらおうと思ってな」
「つまり……」
「ああ、間違いない。自殺だよ。あそこから飛び降りた」
坂元が懐中電灯で照らしたのは、五階建ての校舎に取り付けられた非常階段だった。
光は、その四階の踊り場で止まった。
高さは何メートルあるだろう。十五メートル、いや、もう少しあるか。
そのまま視線を下に動かすと、コンクリートの地面に、人型に貼られたテープが見えた。
木原はそのすぐ脇に立ち、非常階段を見上げた。
かすかな違和感を覚えた。
「坂元先輩、ちょっと近すぎ、ませんか」
「あ?」
「あ、いえ。もしあそこから勢いをつけて飛び降りたのなら、もう少し離れたところに落ちそうな気がするんですよね」
木原がそう言うと、坂元はしばらく上を見ていたが、鼻で小さく息を吐いた。
「人の落ち方なんて、わかんねえもんよ。俺はいろんなところに落ちた人間を見てきた。こんなの珍しくもねえ」
「そんなもんですか」
「ああ。死のうってやつが、みんな勢いよく飛ぶわけじゃねえ。手すりを越えたところで足がすくむやつもいる。そういうのは案外、壁際に落ちる。落ちた場所だけでどうこうは言えねえよ」
坂元が、木原の肩をぽんと叩いた。
刑事になって二年目の木原には、場数を踏んでいる坂元に反論する術はなかった。
そこへ、
「巡査部長、これももう持って行っていいですか」
と声がした。
木原が振り向くと、少し離れたところで、鑑識係のひとりがビニール袋を掲げていた。
「おう、頼むわ」
坂元が手を上げて返事をする。
「先輩、あれは?」
「仏さんのポケットに入ってたもんだ」
「見てきていいですか」
「熱心だな。好きにしろ」
坂元は、ふん、と鼻で笑った。
ビニール袋には、学生証と運転免許証、財布、学生生協のカード。それに、開封されていない缶コーヒーが入っていた。
袋越しにも、まだ温かいのがわかった。
そのとき、何かがふっと気になって、木原はもう一度、非常階段を見上げた。
それは、違和感と言えばいいのだろうか。妙な胸騒ぎがした。
「学生証、見てもいいですか」
「どうぞ」
木原は手袋をした指で学生証を開いた。
柊雄太。
この大学の法学部法律学科、二回生。おそらく来月から三回生だ。
運転免許証の住所は九州だった。ここが実家なのだろう。財布の中身も、ざっと見た限りでは荒らされた様子はなかった。
「ありがとう」
鑑識にそう言って、木原は坂元のところへ戻った。
「気が済んだか」
坂元がニヤリと笑った。
「家族への連絡とかは?」
「今、照会をかけているところだ」
「九州みたいですね」
「まあ、わかったら向こうの警察から連絡してもらうことになってる。さて、一旦署に帰るか」
そう言って坂元が背を向けた。どうやら彼の中ではすでに結論が出ているようだ。
だが木原は、少し感じた違和感の正体がわからず、坂元を引き止めることもできなかった。




