第11話:聖域の守護者と、仮面の同居人
渋谷での激闘を終え、俺と荘助、そして新しく仲間になった道人さんの三人は、夕闇に包まれ始めた住宅街を歩いていた。街灯が一つ、また一つと灯り始め、家々からは夕食の匂いが漂ってくる。
「いやぁ道人さん、さっきの火遁、本当に凄かったです! 俺、あんなの初めて見ましたよ。あの一撃で妖怪を焼き尽くすなんて、まさにプロの仕業って感じでした!」
俺は興奮を隠せず、道人さんの顔を覗き込むようにして言った。道人さんは相変わらず、涼しげな顔で完璧な笑顔を浮かべている。
「ははは、大げさだよ、志貴君。僕の力も、君たちのような仲間のためにあるんだからね。君が守ってくれたあの人が無事だったのが、何よりの成果だよ」
道人さんの言葉はどこまでも優しく、俺の胸に温かく響いた。隣では荘助が「道人殿の身のこなし、拙者も学ぶところが多いでござる! まさに理想の武士よ!」と鼻息を荒くして頷いている。
ちょうど俺たちの家の前に差し掛かった時だ。隣の家の門が開き、幼馴染の姫菜がゴミを出しに顔を出した。
「あ、志貴! おかえり。……え、その人たちは? お客さん?」
「おう、姫菜! 紹介するよ。今日から一緒に戦うことになった、犬山道人さんだ。めちゃくちゃ強いし、すげーかっこいいんだぜ!」
俺は誇らしい気持ちで、いつものように気安く姫菜の肩に手を置き、道人さんに紹介しようとした。――その瞬間だった。
「…………ッ!」
道人さんの空気が、一瞬で凍りついた。
それは怒りとかではない。まるで、泥足で神聖な祭壇に踏み込んだ不届き者を見た時のような、静かな、しかし圧倒的な拒絶。
だが、彼はそれを表には出さなかった。道人さんは驚くほど自然な動作で俺の腕をそっと取り、まるで汚れた枝でも払うかのように、優しく、だが確実に姫菜の肩から俺の手を引き剥がした。
「初めまして、姫菜さん。犬山道人です。……実際にお会いすると、その……言葉を失うほど素晴らしい方だ。今日から、君の平穏はこの僕が命に代えても守り抜くことを、ここに誓いましょう」
道人さんは見たこともないほど深く、優雅な一礼を姫菜に捧げた。その仕草はまるで中世の騎士のようで、夕闇の中で彼だけが発光しているように見えた。
「え、ええ……? あ、よろしく、道人さん……」
姫菜もその真剣すぎる眼差しに、少し気圧されながらも頬を染めている。俺はそれを見て、「すげぇ、女の子への礼儀まで完璧なんだな! これぞ大人の男だ!」と、ますます彼への尊敬を深めてしまった。
そのまま俺たちは家の中に入った。両親が海外赴任中で、今は俺と荘助の二人暮らしだ。
「そういえば道人さん、今日はどこに泊まる予定なんですか?」
リビングに入ると、道人さんは少し申し訳なさそうに、目を伏せてこう言った。
「……実はね、今まで住んでいた場所が、急な事情で使えなくなってしまってね。今は一時的にホテルを転々としている状況なんだ。僕のことは気にしないで。君たちにこれ以上心配をかけるつもりはないから」
「えっ、家がないってことですか!? 恩人を放り出すわけにはいかないですよ!」
「左様でござる! 道人殿、もし良ければ我が家に泊まられよ。部屋は余っておるし、男同士、気兼ねはいらぬ!」
荘助の提案に、道人さんは一度、困ったように眉を下げて断った。
「いや……初対面の僕が上がり込むなんて、志貴君に迷惑がかかってしまう。それは僕の美学に反するんだ。やはり、遠慮しておくよ。君たちの厚意だけで、今は十分報われた気持ちだ」
「そんなことないです! 俺も、道人さんがいてくれたら嬉しいです! むしろいてください!」
俺が必死に食い下がると、彼はようやく折れるような仕草を見せ、微笑んだ。
「……分かった。君たちがそこまで言ってくれるなら、今夜一晩だけ、お世話になろうかな。その代わり、家賃代わりと言っては何だけど、僕に家のことをさせてくれないかい? じっとしているのは性に合わないんだ」
