第3話 お忍び
くすんだ緑、茶色、そして空の青。何キロも、何キロも。色という色は排除されていた。枯れた雑草も、黄ばんだ芝すらも。春にハカランダの木が作る紫のアーチが恋しかった。
メキシコのものだと思っていたら、先生に南米原産だと言われた。
チャベラ・バルガスが言ったとおりだ。メキシコ人は、生まれたいところで勝手に生まれやがる。ハカランダも同じこと。
カルダックまでの道中、色と呼べるものには一度しか出会わなかった。残念ながら赤ではなく、青。それでも、見た瞬間に心が落ち着いた。青みがかった花の群れだった。熟練の作業員たちが機械のように、一列、また一列と、視界から色を刈り取っていく。
ナク族だ。だが妙なことに、こいつらは一回り大きく、がっしりしている。見たことのないタイプだった。
「あのナク、やけにでかくない?」アレックは何気なくユルに言った。
ユルは道から目を離し、彼を見た。映画で俳優がこれをやるたびに嫌いだった理由を思い出した。ユルと馬と自分が茶色い谷底へ落ちていく光景が浮かぶ。まあ、着地すればしばらく洗い流せない大きな赤いシミくらいはできるだろう。
「旦那様、あれはナクではありません」
「いや、そっくりだけど」
ユルは口を開き、それから眉をひそめ、首を横に振った。
「それをナクに言ってはなりません。彼らにとって重大な侮辱です」
「へえ? なんで? っていうかそれより、前を見てくれないか。事故はごめんだよ」
前を見ろと頼んだ瞬間、彼女がかすかに笑った気がした。
だがユルは彼を見つめたままだった。
「横目で完璧に見えておりますので、ご心配なく。速度も出ておりませんし、運転中に旦那様を見てはいけないという法律もございません」そう言って息を吸い、挑むように彼の目をまっすぐ見た。
ほう。これは新しい。
「あちらに見えるのはマク族です」
名前からしてそっくりなんだが。
「で、そのマクは、なんでナクにあんなに似てるんだ?」
「旦那様……」
この間ずっと、彼女は一度も前を見ていない。
「わかったわかった。マク族について教えてくれ。ナク族とは疑いようもなく、完全かつ絶対的に別の種族であるところのマク族について」
「それでよろしいのです」ユルは頷き、ようやく前を向いた。
「マク族は世界の西方の出身です。あちらの住民で、体格が大きく、はるかに頑丈で、手作業に長けており、その几帳面さはナク族と同等です」
「今、ナクとマクが似てるって言わなかった?」アレックの口元に薄笑いが浮かんだ。
「働き方だけです。それ以外は完全に別物です」
「長い耳は?」
「その点は、似ていると言えなくもありません」
「肌の色は? 灰色から茶色までの」
「それも似ている点のひとつです」
「あと、両方とも眉毛以外は無毛だよな? 俺の知る限り」
「それこそが相違点でございます。ナク族は胸と脚に毛が生えますが、マク族は胸だけです」
「なるほど、たしかに。完全に別の種族だ」アレックは大げさに言った。
「結構です、旦那様。はっきりしてよかったですね」
日が暮れ始めていた。
「夜も走るのか?」
ユルは息を止め、前を見た。幽霊でも見たような顔だった。
「まさか、とんでもございません。思い出させていただき感謝します。馬車での夜間移動は違法です」
「歩きなら合法?」
「はい」
「馬は?」
「合法です」
「なんで馬車だけ違うんだ?」
ユルはしばらく考え込んだ。
「わかりません。馬車の機動性の問題かと。馬や人は咄嗟に避けられますし、夜間は制限速度も変わりますから。……興味深いですね。なぜあの法が作られたのか、考えたこともありませんでした」馬車を空き地の方へ寄せながら、彼女は黙って虚空を見つめた。
