第2話 ライムでよろしく
翌朝、アレックは宮殿の中央広場の真ん中に立っていた。野の花を満載した二台の馬車を眺めている。今朝の「脱芸術化」作業の成果だった。
今回の花は赤で、ミシェルを思い出させた。
サルバトーレによれば、王国の予算の三分の二が脱芸術化に消えるらしい。それでも、サルバトーレの青いスカーフの説明にはならなかった。
ある日、赤の色調を変えて着てみたことがある。赤は、彼に許された唯一の色だった。
結果、ナクが三体卒倒し、宮殿は大混乱に陥った。
臣民のために、二度とやらないと決めた。常に、同じ赤。
何より皮肉なのは、アレックが元の世界では芸術家だったことだ。詩人。恋愛の。彼の詩は、この上なく美しく、深遠だった。そしてすべてが、同じミューズに捧げられていた。たとえば、こんな一篇。
俺の脚の間で燃える、君の赤い狂気よ
夜の逢瀬に濡れて目覚める朝
残るのは、君の色の航跡だけ
早く行ってしまったのか……それとも、ただの夢か
彼女に書いた三百篇のうち、これが最高傑作だった。
アレックは午後を自室で過ごすのが常だった。たいてい、祖母のレシピで自分が作った何かを食べながら。
そして時間が取れれば、ミシェルを尾行した。そうやって、彼女の家の場所と、週三日、読書会に通っていることを突き止めた。
ある日、彼女がグループと集まるカフェの前を四度目に通り過ぎようとした時、外でヴェポライザーを吸っているミシェルに出くわした。
「アレック?」通りすがりに、彼女が声をかけてきた。
「そ、そうだけど」アレックはやっとそれだけ言った。ミシェルの目を見るべきか、脚を見るべきか、決めかねながら。
ミシェルは片脚を前に出した。スカートの下から、太腿がすこし多めに覗く。完璧だった。
「ここで何してるの?」アレックは目を見て言った。
「読書クラブに入ってるの。あなたも来る?」
「もちろん」
アレックは、彼らが読んでいる本をすでに知っていた。市場で海賊版まで手に入れていた。
「よかった。入って。みんなに紹介するね」
こうして他のメンバーと知り合い、読書クラブに入った。近くに住んでいると言っておいた。片道一時間の移動など、真実の愛の前では安いものだ。
学校の外で口をきく相手といえば読書クラブだけで、それも実のところ、ミシェルがいたからだった。
アレックは愛しの赤から離れ、混沌の種たちとの対面へと運んでくれる馬車の方へ歩いた。
二頭の馬に引かれた、巨大な灰色の立方体。内装は赤だった。
すこし離れてみると、馬車の上部に刻印が見えた。「行政用上級馬車」。
「本当に、護衛の兵士は他に要らないのですか?」ユルの声にアレックは飛び上がった。「それとも、野営の設営を手伝うブロクは?」
アレックはブロクがまるで好きではなかった。巨大で、鹿を思わせる顔をしている。おまけに、あまり賢くなさそうに見えた。
「準備はできてる、ユル。必要なのは君だけだ。乗って、馬車を操縦してくれ」
ユルは何時間も前から旅の準備をしていた。アレックは、彼女が書式を一枚また一枚と記入していくのを見ていた。書き終えると、今度は自分で、馬車広場の各隅にある三つの別々の窓口へ押印をもらいに行く。
そしてユルのことだから、一枚ずつだ。プロトコルの求めるままに。一枚終わるたびに微笑み、大きな赤いバツ印で封をする。
押印済みの書式が、すこしずつ山になっていった。
広場のナクたちが、それを一枚ずつ取っていく。
やがて広場は、箱と長持と旅行鞄で埋まっていった。
「私が、ですか? 閣下、私には資格がございません」
ユルは首を横に振りながら、アレックを見つめた。
「やり方は知ってるのか?」
急がなければ、赤毛に追いつけない。あの女は、混沌の化身なのだ。
「基礎訓練に含まれております、閣下」
上等。で、あのすばしっこいチビのナクはどこだ?
