第2話:新宿の迷い子
一、消えない残響
「……志貴くん、おはよ。顔色悪いけど、大丈夫?」
翌朝。登校中、隣を歩く**姫菜**が心配そうに顔を覗き込んできた。春の柔らかな日差しが新宿の街を照らしているが、志貴の頭の中には昨夜の異様な光景がこびりついて離れない。
「……ああ、悪い。ちょっと寝不足なだけだ」
嘘だ。昨夜、あの路地裏で見た、闇を切り裂くような太刀筋。そして、自分たちを助けたはずのあのボロボロの男が、こちらを見向きもせず、血を吐きながら消え際に放った言葉。
『——信乃……伏姫様……どこだ……』
あの男の目は、目の前にいる自分たちを見てはいなかった。まるで、ここではないどこか遠い場所——あるいは、もうどこにも存在しない誰かを、必死に、狂おしいほどに探し求めているようだった。
「ねえ、昨日の人……結局、誰だったんだろうね? 変な格好してたけど、誰かを探してたみたい」
姫菜の言葉に、志貴は無意識に喉を鳴らした。自分たちを救ったのは、単なる正義感ではない。もっと重く、熱い何かに突き動かされていた。あいつが呼んでいた「シノ」とかいう奴。そいつがここにいれば、あんな死にそうな顔をせずに済んだのだろうか。
「……分かんねえ。でも、あいつ……死にそうな顔して、誰かの名前を呼んでたんだ。あんな声、聞いたことねえよ」
路地裏に残された、アスファルトを深く抉る刀傷。男はあの後、どこへ向かったのか。あのボロボロの体で、今もまだ誰かを探して彷徨っているのではないか。志貴の胸には、拭いきれないモヤモヤとした懸念が居座っていた。
二、街を彷徨う「異物」
「……ここは、黄泉の国か。それとも、南蛮の化生が作り出した幻術か」
荘助は、溢れかえる「光」と「音」に目眩を覚えていた。
空を刺すような鉄の巨塔。馬も引かぬのに地を這い、唸り声を上げて走り去る鋼の箱。煤け、返り血を浴びた装束で街に立ち尽くす彼に、人々は一斉に「黒い石」を向けた。
——ピコーン! シャカッ! ぴかーっ!
「……ぐあああっ!! 何を……何をした!!」
鋭い閃光を浴び、荘助は顔を覆いたじろいだ。痛みはない。だが、石の中に自分の驚愕した顔が寸分違わず映し出されているのを見て、総毛立った。
(……間違いない。あれは人の姿を写し取り、魂を封じ込める妖術の類だ……! この街の住人は、誰も彼もがこの妖石を手にしている。全員が手練れの術者だというのか……!)
見渡す限り、無数の術者が自分を取り囲んでいる。相手が妖怪なら斬り伏せることもできるが、正体不明の術を平然と使いこなす軍勢を前に、荘助は奥歯を噛み締めた。
(……くっ、流石に分が悪すぎる!)
荘助は五百年前の戦場でも見せたことのない素早さで、背を向けて疾走した。誇り高き武士の戦略的撤退。
ようやく「術者」たちがまばらになった高架下で、彼は激しく肩を上下させた。
「……はぁ、はぁ……。おのれ、これほどまでの包囲網を敷くとは……」
だが、安堵したのも束の間。今度はどんな妖術よりも耐えがたい衝撃が、彼の内側を襲った。
——ぐうぅぅぅぅぅ……。
「……くっ、腹が……。力が……入らぬ……」
最強の八犬士も、空腹という名の「現実」には抗えなかった。五百年の時を越えた跳躍は、想像以上に生命力を削っていたらしい。
そんな中、一軒の店から、この狂った世界で唯一、荘助がよく知っている匂いが漂ってきた。——鰹の出汁と、濃い醤油の香ばしい香り。かつて戦の合間に、親友と啜ったあの蕎麦の匂いだ。
(……この匂い。蕎麦か……。ここならば、術中にはまらずとも飯が食えるかもしれぬ)
荘助は最後の一歩を振り絞り、吸い寄せられるようにその店へと足を踏み入れた。
三、運命の再会
「いらっしゃい! 空いてる席どうぞー!」
活気ある声が響く。荘助がふらふらと入ったのは、駅前の立ち食い蕎麦屋だった。
カウンターの奥で忙しなく動く店員——バイト中の志貴は、入ってきた客を見て息を呑んだ。
「……っ!?」
煤け、血に汚れ、それでいて恐ろしい圧を放つ昨夜の男。
「……主か」
荘助の声は掠れていた。
「……蕎麦を。一番早いものを、頼む」
荘助は震える手で、懐から古びた一文銭を取り出し、カウンターに置いた。
「……これで、足りるか。金は、後で必ず……」
そのまま、荘助の大きな体がゆっくりと傾ぐ。
「おい、ちょっと! しっかりしろよ!」
志貴は咄嗟にカウンターを乗り越え、崩れ落ちる男の体を抱きとめた。
ガシッ、という重い手応え。
志貴には何の記憶もない。この男が誰なのかも、なぜ自分がこんなに必死に支えているのかも分からない。ただ、抱え上げたその肩の震えが、なぜか他人事とは思えなかった。
「おい、死ぬなよ! 誰か、水だ、とりあえず水を!」
抱えられた荘助は、薄れゆく意識の中で、自分を必死に呼ぶ少年の「声」を聞いた。
その声の主が誰であるか、この時の荘助はまだ確信を持てずにいた。だが、自分を支える腕の温もりだけは、五百年前と少しも変わっていないような気がした。