馬車が停まった。アレックが降りようとすると、彼女に止められた。
「なりません。旦那様のための野営がまだ整っておりません」
アレックはしぶしぶ座席に残った。が、暇つぶしになるものを持っていたことを思い出した。
迷わず手袋を掴み、はめた。
「旦那様? お聞き入れいただき感謝します。その種はポケットにしまったままに」
「はいはい、食べたりしないって。きれいだけどな」
「その通りです。残りの種も回収せねばなりません」
「大半は回収するさ、心配するな」
「大半、とは? では何のための旅ですか。混沌の種を探す旅だと理解しておりましたが」
「お前、俺の考えてることしか聞こえないんじゃなかったのか」
「いいえ。お話しできるのが旦那様だけ、というだけで、周囲のことは非常によく見えております」
「どのくらい?」
「そうですね、たとえば――マク族とナク族は、実際には血縁関係にあります」
「マジで!?」
「その口調は結構です、旦那様」
ほう、こいつは皮肉がわかるのか。
「わかりますとも」
「くそ、心が読めるんだった」
「重ねて申し上げますが、これを『心』と呼べるのかどうか。奇妙な形の部屋だらけで、そこら中が赤。あらゆる角度から撮られた赤毛の娘の写真。料理のレシピと食材の写真で埋まったノート。そして一番奥に、完璧に整頓された学校の勉強のメモの山」
「ミシェルを眺める角度は多ければ多いほどいい。見ての通り、愛してるんでね」
手袋は黙り込んだ。何と言えばいいのかわからず、じっとこちらを見ている気配がした。
「――で、話の続きは」アレックは手袋に言った。
「ええ、ナクとマクの件です。実は同じ種族なのですが、数百年かけて労働を分担するうちに、二つの専門化した種族に分かれたのです。片方はホワイトカラー、もう片方はブルーカラーの仕事に」
「この世界でも襟の色で仕事を分けるのか?」
「いいえ、それは旦那様の頭から拝借しました。こちらでは色は階級と職種の区別にのみ使います」
「というと?」
「赤が旦那様専用、コバルトブルーが個人付き補佐官と上級行政職、というのはすでにご存じかと」
「ああ、それは知ってる」
アレックは袋に手を入れ、干し肉を取り出した。ついでに手袋をはめた手で掴み、ライムをかけて食べ始めた。
「旦那様、魔法を使うのに、対象を私で触れる必要はございません」
「それは良い情報だ」
「色の続きです。一般市民は灰色、黒、カーキ。淡い黄色は高級軍人、緑は下級軍人、そして水色が下級行政職です」
「町の連中はもっとカラフルな格好をしてるんだろうな」
「それは忌まわしき行いです。色を身につけた者は矯正キャンプ送り。着る以外のことをすれば、死罪すらありえます」
「着る以外って、絵を描くとか?」
「冒涜ッ!!」
「ここに芸術がないのは見ればわかるけど、理由がよくわからない」
「芸術は混沌です、旦那様。行政の対極にあるものです」
「愉快だな」
「その通り、おぞましい」
「そういえば、お前の名前は?」
「悲しいことに、法の隙間に落ちておりまして。旦那様が厳密にはウル様ではない以上、私の正体を明かすことができないのです」
「わかった。じゃあ何か呼び名をつける。マノロ。それがお前の名前だ」
「身に余る光栄です、旦那様」マノロは言った。
アレックは地平線を眺め、ウルの帝国がどこまで続くのかを想像した。
「幸いにも、未開の民すべてに文化と秩序がもたらされた。征服王ウルの偉業だ」
話しながら、アレックはマノロで無造作に鼻をかいた。
「旦那様、それはいささか屈辱的です」
「たしかに。すまん」
そして前触れもなく手袋を外し、馬車を降りた。