「サルバトーレ!」
いた。ナクの一体に書式を差し出しているところだった。受け取ったナクはそれを読み、耳を伏せ、足を引きずりながら歩き出した。
「最高指導者閣下?」この老ナクは、物事をこなすあの落ち着きぶりからすれば「クール」に見えてもよさそうなものだが、いかんせんナクだった。あの種族に、それは不可能だ。
「175条により、ユルに馬車操縦の資格認定を宣言する。さらに175条により、私の旅に同行するための全許可を、彼女に付与することを宣言する」
サルバトーレは、アレックが知る限り初めて、口をあんぐりと開けて耳を立てた。もちろん、ほんの一瞬だけ。
それを聞いたユルは、トマトのように赤くなった。
「どうした? なんでトマトみたいになってる?」
彼女の頬は、まさにあの赤だった。
「閣下、どうか、お優しくしていただければと。誰ともそのような形になったことは、ございませんので」
アレックは、分かっているような顔をしようと努めた。
「閣下、その許可の中には、夜のお相手を務める許可も含まれております」
そう言うと、彼女はさらに赤くなり、軽く床を蹴り始めた。アレックは頭を撫でてやりたくなった。もちろん、そんなことはしない。祖母は料理をしながら礼儀作法を教えてくれた。お嬢さんには敬意を払うものだ、と。それに、彼はミシェルのために取ってある。初めては彼女と。ミシェルとそういうことになる場面を想像して、アレックはすこし落ち着かなくなった。
「心配するな、ユル。君の純潔は安全だ。解放する。そういう興味はない」
ユルは眉をひそめ、それから微笑んだ。
両肘を曲げて上を見る、あの敬礼をした。
「至高なる御方に幸あれ」
また、あの敬礼か。
「その敬礼、なぜした?」
「本当に覚えていらっしゃらないのですか、閣下」
アレック、スネイプの顔だ。顔の筋肉ひとつ動かすな。
「試しているだけかもしれないぞ」
ユルは口の端で笑い、早口で、声のトーンを上げながら話し始めた。
「御身専用の至高敬礼でございます。プロトコル外の命令を下された際には、この敬礼をもって応じるのが正式とされています」
「俺は、プロトコル外の命令をしたのか?」
瞬きひとつするな、アレック。
「私を解放するとおっしゃったことで、選択の自由を私に返してくださいました」
アレックは驚いた。蔑まれたと感じるか、安堵するかのどちらかだと思っていた。彼女は肩の力を抜き、微笑んでいた。
「よろしい、ユル。まさに君から聞きたかった答えだ。その調子で頼む」
ユルは微笑み、肩を後ろへ引いた。一瞬、制服の胸のあたりに、何かがふくらんで見えた気がした。
「閣下、お許しいただけるなら、もうひとつお願いがございます」
アレックは、答える前にすこし震えた。
「言ってみろ」
「閣下、お忍びで旅をする方がよろしいかと」
175条が使えない旅を想像して、アレックは一瞬、息を止めた。
「俺のままで旅する方がよくないか?」常に175条を手元に置いておきたい一心で、そう言った。
「いいえ。先ほどサルバトーレに下された命令で、多くの可能性が開けました」
娘はアレックに寒気を走らせる笑みを浮かべた。アレックは彼女を見て、うなずいた。
「許可のことを言ってるのか?」
ユルは、情熱的な教師の姿勢に戻った。
「左様です、閣下。あの許可は私に権限を与えます。誰にも正体を知られずに旅ができるのです。閣下は普段、仮面なしには外出なさいませんから」
俺、仮面なんて持ってるのか?
「もちろんだ。取りに行く手間を省いてくれて助かったよ」アレックは腕を組み、体をすこし横に傾けた。
「その方が速く進めるのか?」
「左様です、閣下」
この場所を出て、愛しの赤毛を探しに行ける。アレックは安堵を覚えた。最後に彼女を見た日から、彼女に捧げる新しい詩を十五篇書いていた。
「素晴らしい考えだ。サルバトーレ!」
老ナクは、別のナクの額に押印しているところだった。聞かない方がいい。
「許可の件は?」アレックは答えを待った。
老ナクは、まったく落ち着き払って二本目の印章を取り、また別のナク——若い少年ナク——の頬に押した。少年ナクはお辞儀をして、背筋をピンと伸ばして去っていった。
「閣下、数時間はかかります。175条をもってしても。ご存知の通り、ここには秩序がございますので」
アレックはこの瞬間を待っていた。唾を溜め、吐く構えを取った。
ユルが先を越した。
「芸術家じゃあるまいし」そして横に唾を吐き、手書きで書式を一枚埋め、唾の横に置いた。
「見事なお言葉です、お嬢さん」
アレックは唾を飲み込み、床を見た。
「……俺が先に言おうとしてた」不機嫌な声で言った。
老ナクは背筋を伸ばしたまま、彼を見た。
「閣下、御身は至高であらせられます。いつお言いになっても、歓迎されます」
