『秋の澄み渡る空に』
翡翠宮での静かな日常が始まってから半年が過ぎようとしていた。十歳のリゼリアと九歳のセシリアは、年相応の無邪気さを見せつつも、その卓越した作法と要領の良さで、いまや翡翠宮になくてはならない存在となっていた。十一歳となった第5皇子イリアードも、二人と過ごす時間が増えるにつれ、かつての張り詰めた警戒心を緩め、柔らかな笑みを浮かべることが多くなっていた。
しかし、オーレリア帝国の後宮は、平穏が長く留まることを許さない。帝都オクタヴィアの空が澄み渡る秋の佳節、皇太后アデレードの生誕を祝う盛大な清秋宴が催されることとなった。
清秋宴は、後宮に生きる側室たちにとって自らの存在感を示す最大の晴れ舞台である。皇帝ヴィンセントを囲み、第一皇子ヴァルハルトの母カタリナ、第二皇子アラリックの母ジュリエット皇后、第三皇子イザークの母ビアンカ、第四皇子ロデリックの母ヘレナといった高貴な側室たちが一堂に会する。そして、かつて「御前琴師」として皇帝の寵愛を射止めた婕妤フレデリカにも、宴の席で古琴の演奏を披露せよとの勅命が下ったのである。
「母上、くれぐれもお気をつけください。最近、第一皇子派や第二皇子派の動きが慌ただしくなっております」
翡翠宮の控室で、イリアードは装束を整える母フレデリカに向けて静かに懸念を口にした。幼いながらも後宮の権力闘争の不気味さを察知しているイリアードの表情は真剣そのものであった。
「心配はいりませんよ、イリアード。私はただ、古琴『水鏡』の音色を捧げるだけ。権力争いに興味などないことは、皇太后様も皇后様もご存知ですから」
フレデリカは穏やかに微笑み、愛用する古琴『水鏡』に優しく手を置いた。しかし、その背後で静かに控えていたリゼリアの瞳には、微かに鋭い光が宿っていた。
(……いいえ、伯母様。相手はそうは考えていませんわ)
リゼリアは自身の得意とする透視と予知の能力を密かに集中させていた。後宮の回廊を交錯する悪意の視線、他宮の侍女たちが交わす囁き声。それらが精神干渉の網の目に引っかかってくる。特に、第一皇子ヴァルハルトを擁するカタリナ側室の陣営から、不穏な「害意」の波動が立ち上っているのを、リゼリアの鋭敏な知覚は見逃さなかった。
(リゼ姉様、なんかあっちの方から嫌〜な匂いがするよ。焦げた油みたいな、どろどろした気持ち)
隣に立つセシリアから念話が届く。感性が鋭いセシリアもまた、直感的に危険を察知していた。
(ええ、セシリア。今回の宴、ただでは済まないみたい。伯母様とイリアード殿下を絶対に守り抜きましょう)
(うん! もし変な奴が伯母様たちにいじわるしたら、お尻に火をつけて吹き飛ばしちゃうからね!)
(それはダメよ、目立ちすぎるわ。もっとスマートに解決するの)
心の中で秘密のやり取りを交わしながら、二人はフレデリカの従者として、絢爛豪華な大宴会殿へと足を踏み入れた。
◇
大宴会殿は、金銀の装飾と煌びやかな絹織物で彩られ、圧倒されるような華やかさに包まれていた。上座には皇帝ヴィンセントと皇太后アデレードが鎮座し、その左右に皇后ジュリエットをはじめとする側室たちと皇子たちが着席している。
宴がたけなわとなり、いよいよフレデリカの演奏の刻が訪れた。翡翠の絹衣を纏ったフレデリカがしとやかに中央へ進み出ると、満場から感嘆の溜息が漏れた。元御前琴師としての美貌と風格は、今なお衰えるどころか、深みを増している。
フレデリカが古琴『水鏡』を机の上に据え、細い指先を弦に掛けようとしたその時――。
(……見つけたわ)
リゼリアの瞳がわずかに見開かれた。透視の力が『水鏡』の内部、そして琴の弦の根元に仕掛けられた恐ろしい細工を捉えたのだ。琴の弦には特殊な腐蝕薬が薄く塗られており、演奏の強い摩擦と熱によって弦が切れ、演奏者の顔や目を弾くように仕込まれていた。さらに、琴の胴内部には、特定の音波の振動によって微小な毒粉が散布される小さなからくりが仕込まれていたのである。
「この曲は、皇太后様の長寿と帝国の泰平を祈念して作られたものにございます」
フレデリカが何事も知らずに挨拶を述べ、琴に手を置く。会場の視線が一心に注がれる中、カタリナ側室とその侍女たちが、扇の陰で冷ややかな笑みを浮かべているのをリゼリアは見逃さなかった。
演奏が始まれば、琴の弦が弾け飛び、御前での演奏を台無しにするばかりか、フレデリカは重傷を負い、「不吉な事態を引き起こした」として罰せられるだろう。それこそが、フレデリカと第5皇子イリアードの勢力を削ごうとするカタリナ派の陰謀であった。
(セシリア、聞こえる? 琴の弦と胴の中に細工があるわ。演奏が始まった瞬間に、あなたの力で無効化して)
(任せてリゼ姉様! どんな細工?)