裏手に回ると、マノロと話していたわずかな間に、ユルは王にふさわしい天幕を設営し終えていた。まあ、実際アレックは王なのだが。
天幕にはテーブルと椅子が二脚、小さな書き物机――ナク族にとって机は常に不可欠らしい――そして当然のようにクイーンサイズのベッド。すべて、おなじみの灰色で。
アレックは自分の部屋を思い出した。アニメとゲームのポスター。オレンジと紫の壁。死者の日が一番好きな祭りだったから。
ユルが茶を淹れていた。パジャマ姿は彼女に味方していなかった。体の曲線が消えてしまう。だが薄い生地は、逆光になると、アレックが自分に許せる以上のものを見せていた。
そして不意に気づいた。今夜、彼女と同じ部屋で眠るのだ。
アレックは腰を下ろした。ユルは茶を注ぎ、向かいに座った。
「旦那様、お召し物をどうにかしなくてはなりません」ユルはテーブルに身を乗り出しながら言った。アレックは、もう少しよく見えるように背筋を少しだけ伸ばした。
「それに、お忍びを続けるなら『旦那様』とお呼びするわけにもまいりません。かといって『ウル』はもっとまずい。ご存じの通り、この国であなたの名を知らぬ者はおりませんから」
アレックはさりげなく見ようとしていた。失敗しているのはわかっていた。紳士であれ。アビの声が頭に響く。
アレックはしばし考え、ユルに何を聞かれたのかを組み立て直し、唇を動かして質問を復唱までしてから、彼にとっては自明のことを言った。
「アレックって呼べよ」
ユルは少し考えた。
「かしこまりました、旦那さ……アレック。それから、色の問題があります。赤を愛しておられるのは存じていますが、あれはあなた専用の色。……ごめんなさい、『あなた』と呼ぶのに慣れなくて」
「気にするな、ユル。で、赤はちょっとも使えないのか?」赤を手放すのが怖かった。
「はい。発覚すれば重罪ですし、罰されない者がいれば、民は何かがおかしいと気づきます」
アレックは深いため息をつき、風に舞う赤い巻き毛が自分から遠ざかっていくのを想像した。茶を一口。うまい。ユルを見て、微笑み、もう一口。彼女は首をかしげてこちらをまっすぐ見ていた。パジャマの肩紐が、腕を滑り落ち始めた。
「わかった。で、俺は何色を?」
ユルは肩紐を直さない。胸元が少しずつあらわになっていく。
「コバルトブルーです。私の髪と同じ色。征服王ウル直属の調査官、という触れ込みでまいります」
アレックは息を吸い、壁の方を向いて立ち上がった。今この瞬間、ユルにズボンを見られるわけにはいかなかった。
「よし、見せてくれ」服の場所を知らないふりをして言った。
ユルは彼を更衣スペースへ案内した。三着の服が用意されていた。
一着は肩章に青い縁取りの入った軍服風だった。
不意に、二つの手が赤い上着を脱がせにかかった。
ユルの手が体に触れるたび、ズボンの中の事態は悪化する一方だった。
彼女は仕事をしているだけだ。
幸い、着替えにズボンを脱ぐ必要はなかった。だが下に着ていた黒いシャツは替える必要があった。軍用ベストの下は白いシャツと決まっているらしい。
ユルはゆっくりとシャツを脱がせながら、彼の目を見ていた。彼より背が低いぶん、アレックからは彼女の視線と胸元が同時に見えた。肩紐はまだ直っていない。
アレックはそれに気づくと、鏡の方を向いて視線を逃がした。天幕の中の明かりがユルの服を透かし、逆光にシルエットが浮かんだ。
汗が出てきた。
「ここ、暑いな」体で入り口を塞ぎ、光を遮りながら言った。そして思い出した。ユルの職務のひとつは、夜の相手を務めることだった。その義務からは解放したはずだ。だが、彼女は今もどこかで、役目を全部果たそうとしているのだろうか。
