第6話:学園の侵攻者と、納豆の洗礼
志貴の部屋に、朝日が差し込む。
八犬士・犬川荘助が目を覚ました時、そこに主たちの姿はなかった。
「……志貴? 姫菜殿?」
返事はない。代わりに机の上には、殴り書きの紙片が置かれていた。
『学校行くから勝手に外出るなよ。朝飯は冷蔵庫の納豆食え。 志貴』
「なっとう……? これが現代の兵糧か」
荘助は、冷気を放つ巨大な箱の中から、白くて軽い小箱を取り出した。蓋を開けた瞬間、彼は跳ね起きた。
「……っ! なんという禍々しき気配! 糸を引き、得も言われぬ臭気を放っておる……。さては志貴、敵の刺客に毒を盛られたか!?」
だが、昨夜の「やきそば」の美味が脳裏をよぎる。彼は覚悟を決め、糸を引く豆を一口、口に放り込んだ。
「……ぬっ!? これは……。腐っておると思ったが、身体の奥底から力が湧いてくる……! おのれ、これが現代の秘伝の丸薬か。これを食せば、一日に百里を駆けることも容易い!」
一気に納豆を完食した荘助の瞳に、使命感の炎が宿った。
「待っておれ志貴! 姫菜殿! 今すぐ救いに参る!」
私立闘育舘高校、2時限目の現国。
志貴は、睡魔と戦いながら黒板を眺めていた。隣の席の姫菜は、時折手首のブレスレットを愛おしそうに眺め、昨日までとは違う、どこか浮世離れした神聖な空気を纏っている。
(……ったく、あいつ今頃何してんだろ。大人しく納豆食って寝てりゃいいけど)
その懸念は、最悪の形で的中した。
突如、校庭の方から「ドォォォォン!」という、フェンスがひしゃげるような爆音が響いた。
「な、なんだ!?」
教師が窓の外を見る。志貴も嫌な予感がして視線を向けた。
そこには、紺色の学校指定ジャージをはためかせ、校庭のトラックを100メートル5秒台で爆走する男の姿があった。
「曲者! 門番どもはすべて無力化した! 志貴を返せ!」
荘助は、行く手を阻もうとした体育教師を軽々と飛び越え、校舎の壁を垂直に駆け上がった。
「ひいっ!? なにあれ、パルクール!?」
「いや、あれうちのジャージじゃね……?」
教室内が騒然となる中、志貴は机に額を擦り付けた。
(来るな。来るな来るな来るな……!)
だが、願いも虚しく、廊下から地響きのような足音が近づいてくる。そして、教室のドアが勢いよく開け放たれた。
「志貴ー! 犬塚志貴はおるかー!!」
一瞬、教室が凍りついた。
静寂の中、クラスメイトたちの視線が一斉に「犬塚志貴」へと突き刺さる。
「……いぬづか、しき?」
「……志貴のことだよな? なんであいつが探されてんの?」
「志貴! 無事であったか!」
荘助は、周囲の困惑などお構いなしに、志貴の元へ駆け寄ってその手を握りしめた。
「安心せよ、拙者が来たからには、この『がっこう』という監獄も、ただの瓦礫の山に等しい!」
「ちょ……ちょっと、何なんですか貴方は!!」
それまで呆然としていた担任の教師が、ようやく我に返って叫んだ。チョークを握りしめたまま、不審者と生徒の間に割って入る。
「犬塚くん! 一体何なんですかその人は!! 勝手に入ってきちゃダメでしょう! 授業中ですよ!」
「知り合いじゃありません」
志貴は、消え入りそうな声で繰り返した。「俺、こいつのこと一ミリも知りません。誰だよ、お前。先生、早く警察か精神科呼んでください……!」
あまりの冷たさに、荘助はきょとんとして教室内を見渡した。そして、志貴の隣で頭を抱えている少女に気づき、その場に平伏した。
「……志貴? 姫菜殿!? 姫菜殿も捕らわれておったか!」
「荘助さん、声が大きい。ここは修行場じゃないんだから、静かにして」
姫菜が小声で一喝すると、荘助は「ははっ! 姫菜殿のご命令とあらば!」と、床に頭をこすりつけた。
「し、修行場……? 」
担任の顔から血の気が引いていく。クラス全体に、「ああ、こいつら全員『ヤバい設定の集団』なんだ」という、哀れみと納得の色が広がっていく。
昼休み。志貴は死ぬような思いで荘助を非常階段の踊り場まで連れ出した。当然、姫菜も一緒だ。
「……死にてぇ。もう学校来たくねぇ」
踊り場に座り込み、天を仰ぐ志貴。だが、荘助は全く悪びれる様子がない。
「志貴。無事であったか」
「……なんでいんだよ。おい。いいか、もう学校に来るな。わかったか?」
志貴の切実な釘刺しに、荘助はパッと表情を輝かせた。
「承知した! 信乃、いや、志貴! 寛大なるお心、痛み入る!」
結局、話を聞いているのか怪しい荘助に、志貴が深く溜息をついた瞬間。荘助は有無を言わさず志貴を小脇に抱え上げた。
「それでは参るぞ、志貴! 姫菜殿!」
「ええ、行きましょう! 学校にいるよりずっと面白そうだし」
「は? 待て……わあああ!?」
迷いのない姫菜が荘助の隣を鮮やかに駆け出すと同時に、荘助は踊り場の柵を蹴り、校外へと跳躍した。
学校を飛び出し、そのまま街へと躍り出た三人。荘助は志貴を抱えたまま、猛スピードで街中を爆走していく。
「……おい離せ! 離せっつーの! 街中で目立ちすぎなんだよ!!」
志貴の猛抗議に、荘助はようやく足を止め、歩道の上で志貴をひょいと地面に下ろした。志貴は乱れた制服を整え、息を切らしながら荘助を睨みつける。
「……はぁ、はぁ……。ようやく離したか。ったく、死ぬかと思ったぞ」
周囲の視線を避けるように少し移動してから、志貴はふと思い出したように荘助を問い詰めた。
「……お前、昨日八犬士には犬坂毛野ってのが居るって言ってたよな?」
志貴の問いに、荘助は真っ直ぐな瞳で力強く頷いた。
「いかにも。毛野は我ら八犬士が一員。女装の麗人にして、策謀に長けた智勇兼備の士よ」
「やっぱりかよ……! おい、お前が探してるその『いぬざか』って、もしかしてあの有名アイドルのことじゃねーか!?」
「あ、私もそれ思った」
姫菜がスマホを取り出し、手際よく画面を二人に向けた。そこに映っていたのは、今をときめく中性的な美形アイドル、犬坂レンの写真だった。
荘助はその画面を食い入るように見つめると、ハッと目を見開いた。
「……おお! 間違いない、この面魂、そしてこの涼やかな目元! 姿かたちは変われど、これぞまさに毛野の転生した姿!」
「はぁ!? お前、本気で言ってんのか!?」
志貴の困惑を余所に、荘助の瞳には確信の炎が宿っている。
「うむ! 志貴、姫菜殿、道は開けたぞ! 今すぐこの者の所へ参るぞ!!」
志貴の平穏な日常は、納豆の糸のようにズルズルと、そして完全に取り返しのつかない形で崩れ去っていった。




