第3話:三百億円の石板
その夜、私は自室でパソコンに向き合っていた。
病院から帰った後、私たちは誰も何も言えなかった。食欲のある人間はいなかったけれど、何かを食べなければと思って、半額になっていたスーパーの弁当を流し込むように食べ、それぞれの部屋に引きこもった。
くよくよしていても仕方がない。いや、動いていないと落ち着かない、というのが本音だ。
しかし、調べても有力な情報は出てこなかった。アビリティで体が変化する例は確かにある。ただ、内臓、しかも心臓に関するものは極端に少ない。デメリットへの対処法も、サンプルが少なすぎて「各自で頑張るしかない」という結論ばかりだった。
調べるのをやめることもできず、いくつものサイトを開いては閉じていくうちに、あるオークションサイトにたどり着いた。ダンジョンから持ち帰られた魔法的なアイテムを扱う、冒険者ギルド公認のサイトだ。そこに、こんな商品が出ていた。
『賢者の石板』。
五十層以上あるダンジョンの奥地で見つかったアイテムで、触れた対象の状態を詳細に調べ、文章として出してくれるという。レビューには、感覚的にしか分からなかったアビリティの詳細を理解できて、前よりうまく使えるようになったと書かれていた。
これだ、と思った。
私の心臓――『水晶製魔機構の心臓』。長いので、水晶心とでも呼ぼうか。その効果は、名前と一緒に頭に入ってきている。通常の人間よりも多くの魔力を生成し、同時に、ガラスや水晶のような透明度の高い鉱物を操作できる。
けれど、分かるのはそこまでだ。どうやって魔力を生んでいるのか。そこに代償はないのか。いつまで動くのか。何ひとつ分からない。
でも、この石板なら、どんなリスクがあるかまで文章にしてくれるはずだ。私は反射的に購入予約を入れようとして、購入制限に目が留まった。
『冒険者ランクB以上限定』
そして、その下の値段を見て、思考が止まった。
『¥30,000,000,000』
三百億円。
私は無言でそのページをブックマークして、ブラウザを閉じもせず、パソコンの電源ボタンを直接押した。
暗くなった画面を見つめながら、私は考えた。
三百億円は、普通に暮らしていて貯まる額じゃない。Bランクという条件も同じだ。冒険者になって、ランクを上げて、お金を稼ぐ。順番に並べれば簡単だけれど、ほとんどの人にとっては、夢のまた夢の話だろう。
そういえば、去年、市役所で属性検査を受けたことを思い出した。
ガラス玉に手を置いたら、白と黒の光が半々に揺らめいた。中国の太極図のようなその光を見て、職員が目を丸くしていた。強い光と闇の適性。あのときは、それがどれほどすごいことなのか、よく分からなかった。同じ日、同じ会場で、三つの属性を持つ人がいたと騒がれていた。富田だ。
あの適性が、今の私にとって何か意味を持つのかどうかは分からない。ただ、少なくとも私には、冒険者になるための素質が、ないわけではないらしい。
親には、さんざん反対された。もう少し時間を置けば、あの石板が手に入るかもしれない。そうでなくても、もっと安全にアビリティを解析できるものが見つかるかもしれない、と。
最終的には、納得してくれた。「何かしていないと、おかしくなりそう」と言ったのが効いたのかもしれない。まぎれもない本音だったけれど。
数日後の土曜日。私は公共交通機関を乗り継いで、この地域の中心街にいた。「冒険者ギルド前」のバス停で降りると、正面にそびえる頑丈な高層ビルを見上げる。周囲には同年代の少年たちや、友達とはしゃぐ少女たち、足早に入っていく大人たち。誰もが、同じビルを目指していた。
私は今日、冒険者になるための講習の、一回目に来ている。理由は一つ。『賢者の石板』を買う条件と資金のためだ。
ちなみに、鞄には市販の整腸剤を入れている。この数日、何もしていないと悪い考えばかり浮かんで、とうとう胃にまでダメージが来たのだ。今も呆然と見上げていたせいで、周囲から「何だこいつ」という視線を向けられている気がして、胃が痛い。
……落ち着け。受付を済ませてしまおう。
軽く頭を振って、入口へ歩き出す。ギルドの中は、思っていたよりも普通だった。酒場もなければ、新人に絡む荒くれ者もいない。白く清潔なエントランスに、奥には黒くシックな受付。右手にはソファ、反対側には軽食の売店。普通のオフィスビルのような印象だ。
受付で、事前にメールで届いていた認証コードを見せる。言われた通りに三階へ上がり、第一会議室の扉の前で、私は一度だけ立ち止まって、胸に手を当てた。
大丈夫。まだ、動いている。
私は扉を開けた。
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