『超常の力を秘めし少女たち』
広大な国土を誇るアルストラーナ帝国。その繁栄の心臓部である帝都ラーナから、遥か北東へ六百二十キロメートルにある花の都ルミナリアは、朝靄の中で緩やかに揺れていた。水面に反射する朝日がキラキラと光の粒を弾かせ、古い石畳の船着き場を温かく包み込んでいく。
その賑やかな運河の港に、帝国の紋章である「双頭の鷲」を掲げた優美な官用船が停泊していた。周囲の商家や漁船とは一線を画す威風堂々たる佇まいの中、二人の少女が身を寄せるようにして船の甲板に立っていた。
「ご覧なさい、セシリア。ルミナリアの街並みが、もうあんなに小さくなっていくわ」
柔らかな栗色の髪を風になびかせ、静かに遠ざかる故郷を見つめるのは、十歳のリゼリア・リヴィエールであった。その瞳は深く澄み渡り、年相応の幼さを残しつつも、どこか浮世離れした知的で神秘的な光を宿している。
「うん……ほんとだね、リゼ姉様。お舟が動き出したら、あっという間なんだね」
隣でリゼリアの袖をぎゅっと掴んでいるのは、一歳年下の従妹、九歳のセシリア・リヴィエールだ。波打つ金糸のような髪にふわふわとした愛らしい容貌は、まるで童話から飛び出してきた天使か妖精のようである。小さな唇を少しだけキュッと結び、見慣れた水郷の風景を目に焼き付けようとしていた。
二人が生まれた二つのリヴィエール家は、セレスティア周辺に深く根を張る土豪の一族である。遥か昔、この地に流れ着いたという「異国の漂流民」の血を引くという伝説があり、一族の者はみな一様に人目を引く美貌と、どこか独特の浮世離れした雰囲気を纏っていた。だが、彼らが秘める真の姿はそれだけではない。一族の者だけが持つ、公には語られぬ超常の能力――それがリヴィエール家の真の秘密であった。
(……大丈夫よ、セシリア。後宮という場所がどれほど複雑で、陰謀に満ちた場所であったとしても、私たちが互いを信頼している限り、恐れるものは何もないわ)
リゼリアは声に出さず、ただ心の中で強く念じた。すると次の瞬間、セシリアの脳裏にリゼリアの優しく温かな声が直接響き渡る。
(リゼ姉様……! うん、わかってる。わたし、リゼ姉様と一緒ならどこだって平気だよ!)
セシリアもまた、心の中で元気いっぱいに声を返した。リゼリアが一族の中でも群を抜いた「精神干渉」の天才であり、念話や予知、透視能力を易々と操ることを、セシリアは誰よりも知っている。誕生直後にして伯母であるフレデリカとの念話に成功したというリゼリアの神童ぶりは、一族の伝説となってすらいた。
一方のセシリアが宿す能力は、リゼリアとは対極をなす「物理的破壊力」の特化型であった。物体を指一本触れずに動かす念動、空間を飛躍する瞬間移動、さらには熱と炎を自在に生み出すパイロキネシス。怒らせれば遥か遠方の標的すら容易く葬り去ることができる最凶の力だが、セシリアの素直で高い理性と、リゼリアへの絶対的な信頼によって、日頃は可愛い「お茶目ないたずら」程度に抑え込まれていた。
二人は言葉を介さずとも、互いの心と能力を通じ合わせることができる、『最上の親友であり、唯一無二の姉妹』のような従姉妹であった。
◇
船は黒海を滑るように進み、やがて視界が開けると、地平線の彼方に圧倒的な存在感を放つ巨城と大都市の姿が現れた。アルストラーナ帝国の首都、帝都ラーナである。白亜の城壁が何重にも市街を取り囲み、その中央には天を突くようにそびえ立つ帝国の象徴・皇宮が光り輝いていた。
「わあぁ……! すごいよリゼ姉様! お城が山みたいに大きいよ!」
船が港に着き、用意されていた豪奢な馬車に揺られながら、セシリアは窓枠に手をかけて目を輝かせた。帝都の喧騒、飛び交う人々の声、色鮮やかな露店――ルミナリアの穏やかな水郷とはまるで異なる活気に、九歳の少女らしい無邪気な好奇心が抑えきれない様子だ。
「ええ、本当に壮大ね。……けれどセシリア、ここからは少し気を引き締めなければいけないわ」