家に入った瞬間、道人さんの「完璧」が始まった。
彼は魔法のような手際でリビングを片付け、脱ぎっぱなしだった俺たちの服を丁寧に畳み、冷蔵庫の余り物で料亭のような夕食をあっという間に作り上げた。
「……美味い! 道人殿、料理まで完璧とは! この肉じゃが、料亭の味でござる!」
「本当だ……道人さん、本当に神様みたいだ。俺たち、いつも適当な飯だったから……」
「ははは、大げさだよ。……志貴君、お風呂も沸かしておいたよ。入っている間に、君たちの洗濯物も済ませておこうか? ちょうど明日の予報は晴れだから、今のうちに回しておけば朝には乾くよ」
「えっ、そこまで!? ありがとうございます! 本当に、道人さんがいてくれて良かった……」
感動した俺は、喉の渇きを覚えて飲み物を取りにキッチンへ向かった。ちょうど荘助が「では、拙者が一番風呂を頂くでござる!」と風呂場へ消え、廊下で道人さんと二人きりになった、その時だ。
ゴミ袋の口を縛っていた道人さんが、ふっと動きを止め、俺を振り返った。
そこには、さっきまでの「聖母のような微笑」はなかった。
街灯の光も届かない暗い廊下で、彼の瞳だけが、獲物を定めた爬虫類のように冷たく、無機質に光っている。
「……志貴君。一つだけ、忠告しておこうか」
「え……? はい、何ですか?」
俺は無邪気に問い返した。だが、返ってきたのは、花の蜜のように甘く、しかし心臓を凍らせるような冷酷な声だった。
「あのお方に、あんな汚れた手で、二度と気安く触れないでくれないかな」
「え……? 汚れた手……? あ、さっきの姫菜の肩のことですか? あれは、その、幼馴染だし、いつもの癖で、深い意味は……」
「『いつもの癖』、か。……反吐が出るね。君自身の存在そのものが、彼女にとっては害悪なんだという自覚はないのかい?」
道人さんは俺に一歩詰め寄った。逃げ場のない壁際で、彼は完璧な顔立ちを崩さないまま、俺の耳元で静かに囁く。その吐息は冷たく、言葉は刃物のように鋭かった。
「君のような『珠』も持たない不浄な人間が、彼女と同じ空気を吸い、隣に住み、親しげに名前を呼ぶ。それがどれほど不敬で、おぞましい罪か。その空っぽな脳みそで、少しは考えたほうがいい。君がそこにいるだけで、彼女の純潔が汚されるんだ」
「え……道人……さん……?」
俺は硬直した。何を言われているのか、一瞬理解できなかった。
だが、道人さんはすぐにパッと身を引き、また元の「優しい兄貴分」の顔に戻って、俺の肩をポンと叩いた。
「……なんてね。ちょっと真面目すぎたかな? 君にはもっと、八犬士としての自覚を持ってほしくて、つい厳しく言っちゃったよ。君への期待の裏返しだと思ってほしい。ごめんね、志貴君」
「あ、あはは! そういうことですか! びっくりした……道人さん、冗談きついっすよ! でも、それだけ俺のことを見てくれてるってことですよね!」
俺は、胸の奥に残った奇妙な寒気を無理やり笑い飛ばした。やっぱり道人さんは、俺を一人前にしようとして、あえて厳しく接してくれているんだ。あんなに完璧な人が、俺のために怒ってくれるなんて。
「さあ、早く戻りなよ。……これ以上、不浄な空気がこの家に淀まないうちにね」
「はい! ありがとうございます!」
俺は元気にリビングへ戻った。
後ろで道人さんが、俺の肩を叩いた方の手を、心底汚らわしいものを見る目で睨みつけ、皮が剥けるほど激しく、スラックスの横で何度も何度も拭っていることにも。
そしてその後、カバンから取り出した消毒液を、狂気を感じさせるほど入念に手に塗り込んでいる音にも、俺は気づくことはなかった。
こうして、俺たちの「完璧な兄貴分」との、地獄のような同居生活が幕を開けた。




