第5話:伏姫の祈りと、現代の「めし」
志貴の部屋には、場違いな静寂と、それ以上に場違いなソースの香りが充満していた。
学校指定のジャージに身を包んだ八犬士・犬川荘助は、机の上に並べられた「現代の兵糧」を前に、まるで爆弾でも扱うかのような手つきで割り箸を割った。
「……志貴。この、茶色き紐のような食卓は……。先ほどの蕎麦とは、また別の術によるものか?」
「術じゃねーよ。カップ焼きそば。ほら、冷めないうちに食えよ」
荘助は恐る恐る、ちぢれた麺を一口口に運んだ。直後、彼の身体がビクンと跳ねた。
「……っ! なんという濃密な味わい……! 焦がした醤油のような、されど甘みもあり……。志貴、これは殿上人の食い物ではないのか!? このような美味、拙者が食しても良いものか……!」
「大裟裟だな……。ただのジャンクフードだっての」
「志貴。すまぬが、今の『やきそば』というものを、もう一つ頂けぬか?」
「食いすぎだろ。焼きそばはもうねーよ。……ほら、次はこっちのチャーハン食え」
志貴が差し出した冷凍チャーハンを、荘助は再び嬉しそうに頬張り始めた。その隣で、姫菜がスマホのカメラを向けながら呆れたように笑う。
「荘助さん、マジでいいキャラしてるよね。この食べっぷり、動画にしたら一瞬でバズりそう」
一息ついたところで、荘助は居住まいを正した。
「隠すつもりはない。拙者は、かつて安房の地にて里見家に仕えた八犬士の一人、犬川荘助義任である。拙者たちは、伏姫様の祈りによって生まれた八つの珠に導かれ、この世を闇に落とそうとする怨悪と戦う宿命にある」
「八犬士……。それって、あの昔話の『南総里見八犬伝』のことか?」
志貴の問いに、荘助は頷き、懐から青白い光を放つ『義』の珠を取り出した。
「志貴よ、お主の中には我が義兄弟、犬塚信乃の魂が眠っておる。そして、そちらの姫菜……お主からは、我らが命を懸けて守り抜くべき貴きお方……『伏姫様』と同じ輝きを感じるのだ」
「え、私が伏姫様? 嬉しいけど、さすがに盛りすぎだってば!」
姫菜が笑い飛ばした、その時だった。
荘助の持つ珠の光が、一段と強く脈動した。
それに応呼するように、姫菜の左手首に巻かれた水晶のブレスレットが、白銀の光を放った。
「なっ……なんだよそれ! 姫菜、そのブレスレット光ってんぞ!?」
志貴は椅子を鳴らして立ち上がり、姫菜の腕を指差した。電池も何も入っていないはずのアクセサリーが、部屋のシーリングライトを塗りつぶすほどの強い輝きを放っている。
「……っ!?」
姫菜の脳裏に、凄まじい濁流のような映像が流れ込む。燃え盛る城、飛び散る数珠、そして——自らの命と引き換えに八つの魂を現世に放った、あの瞬間の、張り裂けるような祈りの感覚。
(……ああ、そうか。私は、あなたたちを……)
「……なあ、荘助。その、八犬士ってのは……あんた以外に誰がいるんだよ」
目の前の怪現象に冷や汗を流しながらも、志貴は絞り出すように問うた。荘助は背筋を伸ばし、祈るように目を閉じてその名を紡いだ。
「『孝』の珠を持つ、犬塚信乃」
「『義』の珠を持つ、この拙者。犬川荘助」
「『忠』の珠を持つ、犬山道節」
「『信』の珠を持つ、犬飼現八」
「『悌』の珠を持つ、犬田小文吾」
「『智』の珠を持つ、犬坂毛野」
「『礼』の珠を持つ、犬村大角」
「『仁』の珠を持つ、犬江親兵衛」
一人一人の名を呼ぶたび、荘助の言葉には重い熱がこもる。
「この八人が揃ってこそ、真に闇を払う力が生まれる。志貴よ! 拙者と共に来てはくれまいか。お主の力を貸してほしい!」
だが、志貴は握られた手を、困惑した顔でスッと引き抜いた。
「……いや、無理。絶対行かない。今の光は……マジで意味不明だけど、それでも俺は行かない。明日も学校あるし、そんな化け物と戦うなんて、命がいくつあっても足りねーよ。宿命とか魂とか、そういうのはもう流行んねーんだわ」
バッサリと切り捨てる志貴の言葉に、荘助はガックリと肩を落とした。
「そ、そんな……。信乃がこれほどまでに、現世に染まっておるとは……」
「ちょっと志貴、言い方ってものがあるでしょ」
姫菜が、どこか遠くを見るような瞳で志貴をなだめた。
「荘助さん、志貴はこういう奴だけど、根は悪くないから。……今は何も思い出せないみたいだけど、私がなんとかするから。ね?」
姫菜の言葉には、慈愛に満ちた確かな響きが宿っていた。
荘助は息を呑み、震える声で彼女を見上げた。
「……伏姫様……」
「だから、伏姫様じゃないってば。私は姫菜。……でも、あなたのことは、よく知っている気がするわ」
姫菜が優しく微笑むと、荘助は胸をつかれたように彼女を見つめた。
「……お目覚めになられたのですか?」
何も思い出さない志貴と、一人運命を思い出した姫菜。
新宿の片隅、噛み合わない三人の共同生活が、夜の静寂の中で幕を開けた。