リゼリアは静かに目を細め、皇宮の巨大な朱塗りの城門を見上げながら囁いた。リゼリアの優れた予知と透視の力は、すでにこの広大な後宮に渦巻く様々な思惑や緊張感をうっすらと捉えていた。
現在の帝国後宮は、皇太后アデレードとその姪であるジュリエット皇后を中心に、第一皇子ヴァルハルトの母カタリナ、第三皇子イザークの母ビアンカ、第四皇子ロデリックの母ヘレナといった名門貴族出身の側室たちが複雑な勢力争いを繰り広げている。その中で、一風変わった存在感を放っているのが、彼女たちの伯母にあたるフレデリカ・リヴィエールであった。
馬車が皇宮の重厚な大城門をくぐり、静寂に包まれた広場に停車する。ステップが下ろされ、扉が開かれると、そこに一人の女性が立っていた。
「――ようこそ、帝都へ。よく来てくれましたね、リゼリア、セシリア」
そこに佇んでいたのは、側室の一人であり「婕妤」の位を持つフレデリカであった。かつて十三歳で古琴『水鏡』を抱えてセレスティアから上京し、教坊の女学から皇帝ヴィンセントの目に留まって『御前琴師』にまで上り詰めた女性である。絶世の美貌と、リヴィエール家特有の神秘的な雰囲気を漂わせた彼女は、二人の姪を温かい微笑みで迎え入れた。
「初めまして、フレデリカ伯母様……いいえ、婕妤様」
リゼリアは完璧な作法で一礼し、セシリアもそれに倣ってちょこんと頭を下げた。
「ふふ、ここでは私達だけの時は、伯母様と呼びなさい。さあ、長旅で疲れたでしょう。私の暮らす『翡翠宮』へ案内しますわ。……あの子も、あなたたちの到着を今か今かと待っているのですから」
◇
フレデリカに導かれ、二人は後宮の奥深くへと進んでいった。煌びやかだがどこか冷たい緊張感が漂う後宮の回廊を抜けると、やがて豊かな緑と清らかな水辺に囲まれた、落ち着いた佇まいの宮殿が見えてきた。それがフレデリカに与えられた「翡翠宮」であった。
庭園には珍しい花々が咲き誇り、風が吹くたびに美しい葉擦れの音が響く。他の側室たちの絢爛豪華な宮殿とは異なり、風雅で静謐な空気が満ちている。
「ここが今日からあなたたちの家であり、職場となる場所です。翡翠宮の侍女として、私と……そしてあの子を支えてちょうだいね」
フレデリカが翡翠宮の重厚な木扉を開けると、広々とした主室の窓辺に、一人の少年が立っていた。
絹のような艶やかな黒髪と、鋭くもどこか孤独を孕んだ深緑の瞳。十一歳とは思えぬ品格と気品を纏った少年――皇帝ヴィンセントとフレデリカの間に生まれた第五皇子、イリアードであった。
「母上、おかえりなさいませ。……その二人が、セレスティアから来たという侍女ですね」
イリアードは振り返り、まっすぐにリゼリアとセシリアを見つめた。その眼差しには、皇子としての矜持と、後宮という複雑な環境で育ったゆえの警戒心がわずかに滲んでいた。
「初めまして、イリアード殿下。本日より翡翠宮にお仕えいたします、リゼリア・リヴィエールにございます」
「セシリア・リヴィエールです! 殿下、よろしくお願いします!」
礼儀正しく優雅に挨拶するリゼリアと、元気いっぱいに笑顔を咲かせるセシリア。対照的な二人の少女の登場に、イリアードはほんの一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻して頷いた。
「うむ。リゼリア、セシリアと言ったな。……母上から聞いている。二人はリヴィエールの一族であり、特別な絆を持っていると。この翡翠宮は後宮の権力闘争からは一線を画しているが、それゆえに他宮からの嫌がらせや探りが絶えない場所だ。苦労をかけるかもしれないが、よろしく頼む」
年相応ならぬ落ち着いたイリアードの言葉に、リゼリアは優しく微笑んだ。
(……とても賢く、けれど少し心を閉ざしている殿下ね。でも大丈夫、心の根底にある温かさは隠せていないわ)
リゼリアは精神干渉の能力を攻撃的に使うことなく、ただイリアードの素朴な人柄を感じ取り、密かに安堵した。
(ねえリゼ姉様、あの殿下、なんだかカッコいいけど、ちょっと堅苦しいね! もうちょっと笑ったほうが可愛いのに!)
