届かなかった声
柊麻里子が待つ部屋の前で、木原は立ち止まった。
どう言えばいい。
すでに時効で、警察としては何もできない。そう告げるしかないのか。それとも、自分ひとりで調べてみると言うべきなのか。
どちらにしても、麻里子を落胆させることに変わりはなかった。
調べてみる、と言えば、彼女に希望を持たせてしまう。だが、三十一年前の事件だ。しかも表立った捜査という形では動けない。現実には、何もわからないまま終わる可能性の方が高い。
それは結局、答えを先延ばしにするだけではないのか。
逡巡の末、木原は軽くノックして、ドアを開けた。
部屋に入ると、麻里子と目が合った。
その瞬間、何かを悟ったように、彼女の目がふっと緩んだ。
木原は机を挟んで麻里子の正面に立つと、まず深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。正式な捜査として、動くことはできないと言われました」
木原がそう言って頭を上げると、麻里子は目を軽く伏せたまま、小さく頷いた。
「実は私も、さっきから勢い込んで新幹線に飛び乗った自分にあきれていたところなんです。馬鹿ですよね。三十年以上も前のことなのに」
そう言って、麻里子は唇をきゅっと結んだ。
「いえ、そんなことはありません。あなたのお気持ちは当然です。私が遺族でも、おそらく同じ行動を取ります。ただ……」
麻里子が視線を上げて、木原を見た。
「ただ?」
「ただ、お兄さんの件は、もし事件だったとしても、すでに時効なのです」
「時効……ですか」
麻里子は、口の中でその言葉を確かめるように呟いた。
「はい。少し説明させてください。その前に……柊さん、とお呼びすると、お兄さんのことなのか、あなたのことなのか、私の中で少し混ざってしまう。失礼でなければ、麻里子さんとお呼びしてもよろしいですか」
麻里子は少し驚いたように木原を見たあと、小さく頷いた。
「はい。かまいません」
「ありがとうございます。では、麻里子さん。お兄さん、柊雄太さんが亡くなった平成七年当時、殺人罪の公訴時効は十五年でした」
「十五年」
麻里子が噛み締めるように反復した。
「はい。その後、平成十六年の改正で、殺人罪の公訴時効は十五年から二十五年に延びました。ただ、その改正は、すでに起きていた事件には適用されませんでした。ですから、お兄さんの件は十五年のままだったのです」
「新聞かなにかで読んだ記憶があるんですけど、その時効って確かなくなったと……」
何かを思い出すように、麻里子は少し首を傾げた。
「はい、そうです。殺人など死刑が想定される事件の時効は、平成二十二年の四月になくなりました。けれど、お兄さんの件はその一か月前、平成二十二年三月に時効を迎えていたんです」
麻里子が少し口を開けたまま木原を見つめていたが、やがてゆっくりと呟いた。
「一か月……」
「はい」
「つまり、捜査ができない理由は……その、たった一か月前に時効になっていたから、ということですか」
麻里子が明らかに動揺しているのがわかった。
そうだ。一か月。
たった一か月。
あのとき俺たちが捜査を始めていれば、その一か月で届いたかもしれない。
木原は奥歯を噛み締めて、麻里子に頭を下げた。
そのとき、なぜか麻里子が小さく笑った。その目には涙が溜まっていた。
「うちらの家族、ほんと馬鹿ですよね。にいちゃんの手紙をあのとき開けてれば、一か月なんて」
いく筋かの涙が麻里子の頬を伝っていた。だが、彼女はもうその涙を拭こうともしなかった。そしてテーブルの上に置いた手紙をじっと見つめていた。
外はいつのまにか小雨になっていた。
木原は庁舎の玄関先に立ち、麻里子を乗せたタクシーを見送った。
赤いテールランプが雨に滲んで遠ざかっていく。その滲みが、先ほど麻里子がテーブルに落とした涙の跡と重なった。
木原は少し考える時間が欲しくて、エレベーターは使わずに、あえて階段を上った。
正式な捜査ができないことは理解している。それでも、木原の中で、ひとつだけ消えない問いがあった。
柊雄太は、本当に自分で死を選んだのか。
三十一年前、心の奥底に押し込めたはずの疑問が、今、抑えようもなく頭をもたげていた。
刑事課に戻ると、課長の上田から「木原さん、ちょっと」と声がかかった。
「柊さん、でしたか。何か言われてました?」
「いえ。ただ、彼女の両親が手紙を開けなかったことを悔いてはいたようですが」
「そうですか」
上田が少し目を伏せ、もう一度顔を上げた。
「あれから少し資料保管庫を探させてはみましたが、やはり関係資料はすでに廃棄されているようですよ」
上田が穏やかな顔で言った。
「え?」
「納得はしてないですよね、木原さん」
上田が笑っている。
見抜かれて、木原は頭をかいた。
「納得してないというより、あの事故で感じた違和感がずっと消えてないんです」
木原は正直に気持ちを吐露した。
「あなたならそうでしょうね。ただ、先ほども言いましたが、現在起こっている事件は最優先です。そこだけは約束してください」
「もちろんです」
「でも厳しいですよ。証拠書類はすでに失われていますから」
「覚悟しています」
木原は黙礼して自席に戻ると、一番下の引き出しの奥から、古びたノートを一冊取り出した。
柊雄太の件。
そのノートの表紙には、小さくそう書いてあった。
表紙を開くと、三十一年前の自分の字が並んでいた。
発見時の状況。
関係者の名前。
聞き取りの断片。
そして、自殺として処理されたその死に対して、当時の木原がどうしても拭えなかった違和感。
木原は、麻里子が持ってきた手紙のことを余白に書き加えた。
それから、もう一度最初のページへ戻った。
平成七年三月八日。
あれは、阪神の震災があった年のことだった。




