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思わぬ来客

 木原誠きはらまことが東等々力署ひがしとどろきしょで勤務するのは、これが二度目だった。

 三十年ぶりである。

 最初にこの署へ配属されたとき、木原はまだ二十代の後半だった。念願かなって刑事になり、初めて籍を置いたのが、ここ警視庁東等々力署刑事課強行犯係だった。

 定年まで数年となり、今回は係長として赴任だが、おそらくここが現役としては最後の勤務地だろう。初めて刑事として勤務したこの地で、現場の刑事としての最後を迎えられる。そう考えれば、刑事としては悪くない締めくくりなのかもしれない。

「木原さん、また一緒に仕事できますね」

 そう声をかけてきた刑事課長の上田うえだは、別の署で二度ほど同じ職場になったことがある。ここは古巣とはいえ、すでに知った顔はいない。だから、気心の知れた相手がいるのは、木原にとっても心強かった。


 あらかたの挨拶回りを終えて、木原は自席に戻った。

 今度は自分が、部下となる係員の挨拶を受けながら、机の上に置いた前任地から持って来た段ボールに入れてある私物の整理にかかった。

 その中に、数冊の古びた大学ノートが入っていた。

 公文書ではない。捜査資料の写しでもない。木原がこれまで関わった事件の中で、未解決のまま終わったものや、どうしても胸に引っかかった案件について、自分の手で書き残してきた備忘録だった。新聞の切り抜きや、記憶を頼りに描いた見取り図も貼ってある。いつか何かの役に立つかもしれない。そう思って、転勤のたびに持ち歩いてきた。

 木原はそれらを、一番下の引き出しにしまった。


 木原が赴任して二週間ほど経った昼過ぎ、若い捜査員の井出いでが、息を切らしながら木原の席へ駆け寄ってきた。

 先ほど、一階の市民相談窓口から過去の事件について来客があると連絡が入り、木原は井出に事情を聞いてくるよう命じていた。

「係長、ちょっと変わった相談を受けまして」

 井出は、どう説明していいのかわかりかねている様子だった。

「変わった相談?」

 木原は老眼鏡をずり下げ、上目遣いに井出を見た。

「身内の自殺に納得していない方で、自殺じゃなかった証拠を持ってきた、と言っています」

「最近、そんな事件があったのか。俺は引き継ぎを受けていないが」

「それが……」

 井出は妙にためらった。

「なんだ。はっきり言え」

「三十一年も前の事件だそうです。正直、どう扱えばいいのかわからなくて……」

 木原は、椅子を鳴らして立ち上がった。

 周りにいた捜査員たちが、何事かという顔でこちらを見る。

「まだ、その人はいるか」

「あ、はい。係長に報告してから対処しようと思って……」

「俺が行く。どこだ」

 木原の心臓が、嫌な音を立てていた。

「一階の、市民相談室です」

 井出の言葉を背中で聞きながら、木原は急ぎ足でエレベーターへ向かった。


 三十一年前。

 自殺ではない。


 その二つの言葉だけで、木原の中に一組の夫婦の顔が浮かんだ。

 火葬場で、骨壺を抱えた父親。

 声を失ったように座り込んでいた母親。

 まさか、ひいらぎ雄太の両親が訪ねて来たのか。

 エレベーターの到着を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。


 総務課のすぐ脇に、市民から相談を受けるときに使う市民相談室がある。相談室といっても、ソファなどがあるわけではなく、パイプ椅子が数脚と簡易なテーブルが置いてあるだけの小さな部屋だ。

 木原は大きく深呼吸をして、ドアを二度ノックした。

 ノブに手をかけ、中へ入る。

 背中を向けて座っていた女性が軽く振り向き、木原と視線が合った。

 違うな、柊さんじゃない。

 最初にそう思ったが、立ち上がった彼女の目元を見た瞬間、木原の足が止まった。三十一年前、火葬場で「にいちゃんは自殺じゃない」と訴えていた、あの高校生の少女の面影が、はっきりとそこにあった。

「もしかして、柊……麻里子さん、ですか」

 木原がそう言うと、彼女は少し訝しげに目を細め、それから小さく頷いた。

「私の名前を、覚えていらしたんですか」

「仕事柄、会った人の名前はわりと覚えている方なんです」

 木原は一度、言葉を切った。

「それに、あの件は特に……」

 麻里子の顔が、ふっと緩んだ。

「ありがとうございます」

 麻里子は小さく頭を下げた。

「私はまだ高校生でしたので、お顔だけうっすらとしか覚えていなくて。申し訳ありません」

「三十年以上前のことです。当然です。気にすることはありません」

 木原が顔の前で右手を小さく振ると、麻里子はもう一度頭を下げた。


 木原は麻里子に座るよう手で促し、自分もテーブルを挟んで腰を下ろした。

「あなたに、こんな形でお会いするとは。ご両親は?」

 木原がそう言うと、麻里子は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「いえ、ふたりとも、もう……」

 麻里子は小さく首を横に振った。

「あっ、すみません。そんなこととは知らずに」

「実は、母は先月」

 そこで麻里子は口を閉じた。

「それは……ご愁傷様です」

 木原は軽く頭を下げた。

 さっき井出が言っていた「自殺ではない証拠」という言葉が頭をよぎるが、焦らせてはいけない。木原は口をつぐんだ。

 だが、母親が亡くなったばかりだというのに、麻里子はわざわざ東京まで来ているのはやはり気にかかる。

「刑事さんは、ずっとこちらに?」

 ちょっとした沈黙の後、不意に麻里子が言った。

「ああ、いや。実はこの四月に転勤してきたばかりで。お兄さんのことがあった翌年から、ずっと他所を回ってたんです」

「じゃあ私、ちょうどいい時に来たのかもしれませんね」

 麻里子が軽く微笑んだ。

「あの、ちょうど、とは?」

 そう言うと、麻里子が真っ直ぐに木原に視線を向けた。

「刑事さん、警察は兄の死はやっぱり自殺だと?」

 また少し麻里子は視線を落とした。

「警察は、残された証拠で判断するしかありません。あの時点では、ああ判断するしかなかった。……少なくとも、そう処理されました」

 木原はそう言って、深く頭を下げた。

「刑事さん自身は?」

「え?」

「あの時、刑事さんだけが私の言葉を真剣に聞いてくれました。刑事さんは、どう思われていたんですか」

 木原は、すぐには答えられなかった。慎重に言葉を選ぶ。

「色々と思うところはありました。ですが、それを覆すだけのものを、私は見つけられなかった」

 木原はもう一度、頭を下げた。

「申し訳ありません」

 そのとき、麻里子がバッグから何かを取り出し、テーブルの上にそっと置いた。古びた封筒だった。

「もしそのとき、この手紙が出てきたら、何か変えられたでしょうか」

 顔を上げた麻里子の視線が、木原を捉えて離さなかった。

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