証言
木原が安置所へ案内し、冷たくなった遺体にかけられた布を取り除いたとたん、柊雄太の母は腰から砕けるように床に座り込んだ。父はぐっと拳を握り込んで立ち尽くしていた。その父の肘に、妹の麻里子がしがみつき、涙をぽろぽろと流しながら遺体となった兄の顔を見つめていた。
やがて、父がそっと母の傍にしゃがみ込み、優しく肩を撫でると、安置所には母の搾り出すようなすすり泣きだけが静かに響いていた。
その後、柊雄太の家族を案内し、会議室へ移動した。
「雄太さんが転落したと思われる階の非常階段に残されていた物です。確認をお願いします」
そう言って、木原は革のポーチとビニール袋に小分けして入れた免許証や財布などを、家族の目の前の長机に並べた。
「あの……」
その遺品をじっと見つめたまま、父が重い口を開いた。
「雄太が…… 雄太が自分で飛び降りたというのは、あの、本当なんでしょうか」
「まだ捜査中ではありますが、現時点では事件性をうかがわせる状況は確認されていません」
木原を左手で軽く制して、坂元が言った。それまでの坂元の口ぶりとは違い少し優しい。
「柊……雄太さんは、友人や教授からも聞きましたが、とても真面目な青年だったようですね」
「あ、はい。私たち夫婦の自慢の……息子、です」
消え入りそうな声で父が答えると、
「はい、そのようです。雄太さんを悪く言う人が本当に誰もいない」
坂元は一旦そこで言葉を止め、再びゆっくりと語り出した。
「実は雄太さんは、いくつかの悩みを抱えていたようです」
「雄太が悩みを、ですか」
「最近雄太さんから、何か相談はありませんでしたか。変わったこととか」
「……いえ、なにぶん九州と東京で離れて暮らしてるもんで、最近の雄太のことは私らもあまり」
坂元が何か納得するように小さく頷いた。
「雄太さんが司法試験を受けたいというのは?」
「はい、去年の夏に帰ってきたときに、そのような……」
雄太の父は思い出すように言った。
「ちなみに、今年のお正月に帰省は?」
「いえ、なんかアルバイトが休めないとか言って」
「やはりそうですか」
坂元が頷きながらそう言うと、父は訝しげな顔をした。
「やはり、と言いますと」
「実は、雄太さんが抱えていた悩みも、そのあたりにあったようです」
坂元がおもむろにポケットから手帳を取り出して開いた。続いて反対のポケットから老眼鏡を取り出すと、ちょこんと鼻に乗せるようにかけた。
「ええと……あ、ここか」
数ページ手帳をめくったところで、坂元は手を止めた。
「雄太さんのご友人や指導教授から聞いた話です。雄太さんは、本気で司法試験を受けようとしていた。けれど……」
坂元はちらりと家族の顔を見てから、再び手帳に目を落とした。
「試験勉強に取り組む時間が足りないことを、かなり気にしていたようです」
「時間、ですか」
父が少し驚いた顔で尋ねた。
「はい。アルバイトも、複数掛け持ちされていたようで」
「それは聞いたことがありますが……」
「ところで、つかぬことをお伺いします。雄太さんから、通常の仕送り以外に、お金を送ってほしいと言われたことはありますか」
そう言われて、雄太の父は隣にいる母の顔を見た。母は、力なく首を横に振った。
「ないようです」
その言葉に、坂元はゆっくりと頷いた。
「雄太さんは、自分の夢のことで、ご家族に迷惑をかけたくないと思っていたようです。学費のことは、特に」
「学費?」
「はい。司法試験を目指すとなれば、六法にしても、判例集にしても、専門書にしても、法学の本はどうしても高くなります。そういうことでご両親にお金を頼むことに、かなり抵抗があったようです。アルバイトを増やしたのも、そのためだったようで」
坂元はそこまで一気に話した。
「雄太が、そんなことを……」
父は天井を見上げた。
「同じゼミの学生に聞いたところでは、昨日はアルバイトが休みだったそうです。ゼミ室には専門書がそろっているから、ひとりで残って勉強すると話していたようですよ」
「でも…… でも、確かにうちは裕福とまでは言いませんが、雄太の学費ぐらいはなんとか……」
父が少し気色ばんで言った。
坂元は言うべきか迷ったように、一度だけ口を閉じた。それから、ゆっくりと続けた。
「雄太さんは、大変妹さん思いの方だったようですね」
「それが、何か」
「来年から妹さんも進学される予定だと、周囲に話していたそうです。少しでも自分にかかる負担を減らして、その分、妹さんには何不自由なく学生生活を送ってもらいたい。そう思っていたようです」
両親の顔が固まった。妹の麻里子は、その意味がすぐには理解できなかったようだった。坂元が続けた。
「私もこの仕事を長く続けていますと、いろんな現場に立ち会います。その中で……自ら命を絶つ方に、意外と多いんです。周りから見れば明るくて、まじめで、何の問題もないように見える方が」
坂元は、言葉を選ぶように一度口を閉じた。
「そういう方ほど、自分の弱いところを他人に見せるのが苦手で、問題をひとりで抱えてしまうことがあります」
父が動揺を隠せず、手で口を覆った。坂元は続けた。
「ですので、現時点では、自ら飛び降りられた可能性が高いと見ています。ただ、念のため、他殺などの痕跡がないか確認する必要があります。ご遺体は、監察医の先生に詳しく見ていただくことになります。場合によっては、解剖になるかもしれません。つらいお願いになりますが、どうかご理解ください」
そう言って坂元は両親に向かって頭を下げた。
「違います」
そのとき、両親の隣から強い口調の声が上がった。妹の麻里子だった。
その場の空気が、一瞬止まった。
木原はそのとき初めて、両親の影でただ泣いているように見えていた妹の顔を、正面から見た。
「兄ちゃんは、そんなことで死んだりしません」
意志の強い目だった。