セシリアからの念話が飛んでくる。リゼリアはクスクスと笑いそうになるのを必死で堪えながら、(セシリア、殿下の前で失礼なことを考えてはダメよ)と心の中で優しく嗜めた。
◇
こうして、十歳のリゼリアと九歳のセシリアによる、翡翠宮での侍女生活が始まった。
侍女としての仕事は多岐にわたった。フレデリカの身の回りの世話、古琴の手入れ、宮殿内の清掃、そしてイリアード皇子の身の回りの手伝いである。二人はまだ幼かったが、リヴィエール家で仕込まれた完璧な作法と、それぞれの秘めたる能力(を隠しつつ応用すること)によって、驚くほどの要領の良さで仕事をこなしていった。
ある日の午後、翡翠宮の庭園にある東屋で、フレデリカが古琴『水鏡』を奏でていた。澄んだ美しい琴の音が庭園全体に響き渡り、まるで空間そのものが清められていくかのようだ。
「素晴らしい演奏です、伯母様。お琴の音色に、心が洗われるようです」
お茶を淹れ終えたリゼリアが、うっとりと耳を傾ける。フレデリカは琴から手を離すと、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、リゼリア。この古琴の響きも、私たち一族の力と深く結びついているのですよ。……ところで、セシリアはどこへ行きました?」
「あ……セシリアなら、イリアード殿下の読書のお供をしております」
その頃、宮殿の書庫では、イリアードが難解な帝国の歴史書を広げて勉強に励んでいた。そのすぐ隣で、セシリアはお気に入りの焼き菓子を頬張りながら、退屈そうに足をぶらぶらさせている。
「セシリア、お前は侍女だろう。私が勉強している間に菓子を食べていていいのか?」
イリアードが呆れたように息を吐くと、セシリアはニッコリと笑った。
「だって殿下、すっごく難しい顔して本読んでるんだもん。息が詰まっちゃうよ? はい、殿下も一口食べる?」
セシリアは手に持っていたサクサクのクッキーを、躊躇なくイリアードの口元へと差し出した。皇子に対してあまりにも無遠慮な行動だが、後宮の厳しい礼節に縛られてきたイリアードにとって、その無邪気さはむしろ新鮮で毒気が抜かれるものだった。
「……まったく、お前というやつは」
イリアードは困ったように眉をひそめつつも、差し出されたクッキーを控えめに口に含んだ。甘く香ばしいバターの香りが口いっぱいに広がり、思わず表情が綻ぶ。
「……美味しいな」
「でしょー! アルヴェリアから持ってきたお菓子なの! 殿下が笑うと、やっぱり一番カッコいいよ!」
無邪気に喜ぶセシリアの姿に、イリアードはふっと肩の力を抜いて微かに笑った。いつも冷徹で緊張感に満ちた後宮の中で、この翡翠宮だけがイリアードにとって唯一安らげる場所となりつつあった。
◇
しかし、後宮という場所は、平穏が長く続くことを許さない。
ある日、翡翠宮の回廊を歩いていたセシリアの前に、見知らぬ他の宮の侍女たちが立ちふさがった。彼女たちは第二皇子アラリックを擁するジュリエット皇后派、あるいは第一皇子ヴァルハルトの母カタリナ派の手先と思われる者たちだった。
「あら、あなたが翡翠宮に新しく入ったという小さな侍女ね? 田舎のアルヴェリアから来たとか」
「婕妤様も成り上がりなら、連れてくる侍女も田舎娘ですこと。第五皇子殿下に変な田舎風を吹き込まないでくださる?」
意地の悪い笑みを浮かべ、セシリアを取り囲む侍女たち。彼女たちはセシリアが手に持っていた、イリアードに届けるための大切な書類を横から取り上げようと手を伸ばした。
その瞬間――。
(……セシリア、落ち着いて。力を使ってはダメよ)
遠く離れた部屋から、リゼリアの強い念話がセシリアの頭の中に届いた。透視の力で異変を察知したリゼリアからの制止であった。
セシリアの青い瞳が一瞬だけ怪しく揺らめき、周囲の空気が一気に激変していた。セシリアの「パイロキネシス」と「念動」の力が目覚めかけ、目の前の侍女たちの衣服を今すぐ爆熱で燃やし尽くし、遥か彼方へ吹き飛ばそうとする直前だったのだ。
(……わかってる、リゼ姉様。我慢する……!)