義務感で一緒にいる相手と、初めてを済ませたくはなかった。
軍服の上着を着終え、鏡を見た。
思った通り、似合わない。
甘い香りが届いた。ユルも汗をかいていることに、ふと気づいた。
アレックは鼻をつまみ、そっぽを向いた。
自分で上着を脱ぎ始めた。そして、一番気に入った一着に手を伸ばした。
それを見たユルがシャツを脱がせにかかり、その手が肌を這った。ぞくりとした。もう明らかだ。彼女は誘惑している。アレックは、彼女が望んでもいないことをする前に、救ってやるのだ。
彼女をそっと脇へどかし、新しい服に袖を通した。
悪くない。コバルトブルーの革のジャケットに、元から穿いていた黒いシャツとズボン。
青は似合っていた。この色は、どうやら彼の顔立ちに何かをするらしい。
「どれもいい選択だと思うぞ、ユル」アレックはパジャマに着替えた。またユルが手伝おうとしたが、今度は断った。「ところで、なんであんな速さでベッドを組めたんだ?」
「こういう状況のために作られたベッドなのです。家具もすべて。難しかったのはマットレスで、折り畳んでも傷まないものを発明する必要がありました」
アレックはポケットと袖に青い刺繍の入った黒いパジャマ姿で出てきた。いい選択だった。
「上出来だ。で、お前はどこで寝るんだ?」
ユルはベッドの端に腰かけた。肩紐はあるべき場所に戻っていたが、今度は脚がベッドの上にあった。悪くない眺めだった。
彼女は一瞬で真っ赤になった。頬のその色は、よく似合っていた。
「あなたと」そう言って、ベッドに体を伸ばした。その動きで、大きな胸が強調された。
アレックは目をそらした。落ちたい気持ちがどれだけあろうと、誘惑には落ちない。
アレックは彼女を見た。ベッドを見た。二人寝ても、それ以上の意味は生まれないだけの広さはある。
「いいだろう。ベッドは十分広い。触れ合う必要もなく二人で眠れる」
ユルは、アレックには安堵と読める表情を浮かべた。が、同時に眉をひそめてこちらを見つめてきた。
態度が一変した。パジャマを整え、立ち上がり、自分が寝るはずだったベッドの支度を崩し始めた。
アレックは固まり、体に冷たいものが走った。今度は何をやらかした?
「……ベッドもう一台分の予算、なかったのか?」
「ありません、旦那さ……」
「アレック」
「ありません、アレック。あらゆる意味であなたの伴侶を務める許可を、私が持っているからです。それはベッドを一台しか使わないことを意味します」
ああ、そういうことか。だからあの安堵の顔か。それでも、なぜ怒ったように見えるのかはわからないままだった。あの権限を与えたのは自分だ。自業自得。有能すぎるお役所仕事め。
「心配するな。俺が先に寝ようか? その方が安心だろ」
ユルはまた真顔になった。
「先に寝たいんですか?」腕を組み、頬をふくらませた。
「……わかった、先に寝る」
アレックはベッドに横になった。かなり快適だった。
翌朝、背中に温もりと、柔らかい何かを感じた。ユルが背後から抱きついていた。彼の背中と彼女の胸の間には、パジャマの布二枚しかなかった。
アレックはその考えに落ち着かなくなり始めた。けれど、感じるのは好きだった。もう少しこのままでいるか、離れるか、しばらく迷った。いたかった。彼女に、いてほしいと思っていてほしかった。義務ではなく。知る限り、ユルは義務から解放されている。なら、もしかしたら、もしかしたらだけど、彼女は自分の意思で近づいているのかもしれない。息がしづらかった。無理やりミシェルを思い出し、ユルを起こさないようゆっくりと起き上がった。
昨夜、寒かったのかな?
