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『水鏡の弦が奏でる約束』

帝都ラーナの北東にそびえる大城壁。後宮の奥にある『翡翠宮』。


庭には樹齢数百年の白木蓮の古木が立ち、初夏の風が渡るたび、青く固い葉がさわさわと音を立てる。かつて先帝の御代には宴の席として賑わった場所だったが、居館の女主人が古琴奏者であった事もあり、静かで趣きのある館を与えられている。


その三階の窓辺に、女主人が座っていた。


名はフレデリカ。側室、婕妤の位を持つ女性である。弱冠13歳で後宮に入り、今や二十一歳。豪奢な絹の衣を纏り。胸元を飾る翡翠のペンダントの輝きは、夫からの寵愛の程がよくわかる。


彼女の美貌が圧倒的に見えるのは、先祖に「異国の漂流民」の血を引いている伝説があると聞けば、


誰もが無条件に納得してしまう事だろう。


一族には独特の雰囲気を纏った美貌の持ち主が数多く生まれてくるのは事実であった。


しかし、彼らが秘めている真の謎はそれだけではない。一族の根幹に関わる「もう一つの秘密」が存在するが、それについて語ることは、一族の者たちの間では暗黙のタブー(公然の秘密)となっている。 


フレデリカの持つ、宮中の誰も知らない秘められた資質。それは未来予知と念話であった。


彼女は、人の心の声を感知し、どれほど離れた場所であっても、血の繋がりのある者、あるいは魂の波調が深く重なる者の声を天の気流に乗せて聴き、また届けることができるのだった。


だが、陰謀が渦巻く後宮という閉ざされた世界において、その力を顕わにすることは死を意味する。フレデリカは長年、その口を閉ざし、心に鍵をかけて生きてきた。


しかし、今日は違っていた。


初夏の午後。陽炎が帝都ラーナの大通りを揺らす。


フレデリカは朱塗りの手すりに身を乗りだし、北東の空を見つめていた。視線の先にあるのは、帝都からおよそ九百五十キロ。美しい森の輝く湖の地、セレスティアであった。


そこには、一族もそうだが、フレデリカの唯一の妹、シエラが暮らしている。そして今日が彼女の出産予定日だった。


フレデリカはそっと目をとじ、深呼吸をした。胸の奥で、小さく火を点すように意識を集中させる。


帝都の喧騒が消えていく。馬車が石畳を叩く音、太監たちの低い囁き声、庭の池で跳ねる魚の水音。それらすべての日常の雑音が遠ざかり、代わりに無音の世界が広がった。


そして、フレデリカは意識を天へと解き放った。


彼女の精神は、帝都ラーナの聳え立つ城壁を越え、山脈の裾野を縫うように走る大河の流れに沿って、北東と飛翔する。風の匂いが変わる。宮中の濃密な香の匂いから、クリスタリア湖と豊かな森林の香へ。


(シエラ……無事なの……?)


心の中で問いかける。すると、九百五十キロの距離を超えて、かすかな、しかし確かな波動が返ってきた。


それは、激しい痛みに耐えながらも、生命の喜びに満ちた鮮やかな茜色の「声」だった。


『……あ……姉様……!』


脳裏に直接響く妹の息遣い。嫁ぎ先の家で、汗に濡れた髪を額に貼り付けながらも、愛おしそうに腕の中を見つめるシエラの姿が、鮮明な情景としてフレデリカの胸に飛び込んできた。


『生まれたの……無事に生まれたわ……! 可愛らしい……女の子よ……』


シエラの声は酷く体力を消耗して震えていたが、産婆の手によって無事に介抱され、母子ともに健やかであることを知り、フレデリカは胸を撫で下ろした。涙が零れ落ち、朱塗りの手すりに滲みをつくる。


(よかった……本当に、よく頑張ったわね、シエラ……)


フレデリカが心から祝福を贈った、その時だった。


安らぎの茜色で満たされていた空間に、真新しく、恐ろしいほどに純粋な「音」が立ち上がった。


——おぎゃあ、おぎゃあ。


それは、生まれたての赤ん坊の泣き声だった。


しかし、フレデリカの耳に届いたのは、単なる物理的な赤ん坊の鳴き声ではなかった。それは、生まれたての命が放つ、透きとおった黄金色の光の束であり、言語になる前の、魂の叫びだった。