(弦の腐蝕薬を微小な温度操作で焼き蒸発させて。それから胴の中のからくりを念動で固定するの。絶対に音を出させちゃダメよ)
(了解〜! 楽勝だよ!)
フレデリカの爪が第一音を弾いた。清らかな、水滴が落ちるような澄んだ音色が殿内に響き渡る。
その瞬間、カタリナ側室の顔に「かかった」と言わんばかりの笑みが浮かんだ――はずだった。
しかし、一曲目が激しさを増し、爪が弦を激しく掻き鳴らしても、弦が切れる気配は一切なかった。セシリアが指先一つ動かさず、完璧な熱制御パイロキネシスによって腐蝕薬だけを瞬時に分子レベルで熱分解し、同時に琴内部の機械仕掛けを頑丈な力(念動)で固着させていたからである。
それどころか、リゼリアの精神干渉の力がひそかに働きかけていた。フレデリカの奏でる音色に乗せて、清らかな精神波動を殿内全体に拡散させたのだ。その波動は、聴く者の心を穏やかにし、日頃の嫉妬や悪意を洗い流すかのような不思議な心地よさをもたらした。
「ほぅ……素晴らしい。まさに清流の如き音色ではないか」
皇帝ヴィンセントが感じ入ったように呟き、皇太后アデレードも満足げに目を細めて頷いた。
「まさに『御前琴師』の面目躍如。心が洗われる思いですね」
思わぬ大絶賛に、企みが失敗したことを悟ったカタリナ側室は、顔を真っ青にして扇を握りしめた。
◇
演奏は完璧な成功のうちに終わり、フレデリカとイリアードには皇帝から与えられた褒美が下賜された。しかし、リゼリアとセシリアの仕事はこれで終わりではなかった。
「罠を仕掛けた奴らを、このまま野放しにはできないよね、リゼ姉様?」
宴が終わり、翡翠宮への帰り道。控室の影で、セシリアがプンプンと頬を膨らませて念話を送ってきた。
「ええ、もちろんよ。けれど、表立って告発しても、土豪出身の私たちの言葉など聞き入れられないわ。……だから、敵の自滅を誘うの」
リゼリアの瞳に、知的な企みの光が宿る。
その夜遅く、カタリナ側室の宮殿である「紅鳳宮」の密室にて。カタリナは企みを失敗させた下男と工作員の侍女を集め、激しい怒りをぶつけていた。
「愚か者め! 弦は切れず、毒粉も出なかったではないか! 一体どういうことだ!」
「ひ、申し訳ございません! 確かに細工は施しました! なぜ動かなかったのか、私共にも……!」
恐れ戦く工作員たち。その時、密室のろうそくの炎が不自然に揺らめいた。
『……カタリナ様……なぜ私を裏切ったのですか……』
部屋の中に、ぬめりつくような薄気味悪い声が響き渡った。それは、かつてカタリナが権力闘争の末に後宮から追放した別の側室の声であった。
「な、何だ!? 誰だ!?」
カタリナが悲鳴を上げる。当然、これは幽霊などではない。遠く翡翠宮の自室に居ながらにして、リゼリアが「念聴」と「念話」を応用して相手の脳裏に直接幻聴を送り込み、同時にセシリアが「瞬間移動」で部屋の隅に小さな音の響きを発生させていたのだ。
さらに、セシリアの微小な「発火能力」によって、ろうそくの炎が青く変わり、部屋の中の書類が勝手に宙に舞い上がった。
「ひぃぃぃっ! 祟りだ! 祟りですカタリナ様!」
「だ、黙れ! 誰か、誰かおらぬか!」
恐怖で錯乱した下男は、自分が抱えていた「細工の予備」や「毒薬の瓶」、さらにはカタリナからの指示書が記された密書を抱えて部屋から飛び出してしまった。そして、運悪く(いや、リゼリアの予知通りに)夜間巡回中だった皇宮の警備兵と、皇帝直属の監察官の目の前に転がり出たのである。
「なにごとだ! これは……毒薬と、後宮の工作指示書!?」
監察官が証拠品を取り上げ、すぐさま紅鳳宮へと踏み込んだ。部屋の中では、錯乱したカタリナ側室が「フレデリカを陥れようとしただけだ!」と叫びながら暴れており、陰謀は言い逃れのできぬ形で白日の下に晒されたのだった。