毎朝の日課どおり、アレックは自重トレーニングをした。ミシェルに釣り合うには、体を鍛えておく必要がある。
中学で始めた習慣で、鏡に映る筋肉の見た目が気に入っていた。
金だらいに水を注ぎ、外に出て、洗えるところを洗った。金属のたらいに映る自分を見た。
母は毎朝、鏡の前で長い時間をかけて支度をした。アレックはその時間で朝食を作り、弁当に詰めた。二人きりだった。父の写真に見守られながら、朝食を作った。
水を捨て、服を着た。
天幕に入ると、ユルはまたドレスとヒールに戻っていた。
きれいで、同時に上品だった。
「おはよう、ユル」
「おはようございます、だんな……アレック」
「よく眠れた?」
「とても。ありがとうございます」
また赤くなった。アレックの腹が、一瞬ねじれた。
「手伝うよ。お忍び中は同格ってことだろ」
アレックは急いでいた。別にユルと一緒にいたいわけじゃない。
「ありがとう、アレック。とても助かります」
二人ですべてを片付け、馬車に乗り込んだ。最初の数分、アレックは時折ユルを見た。
一度、気づかれた。
彼女は何も言わなかった。
景色を見るのが一番だと判断した。
数分後、アレックはこくりと船をこいだ。本人的には一瞬。頭を上げたとき、景色は別物になっていた。
「ユル、俺たちどのくらい経った?」
「何がです?」
「旅だよ。つまり、カルダックにはいつ着くんだ?」
「すぐそこですよ、アレック」
目の前に、ざらついた質感の、高さのばらばらな建物が並ぶ街があった。すべて、色とりどりに塗られていた。アレックは、エカテペックのある地区が一時期ああやって塗られていたのを思い出した。
街がはっきり見える距離まで来ると、ユルが息を呑んだ。
「なんてこと。混沌だわ」
「でも、きれいだ」アレックの口から漏れた。
「そんなこと言ってはいけません!」
「言えるさ。違法だからって、美しくないことにはならない」
ユルは何も言わず建物群を見つめた。眉をひそめ、頬の内側を噛んだ。
「違法なものが、美しいことも、ある」ささやくように言った。それから深く息を吸い、小さく微笑んだ。
街の入口、馬と馬車に×印のついた看板が吊るされたアーチの脇に、馬車を停めた。
「だからこそ、灰色に戻すのです。魂のない色に。この美しさが、誰かの革命のよりどころになってはいけませんから」建物を時折見やりながら、彼女は言った。
アレックはその風景が灰色に変わるところを想像し、深いため息をついた。
そして、匂いを嗅いだ。これは……
タマレス!?
考えるより先に、街へ向かって走り出していた。
ユルはドレスとヒールで追いかけ始めた。楽ではなかった。
角を曲がると、蓋つきの大鍋と、その前に座る人間のおばちゃんがいた。
「おばちゃん、それタマレス?」
「なんだいそれは。これは『包み飯』。郷土料理だよ」
「王国の栄養食についてはどう思います?」
「あの水で戻す味気ない粉袋かい? 反吐が出るね。包み飯を売っちゃいけない法律はないし、許可は全部そろってるよ」
言われて見ると、彼女の背後の壁は、判と書き込みだらけの許可証の羊皮紙で埋め尽くされていた。
「ひとつください」
「何味にする?」
「おばちゃんの一番のおすすめで」
「おや、行政官の中に冒険者がいるとは珍しい」
アレックは政府出張経費用の行政カードで支払い、包み飯を受け取った。タマルそのものだった。トウモロコシの皮、生地。この匂いは……
モーレ?
一口かじると、はたしてモーレだった。
甘めの、ベラクルス州シコで作られるやつに近い味。アレックは泣き出した。
ユルが近づいてきて、それを見た。彼のタマルを平手で叩き落とし、地面に落ちたそれを、続けざまに踏みつけ始めた。
「アレック、どうしてそんな物を食べるんですか。ほら、こんなに取り乱して。朝私が作った栄養パックを食べるべきだったんです」そう言いながら書類に記入し、踏み潰されたタマルの横に置いた。
俺の包み飯……。
「ユル。そろそろ街用の服に着替える時間だ。馬車に戻ってこい。ここで待ってる」
「でも、だんな……アレック、危険です」
「ごちゃごちゃ言わずに従え。俺はまだお前の――」
「シッ」
「なら口答えするな」
「……かしこまりました」肩を落とし、しぶしぶ馬車の方へ歩いていった。
ユルが遠ざかる間、アレックは自分のタマルを見つめた。完全に潰れて、それでもまだモーレの匂いがした。正確には、モーレと土の匂い。ばあちゃんなら、この種と唐辛子の配合を言い当てただろうか。
アレックはその隙に、買えるだけのタマル、もとい、包み飯を買い、持っていた魔法の袋に放り込んだ。一つだけ残して、急いで食べ始めた。
「おばちゃん、この包み飯、中身は何なんです?」
おばちゃんはじっと彼を見て、笑った。
「『エンパスタード』。うちの家系のレシピさ。気に入ったかい?」
アレックはユルが戻る前に残りを頬張りながら、うなずいた。
「ところで、ここで何があったんです?」色とりどりの建物を眺めながら聞いた。
おばちゃんは美しく塗られた建物群を振り返り、微笑んだ。そしてほぼ同時に、真顔を作った。
「混沌ですよ、お役人さん。ここを通ったんです」
「種の担い手の一人が?」
「そうです。娘っ子でしたよ」
アレックの心臓が跳ねた。
「どんな見た目だった!?」自分の声の調子に気づいた。「……私はウル様の調査官です。ご存じのことをすべてお聞かせ願えますか」と言い直した。
「あたしは見てないんです。聞いた話でね」
「その女について、何か特徴は?」
頼む、赤毛だと言ってくれ。
「なんでも、物を思いのままに塗り替えられたとか」
「それだけ?」
赤毛だと言え!!
