空っぽの心
「これは……」
木原は、両手を膝に置いたまま、麻里子を見た。
「兄から両親へ宛てた最後の手紙です。どうぞ読んでみてください」
木原は唾を飲んだ。これが「証拠」というものなのか。
「失礼します」
木原は小さく頭を下げて、目の前に置かれた封書を手に取った。
便箋は三枚あった。
春休みは帰れそうにありません。バイトを少し増やしました。司法試験を本気で考えるなら、そろそろ勉強時間も作らないといけないので、しばらく忙しくなりそうです。
それより、麻里子はいよいよ受験生ですね。俺のことより、今は麻里子を応援してやってください。
木原はその文面を目で追いながら、二枚目の後半で手を止めた。
ただ、ひとつだけ気になることがあります。
議員の息子だかなんだか知らないけど、最近、妙に絡んでくるやつがいます。
この前は、階段で突き落とされかけました。向こうは「わざとじゃない」と笑っていましたが、あれは違う。もし僕に何かあったら、真っ先にこいつを疑ってください。なんて、大げさですかね。
まあでも、僕もそこまで間抜けじゃないのでね。大丈夫だとは思います。
「どう、思いますか?」
手紙を読み終え、木原が顔を上げると、すぐに麻里子が問いかけてきた。
「この、突き落とされかけた、というところですか?」
木原はそう問いかけた。この手紙を「兄が議員の息子に殺された証拠」として提示されたのだと、そう得心したからだ。だが、麻里子の反応は少し違っていた。
「それもまあそうなのですが……。刑事さん、封筒の消印を見てもらえますか」
木原の顔を覗き込むように麻里子が言う。
「消印?」
「はい。消印です」
テーブルに置いた封筒を手に取り、木原は言われた通り、目を凝らして消印を見た。
玉川、7.3.8、18-24。
上段は取扱局。中段は日付。下段は時間帯。
平成七年三月八日、十八時から二十四時の間に、ここからほど近い玉川郵便局で処理されたことを示している。
そこまで読み解いた瞬間、木原の脳裏に、あの忌まわしい記憶の日付が鮮烈に蘇った。
「三月、八日…… この日付は……」
「はい。兄が大学の非常階段から飛び降りたと言われる日の消印です」
木原はもう一度、その消印に目を落とし、そして左手に持った手紙の文面を凝視した。
春休みは帰れそうにありません。
バイトを増やしました。
麻里子はいよいよ受験生ですね。
その文面は、この世を去る人間の別れの言葉ではなかった。明日以降の未来を予定している人間の言葉だった。
そうか、彼女が言いたいのはそういうことか。
「確かに、これから自殺しようという人間が、その日に出す手紙とは……思えませんね」
木原は手紙を読み返した。
「私たち家族が、あの日ちゃんと兄の声を聞いていたら、結果は変わったでしょうか」
うっすらと涙を浮かべた麻里子が言う。
「それは……わかりません。わかりませんが、私はもう少し粘れたかもしれません」
木原はグッと奥歯を噛んだ。
「あの、もう一度調べてもらうことはできないんでしょうか。三十一年も過ぎていることはわかってます。でも、私の中であの日のことだけが抜け落ちたままなんです。兄に本当は何があったのか、何もわからないままで、このままでは兄が……」
木原にはその麻里子の視線が痛かった。彼女をそうさせた一端は自分にもある。なんとかしたかった。
「柊さん、まだお時間は大丈夫ですか」
「はい。夕方の新幹線で九州へ帰るので、もう少しは」
「上司と話します。少しここで待っていてください。この手紙、いったんお預かりしてもよろしいですか」
小さく麻里子が頷く。
木原は手紙を手に、刑事課へ向かった。
木原はエレベーターを待てずに、階段を駆け上がった。三階に着いた頃には太ももが笑っていたが、足がもつれかけるのも気にせずに、課長の机へ真っ直ぐに向かう。
「課長」
自分ではそんなつもりではなかったが、大きな声になっていたようだ。周りの係員たちが一斉にこちらへ振り向く気配がした。
「木原さん、どうしました。何か事件ですか」
課長は驚いたような顔で見ていた。
落ち着け——
恥ずかしいほど慌てている自分に気がついて、木原は一度大きく息を吸った。
「つまり、その手紙が当時出ていれば、判断が変わっていた可能性がある、と」
木原がかいつまんで三十一年前の転落死と、新たに見つかった手紙のことを話すと、課長は反芻するように、幾度か小さく頷いた。
「少なくとも、私はそう思います」
「木原さんとしては、当時から自殺であることに疑問があった」
「はい。疑問というより、今となっては後悔しか残っていないんです。なんであの時、もっと言えなかったのか」
木原は奥歯を噛んだ。
「ふうん、なるほどねえ。木原さんにそこまで思わせた、か」
課長はボールペンの先を、自分の下唇に軽く当てた。
「三十一年前の不審死です。資料もおそらく廃棄されています。ただ、私の当時の記録は手元に残っています。私ひとりでもかまいません。確認だけでもさせてもらえませんか」
課長が、ふっと顔を上げた。
「いつだと言いましたっけ」
「え?」
「その転落が起こった日です」
「平成七年の三月です」
課長は天井を仰いだ。何かを数えるように、しばらく目だけを動かしていた。
「木原さん」
課長は、手にしていたボールペンを机に置いた。
「それ、だめだ」
「いや、しかし……」
「その件、もし事故ではなく事件だったとしても、時効になっています」
「いや、殺人だとしたら、時効は……」
そこまで言いかけて、木原は口を閉じた。
課長が何を言いたいのか、ようやくわかった。
平成七年当時、殺人罪の公訴時効は十五年だった。その時効が廃止されたのは、平成二十二年四月。平成七年三月の事件なら、十五年後は平成二十二年三月だ。
散々勉強したはずだった。
それなのに、目の前の手紙に熱くなって、基本中の基本さえ頭から抜け落ちていた。
木原は、自分が恥ずかしかった。
課長の上田とは長い付き合いだ。自分の気持ちをわかったうえで止めていることくらい、木原にもわかった。これ以上、困らせるわけにはいかない。
木原は黙って頭を下げると、机の上の封書を手にして麻里子の待つ部屋へ向かった。




