第2話:ガラスの心(物理)
保健室の先生が戻ってきたので、すりむいた膝を見せたところ、騒ぎになった。
人の皮膚に透明な膜が張り付いていたら、騒ぎにもなる。仕方がないと思う。
私自身は、現実感がなさすぎて、感情が麻痺してしまっていた。考えてみてほしい。自分の体から、透明で固そうなのに柔軟に動くものが生えてきたら、どう思うか。私は理解を放棄した。
そこからは、記憶があいまいだ。気がつけば救急車に乗せられ、病院で全身をくまなく検査されていた。医者たちは最初こそ険しい表情だったが、途中から「理解できない」という顔に変わっていった。MRIに何か異常なものが映ったらしく、その後も検査が重ねられた。
そして私は、全身麻酔のマスクを言われるがままに着けて、意識を失った。
目が覚めたのは、一日後だった。
見覚えのない白い天井に戸惑ったが、検査のために麻酔をかけられたのだと思い出す。隣では、母が泣きながらこちらを見ていた。目を覚ました私を見るなり、縋りつくように抱きついてくる。
おかしい。検査のためだと言われたはずなのに、これではまるで、大きな手術の後ではないか。
母をどうにか泣き止ませて話を聞こうとしていると、扉が勢いよく開いた。息を切らした父が、私の顔を見るなり泣き出した。私は何も言えず、「よかった」と繰り返す両親を見ていることしかできなかった。
やがて、深刻な顔をした医者が入ってきて、両親に向かって切り出した。
「お子さんの体は、他に事例のない状態にあります」
「具体的にはどうなんですか!? 何か命に関わるんですか!?」
母がヒステリック気味に叫ぶ。ここまで取り乱した母を見るのは初めてだった。父は逆に、何も言わなかった。いつもは多弁な人なのに、腕を組んで黙り込んでいる。
私は今さらになって、軽い恐怖と疑問に襲われていた。なぜ、いきなり全身麻酔だったのか。思い返せば、手術をするのかと聞いた私に、外科医はこう答えていた。
「臓器を摘出したりはしませんので、安心してください。ただ、直接私たちが確認する必要があると判断しました。確証も前例もなさすぎて、精神的な負担が大きくなる恐れがあるため、あなたには手術の後でお伝えします」
つまり、確証はないが、体を切り開いて確かめる必要があった、ということだ。何を、確かめたのだろう。
答えの出ない考えが、頭の中をぐるぐると回る。
医者が、決心したように口を開いた。
「お子さんの……清水晶さんの心臓が……透明になっていました」
部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。
母は目を見開いたまま硬直し、父は理解できないという表情で頭を抱えている。私も驚いた。驚いたのだが……なぜだろう。とても落ち着いている。腑に落ちた、という方が近いかもしれない。そんな名状しがたい感情が湧き上がって、表情を動かすことができなかった。
「正確に言うと、心臓だけがガラスのように透明なまま動いています。周辺の血管や組織には一切異常がありませんし、他の臓器も、体調も、健康そのものです」
医者は一息ついて、私をまっすぐに見つめた。
「晶さん」
「……は、はい」
今から重要な話をされるのだと、否応なしに理解させられる威圧感があった。自然と背筋が伸びる。
「これは三年前、神話回帰以降の話になりますが、一部のアビリティ保持者の身体に、特異な変化が現れる症例があります」
医者は机の上の書類に視線を落としながら続けた。
「アメリカのある探索者は、アビリティ『エクステンデッド・アーム』を得た結果、背中から第三の腕が生えてきました。日本でも、『獣化:狸』というアビリティを持つ方の協力で変化後の身体を調べたところ、内部構造が全体的に変異し、狸に似た臓器が形成されていた例があります」
再び顔を上げた医者の表情は、深刻なままだった。冗談などではないことが、はっきりと伝わってくる。
「おそらく、晶さんも何らかのアビリティに目覚めている可能性が高いでしょう。そこで、頭の中で『自分の力』というイメージを強く思い浮かべてみてください。アビリティを持つ人は、強く意識すると、その概要が分かるようになると言われています」
言われるがまま目を閉じ、意識を内側に向ける。体の内側を探るように沈んでいくと、心臓のあたりに、何かが「ある」のが分かった。その輪郭を強く捉えた瞬間、名前が脳裏に浮かび上がった。
「――『水晶製魔機構の心臓』」
それが、私のアビリティの名前らしかった。
「心臓が変化する例は、少なくともデータベース上には一件も見つかりませんでした」
医者は、慎重に言葉を選ぶように言った。
「命に関わるかどうかは分かりません。ただ、科学的には、いつ止まってもおかしくないと言わざるをえません。そうでなくても、体や精神にどんな影響が出るかは未知数です」
病院を出た帰りの車の中で、誰も口を開かなかった。
母は窓の外を見たまま、私の手を握って離さなかった。父は運転しながら、いつもの冗談をひとつも言わなかった。
私は、そっと自分の胸に手を当てた。
いつ止まってもおかしくない、と医者は言った。
けれど心臓は、今日も、いつもと同じように動いていた。
透明な、ガラスの心臓のまま。
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