「あたしが聞いた限り、みんな彼女を観察するより、塗られないことに必死だったようで」
「……くそ、いかれてる」
「どう見ても、もう塗られちまってますがね」おばちゃんは軽く首をかしげた。
「これは由々しき事態だ。政府として、修復に何ヶ月もかかる」
二人は満面の笑みで建物群を眺めた。
「由々しき事態です」
「実に由々しい」
夕日が色彩と混ざり合い、二度とない色調を作っていた。
「すべて灰色になる」
「あるべき姿にね」おばちゃんはそう締めくくり、涙を拭って、タマルの鍋の前の腰掛けに座り直した。
「で、種はどこへ?」
「森に入ったそうですよ。あたしが見た限り、本当でしょう」
ちょうどそのとき、ユルが戻ってきた。タイトなパンツに、体に沿った革のコルセット。ベルトには羽ペン、インク、書類の束。それと、剣。
アレックはしばし見とれた。この制服は、かなり似合っていた。
「ユル、ちょうどいい。種を探しに行くぞ」
二人で森へ向かって歩き出した。そして、見つけた。地面に、敷石で作られた黄色い道。
黄色い道をたどれ、か……。俺たちに見つけさせるためのヒント。頭がいいな、お前。
アレックは手袋をはめた。
「準備しとけ。あと、俺の頭の中の混沌についてのコメントは禁止だ」
「喜んでお供します」手袋は答えた。
歩き続けた。五十歩ほど進んだところで気づいた。一人だった。
「……ユル?」
彼女は立ち止まって、書類を書いていた。
「森に入る許可申請か?」
「申請というより、届け出です。権限は私にありますが、書類仕事は避けられませんので」
「百七十五条は?」
「シーッ。あの条文を知っているのは、あなたと宮殿の人間だけです」
くそったれ。
「マノロ。お前、法律には詳しいんだよな?」アレックはマノロに向かって念じた。ユルとはぐれたときのために、確認しておく必要があった。
「はい、旦那様。すでに申し上げましたが」
「言われたけど、答えを忘れた」
「無理もありません。ここは実に独特な場所ですから」
「今の、俺の頭の中へのコメントか?」
「いいえ、旦那様。独特な秩序があると申しただけです。――我が親愛なるアレック」
「なんで急にそう呼ぶんだ」
「そうお呼びすることに決めたのです。ウル様ではないにせよ、どうやらあなたと旅をする運命のようですから。知り合っておくに越したことはない。名前で呼ぶのが一番です。それに、ユルが呼ぶのに私が呼べない道理はないでしょう?」
「好きに呼べ。ただ気を抜くなよ。お前を使うことになるかもしれない」
「あなたが私で何をするのか、興味がないと言えば嘘になります。それに、どのみち選択肢もありませんし」
「完了です」ユルが水色のポストに書類の詰まった封筒を投函した。「参りましょう」
「このポスト、いい黄色だな」アレックは声に出して言った。
「今のうちに楽しんでください。灰色になりますから」
「あるべき姿に」アレックは、納得しているように聞こえるよう努めて言った。
二人は黄色い道を歩き続けた。