◇
翌朝、後宮は激震に見舞われた。
第一皇子ヴァルハルトの母であるカタリナ側室が、他宮への不法な工作と毒物の持ち込みの罪で捕らえられ、冷宮への幽閉が決まったのである。第一皇子の勢力は大打撃を受け、後宮の勢力図は大きく塗り替えられることとなった。
だが、真相を知る者はごくわずかであった。皇帝ヴィンセントは、事件の背景に「何か不思議な力」が働いていたことを感じつつも、証拠が完璧に揃っていたため、粛々と処分を下した。
翡翠宮の陽の当たる庭園で、イリアードはリゼリアとセシリアを呼び寄せた。
「リゼリア、セシリア。……昨夜の騒ぎ、お前たちが何か関わっているのではないか?」
深緑の瞳で二人をじっと見つめるイリアード。十一歳の少年皇子の洞察力は、極めて鋭かった。琴の異常が無かったこと、そして敵が自滅するように事件が発覚したこと。その裏に、この神秘的な雰囲気を持つ幼い侍女たちの存在を感じ取っていたのだ。
リゼリアは静かに微笑み、優雅に首を振った。
「いいえ、イリアード殿下。私たちはただ、伯母様とお命を守りたいと祈っていただけにございます。悪しき企みは、自らの重みで潰れたのでしょう」
その完璧な回答に、イリアードは一瞬呆然としたが、やがてふっと口元を緩めた。
「ふ……そうか。お前たちがそう言うのなら、そういうことにしておこう。……だが、感謝している。お前たちが来てから、この翡翠宮は不思議と温かく、そして守られている気がするのだ」
イリアードはそう言うと、セシリアの髪を優しく撫で、リゼリアにも温かな視線を向けた。
「えへへ、殿下に褒められちゃった! リゼ姉様、やっぱり殿下ってカッコいいよね!」
セシリアが嬉しそうに照れ笑いを浮かべ、心の中で念話を飛ばす。リゼリアも、(ええ、本当に頼もしい殿下になられていくわね)と優しく返した。
◇
事件が収束し、翡翠宮には再び穏やかな時間が戻ってきた。
東屋では、フレデリカが感謝を込めて古琴『水鏡』を奏でている。その音色は、清らかな秋風に乗って宮殿全体を包み込んでいた。
「リゼリア、セシリア。二人とも、本当にありがとう」
演奏を終えたフレデリカが、二人だけになった時にそそっと声をかけた。伯母である彼女には、二人がその強大な超常の力を使って自分とイリアードを守ってくれたことが分かっていたのだ。
「一族の秘められた力……本来なら公にしてはならないタブーの力ですが、あなたたちはそれを尊い『守るための絆』として使ってくれました。二人を呼び寄せて、本当に良かった」
「伯母様、私たちはお互いに最上の親友であり、唯一無二の姉妹です。そして今や、この翡翠宮も私たちの大切な居場所なのですから」
リゼリアが誇らしげに胸を張ると、セシリアも元気に頷いた。
「そうだよ! わたし、この力でいじわるな奴らをやっつけるのは得意だもん! でも一番大切なのは、みんなで笑ってお菓子を食べることだけどね!」
セシリアの言葉に、フレデリカもリゼリアも、そしていつの間にか東屋の陰で話を聞いていたイリアードも、皆一斉に声を上げて笑った。
帝都オクタヴィアの巨大で冷徹な後宮の中で、翡翠宮だけは温かな光と強い絆で満たされていた。アルヴェリアの大運河から風に乗ってやってきた二人の少女、リゼリアとセシリア。彼女たちの秘められた力と無垢な心が、暗雲立ち込める帝国の後宮に、確かな希望の光を灯し続けている。
これから先、皇位継承を巡る更なる嵐や、後宮の陰謀が彼女たちを襲うかもしれない。しかし、互いを深く信頼し、能力を通じ合わせる二人の絆がある限り、どんな困難も乗り越えていけるだろう。
秋の澄み渡る空の下、翡翠宮には今日も優美な琴の音と、子供たちの弾んだ笑い声が心地よく響き渡るのであった。