九百五十キロの距離を隔てて、フレデリカの意識は、その生まれたての赤ん坊の意識と直結した。


赤ん坊の視点から世界が見える。


寒くて、眩しくて、恐ろしい世界。母の温かい胎内から急に押し出され、冷たい空気に晒された皮膚の違和感。赤ん坊はあまりの環境の変化に戸惑い、圧倒的な不安から小さな胸を波打たせて泣いていたのだ。


(怖がらないで……!)


フレデリカは、魂の限りを尽くして語りかけた。自分の意識の糸を柔らかく紡ぎ直し、帝都ラーナの宮殿から小さな町へ優しく伸ばしていく。


(聞こえる? 私はここにいるわ。あなたの伯母よ。大丈夫、恐れることは何もないの)


すると、不思議なことが起きた。


赤ん坊の激しい泣き声が、ふっと止んだのだ。


赤ん坊の精神の世界で、フレデリカの言葉は音ではなく、「包み込むような温かい光」として認識されていた。


『……あ……?』


赤ん坊から、未分化の意思が返ってきた。言葉にはならない、けれど明確な問いかけ。


『だれ……? まわり、まぶしい……ふあん……』


フレデリカは、思考の像を赤ん坊の心に送り込んだ。


満開の白木蓮の花びら。春のやわらかな陽射し。清らかな水の流れ。そして、すぐ隣で自分を抱きしめている母・シエラの温かいぬくもりと深い愛。言葉を超えたイメージが、九百五十キロの空間を優しく駆け抜ける。


(見てごらん。世界はこんなに美しいのよ。あなたを心から愛しているお母様が、すぐそばで抱きしめてくれているでしょう? あなたは愛されて生まれてきたのよ)


赤ん坊の心が、フレデリカの送るイメージに触れて、柔らかく解けていった。


『きれい……』


言葉を知らないはずの赤ん坊の魂が、フレデリカの感情をそのまま翻訳して受け取っていた。先ほどまでの不安な黄金色の波動が、まろやかで穏やかな光へと変わっていく。


『あたたかい……お母さん……おばさま……?』


(そうよ。お母様と、私よ。ずっとあなたを見守っているわ)


フレデリカは深く固く、赤ん坊の魂を撫でるように意識を集中させた。


(あなたのお名前を呼びましょうね。シエラと私で決めていた名前……『リゼリア』。泥の中から芽を出し、気高く美しく咲く白い花のように、どんな世界にあっても清らかで誇り高く咲くようにと願った名よ)


『りぜ……りあ……?』


赤ん坊の心が、その響きを味わうように反芻した。


『わたし……りぜりあ……おばさま、どこにいるの……?』


言葉を介さぬまま、距離という概念すら超えて心を通わせる二人。百四十キロ離れた納屋では、疲れ果てたシエラが、急に大人しくなった我が子を不思議そうに見つめていた。


赤ん坊はシエラの腕の中で安心しきった顔をし、じっと空くうを見つめながら、まるで北西の空にいる誰かに微笑みかけるように小さな唇を動かしていた。


(私はね、遠い帝都オクタヴィアという街にいるの。でも、心はいつもあなたのすぐそばにいるわ)


『うん……おばさま……あいにきてね……』


(ええ、約束するわ。いつか必ず、あなたとお母様を抱きしめに行くからね)


リゼリアの波動が、しだいに満足気な、微睡むような色に変わっていった。生まれたばかりの体に猛烈な眠気が襲ってきたのだ。


『おやすみ……おばさま……』


(お休みなさい、愛しいリゼリア。すくすくと大きくなりなさいね)


