読まれなかった手紙
母の葬儀が終わって、一週間が経った。
人が亡くなるということが、こんなにも忙しいものだということを、麻里子は初めて知った。忙しすぎて、仏壇の遺影の中で微笑む母の前で泣く暇もなかった。
父が亡くなったとき、母もこんな思いをしながら片付けをしていたのだろうか。そう思うと、すべて任せきりにしていたことが悔やまれた。
にいちゃんがいればな。
声には出さなかった。
母が亡くなって、麻里子には、血のつながった家族が誰もいなくなった。
兄の雄太が死んだのは、1995年3月。麻里子が高校三年に上がる直前のことだった。
「にいちゃんがひとりで死ぬわけない」
必死に訴える麻里子を、父は黙って抱きしめた。事情聴取された刑事にも訴えたが、「ごめんね」と担当の刑事は唇をきつく結んだ。
結局、兄は自死とされ、あれから、三十一年が経っていた。
あのとき、父と母が何を考えたのかわからない。ただ、「警察の方も一生懸命に調べてくれたんだから」とだけ言われたのは覚えている。
ふう、と息をついて、麻里子はようやく仏壇の前に座り込んだ。
銀行、郵便局、携帯電話の解約、保険関係の手続き。まだすべてが終わったわけではないが、あらかたの目処はついた。後は不動産の登記変更が残っているが、それは司法書士に任せると決めている。
家族はもう自分しかいない。遺品を受け継ぐのも、自分だけだった。金銭関係さえ片付ければ、この家のものを急いで処分する必要はない。
そう思ってから、麻里子は苦笑した。
この家に戻ってきて、もう何年になるだろう。二十代で結婚したものの、お互いの仕事のことなどでうまくいかず、数年で離婚した。しばらくは一人で暮らしていたが、父が亡くなったのをきっかけに、実家へ戻った。
それからは、母とふたりだった。その母も、もういない。
線香に火を灯すと、細い煙がまっすぐ上がって、すぐに揺れた。父と母と兄の遺影が、仏壇の中で並んでいる。三人とも、写真の中では穏やかに微笑んでいた。
麻里子はしばらくその顔を見つめてから、ふと思い出して、仏壇の下にある小さな引き出しに手をかけた。
引き出しの中に、開封されていない古びた手紙が入っていた。三十一年前、東京の大学へ行っていた兄から両親へ宛てた手紙だ。消印は3月8日、兄が亡くなった日となっていた。
東京の警察から連絡があったのは、1995年3月9日の明け方のことだった。
両親と麻里子が九州から慌てて駆けつけたその日の夕方、警察の安置所に、白い布を掛けられた兄が静かに横たわっていたのを覚えている。
警察からは、兄が何か悩んでいなかったか、最近変わった様子はなかったかと訊かれた。けれど、兄は東京で暮らしていた。九州にいる家族に、大学での細かなことまでわかるはずもなく、父も母も、詳しいことは何も答えられなかった。
ただ、麻里子だけは何度も言った。
「にいちゃんは、絶対に自殺なんかしません」
それでも、警察の中では、すでに飛び降り自殺という線で話が進んでいるようだった。
その中で、ひとりだけ、麻里子の言葉を黙って聞いていた若い刑事がいた。
名前は覚えていない。けれど、唇をきつく結んだ顔だけは覚えている。
「どうして、そう思うの」
刑事は静かに訊いた。
「にいちゃんは、そんな人じゃないから」
それだけしか言えなかった。
根拠などなかった。けれど、麻里子にはわかっていた。雄太は、自分ひとりで何もかも終わらせてしまうような人ではない。
麻里子の訴えに、その若い刑事は真剣な目で幾度か軽く頷いた。
検視と解剖が終わるまで、三人は東京を離れられなかった。
警察から遺体を引き取ったあと、父は東京の葬儀社に火葬の手配を頼んだ。九州まで兄の体を連れて帰る気力も、手段も、そのときの三人にはもう残っていなかった。
火葬場には、あの若い刑事の姿もあった。
麻里子を見ると、彼は深々と頭を下げた。
「ごめんね」
それだけだった。
麻里子は、兄が自殺とされたことに、まだわだかまりを抱えていた。けれど、たぶんこの刑事だけは、それをわかってくれているのだと思った。
そして麻里子たちは、小さな骨壺を抱えて、九州の実家に戻った。
久しぶりに家に帰り着くと、ポストにはチラシや郵便物が溜まっていた。麻里子はそれをまとめてテーブルの上に置き、父が兄の骨壺を仏壇の前に置いた。
東京では葬儀社に僧侶を呼んでもらい、短い読経はあげてもらっていた。親戚も多くはない。改めて葬式はしないと、父は言った。
三人並んで兄に線香をあげたあと、無言でテーブルを囲んだ。
そのとき、麻里子は先ほど置いたチラシの間に、封書のようなものが挟まっているのに気づいた。
そっと指先で引き出してみる。
その瞬間、息が止まった。
封筒の表書きに、見慣れた兄の字があった。宛名は両親だった。
「お父さん」
麻里子は思わず叫んだ。そして、指先にある封書を摘み、父へ差し出した。
父はその封書を手に取ると、宛名と差出人を何度も見比べた。母も、その封書を食い入るように見つめていた。
「にいちゃんからだよね」
麻里子がそう言うと、父はゆっくり頷き、母と視線を交わした。
「にいちゃん、なんて?」
そう聞いても、父は麻里子を見なかった。封筒を見つめたまま、黙っている。
「なんで開けないの。にいちゃんが、何か言ってきてるんだよ」
麻里子は父の腕を引いた。
父は封筒の端に目を落とした。
「雄太が……死んだ日に出してる」
父は、封書を見つめながら、そう言った。
その言葉の意味が、麻里子にはすぐにはわからなかった。
けれど、母の顔から血の気が引いていくのを見て、ようやく気づいた。
これは、兄が最後に出した手紙なのだ。
最後に出した手紙なら、中に入っているものは——。
「馬鹿野郎」
父が呟いた。その目は真っ赤だった。
「言いたいことがあるなら、口で言ってこい」
父の目から、涙がひとつ落ちた。
「こんなもん、よこしやがって」
父は勢いよく立ち上がると、仏壇へ歩き、手にした封書を下の引き出しに押し込んだ。
「いいか。絶対に封を開けるんじゃないぞ」
父は引き出しに手を置いたまま、唇をきつく噛んだ。
「俺は……こんなもん認めん」
母は何も言わなかった。
麻里子も、何も言えなかった。
あれから三十一年経つ。
いま仏壇から取り出した封筒を前に、麻里子は考えた。父の言いつけを守って、このまま最後まで開けないでおくか。
だが、もしひとりになった自分に何かあったら、おそらくこの封筒は、見知らぬ誰かが開けることになる。そして、兄の最後の言葉を、私ではなく、見知らぬ誰かが読む。
……それでいいの?
麻里子は意を決して、鋏を取りに立ち上がった。