セシリアは高い理性でぐっと怒りを抑え込むと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。力を使って破壊する代わりに、ごくごく微小な「念力」だけを指先から放つ。
「きゃっ!?」
「な、なに!? 足が……!?」
いじわるな侍女たちの履物の紐が、まるで生き物のように勝手に絡み合い、何も無いところで盛大にすっころんだ。書類はセシリアの手元へとふわりと滑り落ち、一切汚れることなく収まる。
「あらあら、お姉さんたち、足元に気をつけなきゃダメだよ? 転ぶと痛いもんね!」
セシリアは天使のような笑顔でそう言うと、コロコロと笑いながら彼女たちの横をすり抜けて走り去っていった。倒れ伏した侍女たちは、何が起きたのか理解できず呆然とするばかりだった。
翡翠宮に戻ったセシリアを、リゼリアがやれやれといった表情で迎えた。
「もう、セシリアたら。少しヒヤヒヤしたわよ。あんな風に念力を使って……」
「だって、殿下の大事な書類を奪われそうになったんだもん! ちょっと転ばせたくらい、可愛いお仕置きでしょ?」
セシリアがえへへ、と笑うと、部屋の奥からイリアードが歩み寄ってきた。二人の会話(の表面上の部分)を聞いていたイリアードは、真剣な表情でセシリアの頭にそっと手を置いた。
「セシリア、私のために危険な目に遭わせてすまなかった。……そして、守ってくれてありがとう」
「えっ……殿下……?」
不意に感謝され、頭を撫でられたセシリアは、パッと顔を赤くした。いつもはいじわるやお仕置きを連発する最凶の力を持つ少女も、これには照れくさそうにモジモジしてしまう。
「私も、もっと強くならねばな。母上と、お前たち二人を私が守れるくらいに」
十一歳の第五皇子・イリアードの瞳には、かつてない強い決意の光が宿っていた。権力闘争に興味を持たず静かに暮らしていた彼だったが、自らを慕い支えてくれる幼い侍女たちの存在が、彼の中に皇子としての強い自覚を生み出しつつあった。
その様子を温かく見守っていたフレデリカは、ふっと優しく微笑み、再び古琴の弦を爪弾いた。
帝都オクタヴィアの巨大な後宮の中、翡翠宮という小さな緑のオアシスで、異国の血と超常の力を秘めた少女たちと、孤独だった皇子の絆が今、静かに紡がれ始めていた。
遥か南東の大運河アルヴェリアから運ばれてきた風は、これから訪れるであろう数々の困難や嵐を乗り越え、この宮殿に新しい未来をもたらすことだろう。
リゼリアとセシリアは顔を見合わせ、深く頷き合った。二人の心は念話を介さずとも完璧に通じ合っている。どんな運命が待ち受けていようとも、二人はこの翡翠宮で、かけがえのない仲間たちと共に歩み続けていくのだから――。