最後のかすかな波動が途絶え、リゼリアは母の胸の中で深い眠りについた。


フレデリカは静かに意識の糸を引いた。


飛翔していた精神が、急激な速度で帝都オクタヴィアの翡翠宮へと引き戻される。


「……ふぅ……っ」


激しい脱力感がフレデリカを襲った。全身から汗が滲み、息が上がる。だが、その胸を満たしていたのは、かつてないほどの幸福感だった。


「お妃様! お顔色が……! 大丈夫ですか!?」


異変に気づいた侍女のサラが、慌てて部屋に駆け込んできた。


「大丈夫よ、サラ。ただ、とても嬉しいことがあったの」


フレデリカは荒い息を整えながら、窓の外の夕暮れの空を見つめた。百四十キロ先で、妹が命を繋ぎ、新しい小さな命が芽吹いた。妹が無事でいてくれたこと、そして遠く離れた赤ん坊と魂を重ね合わせることができた奇跡に、胸が熱くなる。


(待っていてね、シエラ、リゼリア。いつか必ず、この手で二人を抱きしめに行くわ)


風が吹き抜け、庭の白木蓮の葉を大きく揺らした。そのさわやかな音はまるで、遠い村から届いた、妹と赤ん坊の安らかな息遣いのようにも聞こえた。


帝都オクタヴィアの夜が、静かに始まろうとしていた。フレデリカは、愛する古琴『水鏡』の弦に触れ、感情のままに旋律を追いかけた。

主要な登場人物(翡翠宮・リヴィエール家の人々)




フレデリカ・リヴィエール


オーレリア帝国の皇帝ヴィンセントの側室(婕妤の位)。


かつては「御前琴師」として皇帝の寵愛を受けた古琴の名手。


リヴィエール家の一族として「未来予知」と「念話」の超常能力を秘めている。


姪であるリゼリアとセシリアを弟子名目で後宮に呼び寄せ、温かく見守る。




リゼリア・リヴィエール


フレデリカの姪で、十歳の少女。


一族の中でも群を抜いた「精神干渉」の天才であり、念話、予知、透視能力を操る。


伯母から託された二十五弦の「箏」を、自身の能力と心を込めて見事に弾きこなす。


第五皇子イリアードに対し、密かに甘く切ない感情を抱き始めている。




セシリア・リヴィエール


リゼリアの従妹で、九歳の少女。


天真爛漫な性格で、物体の念動、瞬間移動、熱と炎を生み出す「パイロキネシス(発火能力)」といった物理的破壊力の特化型能力を持つ。


フレデリカから七弦の「古琴」を授かり、その才能を開花させる。




イリアード


皇帝ヴィンセントとフレデリカの間に生まれた第五皇子(十一歳)。


黒髪と深緑の瞳を持ち、品格と鋭い洞察力を備えている。


翡翠宮でリゼリアやセシリアと過ごすうちに警戒心を緩め、二人を皇子として守る強い自覚を持つようになる。




シエラ


フレデリカの唯一の妹で、大運河の街アルヴェリアで暮らす。


物語の冒頭で娘のちのリゼリアを出産する。




サラ


翡翠宮でフレデリカに仕える侍女。


その他の登場人物(宮廷・後宮の人々)




ヴィンセント


オーレリア帝国の現皇帝。


フレデリカやリゼリアたちの合奏を偶然耳にし、その素晴らしい演奏を絶賛する。


アナ・カルラ


フレデリカの古い親友であり、後宮の教坊の最高責任者(教坊掌楽使)。


西方の秘術を帯びた「胡琵琶」の第一人者であり、天才奏者。




カタリナ


第一皇子ヴァルハルトの母である側室。


フレデリカとイリアードの勢力を削ぐため、清秋宴でフレデリカの琴に罠を仕掛けたが、リゼリアたちの能力によって陰謀が暴かれ、冷宮に幽閉される。




アデレード


帝国の皇太后。秋に彼女の生誕を祝う「清秋宴」が催された。




ジュリエット


皇太后アデレードの姪であり、現皇后。第二皇子アラリックを擁する。




ビアンカ


第三皇子イザークの母である側室。




ヘレナ


第四皇子ロデリックの母である側室。


ヴァルハルト / アラリック / イザーク / ロデリック


それぞれ後宮の権力闘争に絡む、第一から第四までの皇子たち。



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