第3話:義の珠、共鳴
「……っ、しっかりしろ! とりあえずこれ飲め!」
志貴はカウンター越しに冷水の入ったコップを差し出した。
荘助は、震える手でそれを掴むと、中の水を一気に飲み干した。喉を鳴らして水を流し込むその姿は、最強の武士というより、行き倒れ寸前の遭難者のようだ。
「……すまぬ、主。命を繋いだ……」
「主じゃねーよ。……はぁ、全く」
志貴は、厨房から店主が向ける「あんな浮浪者みたいな奴、早く追い出せ」という冷ややかな視線を背中で受け流した。だが、ボロボロのなりで、必死に礼を言うこの男を見捨てられるほど、志貴の心は図太くなかった。
志貴は迷わず自分の財布から小銭を取り出すと、券売機で『かき揚げ蕎麦』のボタンを叩いた。
「ほら。一文銭じゃ何も買えねえから、これ食え。……奢りだ」
差し出されたどんぶりから、濃い醤油と出汁の匂いが立ち上る。
荘助の瞳に、今日一番の輝きが宿った。
「……蕎麦か。かたじけない……」
荘助は、儀式でも執り行うかのような真剣な面持ちで箸を取ると、勢いよく蕎麦を啜り始めた。その凄まじい食いっぷりを見届けてから、志貴はふと気になっていたことを口にした。
「……なぁ。あんた、名前は?」
荘助はピタリと動きを止め、口の周りに汁をつけたまま、居住まいを正した。汁を拭い、武人としての光を宿した瞳で志貴を見据える。
「……名乗るのが遅れた。拙者、義の珠を預かる八犬士の一人——**犬川荘助義任(いぬかわ そうすけ よしとう)**と申す」
「いぬかわ……そうすけ? なげーよ。……じゃあ、荘助さん、な」
志貴は呆れたように笑った。どこまでも設定の凝った人だ。だが、その名前を耳にした瞬間、脳の裏側を針でつつかれたような、かすかな違和感が走るのを志貴は感じていた。
そこへ、自動ドアが開く乾いた音と共に、場違いに明るい声が響いた。
「あーっ! 志貴くん見っけ! バイトサボって変な人と密会中〜?」
学校帰りに志貴のバイト先を覗きに来た、幼馴染の姫菜だった。
「姫菜! 今、仕事中だって……」
「あ、昨日の人じゃん! 志貴くん、知り合いだったの?」
姫菜が荘助を指さして目を丸くする。志貴は少し気まずそうに、ボソッと答えた。
「……いや、知り合いっていうか。今、名前聞いたんだよ。荘助、さんだってさ」
「へぇー、荘助さんね! でも志貴くん、そんなことより大変だよ! ほら見て、この人、今ネットで超話題になってるんだから!」
姫菜はニコニコしながら、自分のスマホを荘助の目の前に突き出した。
「ほら! 『新宿にガチすぎる落武者現る』って、トレンド入りしてるよ!」
小さな画面には、先ほど荘助が魂を吸われる思いで逃げ出した、あの「妖術」の中に閉じ込められた自分の姿が映し出されていた。
「なっ……なななっ……!?」
荘助は、箸を止めて絶句した。自分の醜態が、この小さな石の中で何度も繰り返されている。しかも、姫菜が画面を指で弾くたびに、見知らぬ他人の罵倒や嘲笑が滝のように流れてくるではないか。
(……間違いない。あれは魂を削り取り、晒し者にする極悪非道の妖術……!)
先ほどまでの蕎麦の感動は一瞬で吹き飛んだ。荘助の全ての意識は、彼女の持つ「妖石」へと集中し、パニックが再燃する。
「お、おのれ……っ! よくも拙者を……!!」
ガタッ! と椅子を蹴って立ち上がる荘助。その手は再び、腰の刀の柄へと伸びる。
「ちょ、荘助さん落ち着けって! それはただのスマホで……」
志貴が咄嗟に、今にも刀を抜きそうな荘助の腕を掴んだ。
その、瞬間だった。
「……っ!?」
荘助の懐の奥から、言葉では言い表せないほど清冽な光が溢れ出した。
志貴がその腕に触れた瞬間に呼応するように、荘助の持っていた『義』の珠が強く、温かに脈動したのだ。
「……なんだよ、これ」
志貴は驚き、その光を見つめたまま固まった。懐から漏れる光は、志貴の手を透かすほどに強く、それでいて不思議と恐ろしさは感じなかった。
荘助もまた、驚愕に目を見開いていた。
(……珠が、光った? この少年に、触れられただけで……)
八犬士の能力を司る『珠』は、同胞が近くにいる時に共鳴する性質を持つ。だが、今の輝きは異常だった。かつて戦国で信乃と肩を並べた時でさえ、これほどまでに珠が歓喜に震えたことはない。
荘助は、光に照らされた志貴の顔、そしてその背後に隠れる姫菜の姿を交互に見つめ、切実な声を絞り出した。
「お主……もしや、信乃か……? それに、そちらの御方は、伏姫様なのか……!?」
だが、志貴から返ってきたのは、感動とは程遠い視線だった。
「は? シノ? 誰だよそれ。……っていうか、おじさん、やっぱりどこか頭打ってんじゃねーの?」
「お、おじ……? 誰がだ。拙者はこれでも、まだ十代……」
「えっ、嘘でしょ!? その身なりで!?」
姫菜が素で驚きの声を上げる。確かに、煤けた古着にボサボサの髪、そして武士特有の隙のない佇まいは、現代の基準で見ればどう見ても「苦労を重ねた三十路手前の男」にしか見えなかった。
自分の実年齢を否定しようとした荘助だったが、それを遮るように店内の空気が一変した。
自動ドアがひび割れ、外からどろりとした黒い霧が流れ込んでくる。
「……荘助さん、これ、昨日の……!」
志貴が声を震わせる。
荘助は、溢れそうな涙を堪えるように強く目を閉じると、再び目を開けた時には、迷わず刀を抜いていた。蕎麦で満たされた腹に、力がこもる。
「……話は後だ。志貴、下がっていろ」
珠の光を全身に纏い、荘助は白刃を正眼に構えた。
「此度は、欠片も分が悪くなどない」
その背中は、志貴の瞳に、どんな映画のヒーローよりも大きく、頼もしく映っていた。