「同じじゃないんだよ……」
三人は、何も言わずに見つめ合った。
特にユルは、眉をひそめ、唇を結んだまま、微動だにせずアレックを見つめていた。アレックの高校の休み時間は、こんなだった。気まずい沈黙の中、中庭の向こうでミシェルが人と交わるのを眺める。
いつもは友人のフアンとホエルと一緒にベンチに座り、黙って食べながら、最新のゲームや観たアニメの話をぽつぽつと交わした。フアンとは週末、他の友人たちとダンジョンズ&ドラゴンズで遊び、たいていグループのリーダーの座を巡って揉めた。
ミシェルが現れると、二人は必ず黙った。
それが彼の神聖な時間であり、邪魔をすれば怒ることを、二人は知っていた。
当然だろう? ミシェルは芸術品だ。必要なだけの時間をかけて、鑑賞されるべきものなのだ。
「ユルの服も要る。高位行政官のものを。彼女が選んでいいが、位が見て分かるものにしてくれ」アレックが沈黙を破った。
ユルの顔が、またあの口の端の笑みに変わった。アレックは唾を飲んだ。
「よろしいのですか、閣下」
今日のサルバトーレは、いつになく口答えが多い。付き添いが要るな。
「175条を宣言する」
「では私が行政の役を引き受けます、閣下」
二人は連れ立って行った。ユルがサルバトーレを引っ張って、早足で。
アレックは箱や鞄を眺め始めた。その中に、「征服者ウル」と刻まれた小さな長持があった。鍵がかかっていたが、触れた途端、ひとりでに開いた。中には、金の糸で飾られた黒い手袋。この世界で金色を見るのは、これが初めてだった。
着けてみることにした。
その瞬間、体中をエネルギーが駆け巡るのを感じた。
『閣下、お忘れになったのかと思っておりました』
これだ。今度は頭の中に新しい声かよ。
『閣下、大丈夫ですか? 心の中が……違っております』
「何か言ったか?」アレックは声に出して言った。ナクが一体、振り向いた。
「何も申しておりません、閣下」そう答えて、歩調を速めた。
『閣下、声に出す必要はございません。お考えになるだけで聞こえます。心の中の様子が違うのです。この赤毛の写真は何ですか? それに、なぜすべてが香辛料と唐辛子の匂いがするのです?』
アレックは一瞬、立ち止まった。
——ミシェルはいつもそこにいた。これからも、ずっとそこにいる。
アレックは手袋を眺めながら歩き出した。刺繍が、パツクアロの工芸品を思い出させた。父の故郷の町だ。
それもまた、彼とミシェルを結ぶものだった。彼女の家のティーテーブルは、パツクアロ製なのだ。いつか付き合い始めた時に何を贈るべきか見当をつけるために撮った、彼女の家の写真で気づいた。事情を知らない人間があの写真を見たら……いや、考えない方がいい。
『閣下、ウル様をどうなさいました?』
アレックは息を止めた。
——俺がウルだが。
『いいえ、閣下。違います』
——ウルだ。
『違う、と申し上げております』
——なんでそこまで、俺がウルじゃないって確信してるんだ?
『はい、閣下。ウル様が空想なさる時は、決まって騎士が相手でしたので』
——なんで俺が何を空想するか知ってるんだよ。
『心の中に住んでおりますので。これを「住む」と呼べるならですが。ウル様とは十年のお付き合いです。あなた様は、別人でございます』
アレックは箱をひとつ開けた。中には瓶が入っていた。ひとつ開けると、甘い香りがした。飲んでみることにした。合成イチゴミルクのような味。この世界の基準からすれば、悪くない。それでも、まずかった。
——ややこしいんだが、俺はウルであって、ウルじゃない。別の世界から来て、この体に入った。
一瞬、沈黙があった。
『ほう。それは興味深い』
アレックは空になった瓶を箱に戻した。
眉をひそめ、耳を立てたナクが一体、箱を開けて空き瓶を取り出し、持ち去った。その間ずっと、唇を結び、頬をすこし膨らませて、アレックをじっと見つめながら。
——この世界のミシェルは、どんな服を着てるんだろうな。
『はい、閣下。ミシェルとやらに執着していらっしゃるのは、もう分かりました』
——執着せずにいられるか。俺たちの運命が絡み合ってるのは明らかだ。
『結構。経緯は分かりませんが、あなた様はウル様の体に入った何者かで、私は歴代最高行政官の遺産でございます』
アレックはまた手当たり次第に箱を開け始めた。ひとつから干し肉が出てきた。一切れ取り出し、噛み始める。この数週間の食事の後では、天国の味だった。
——なんでお前は、俺にしか開けられない長持に入ってるんだ?
『主として、想像によって魔法を生み出すお手伝いができるからです』
——想像?
アレックは手袋をはめた手で干し肉を掴み、ライムがかかっているところを想像した。
一口かじると、本当に、ライムをかけたような味がした。
ライムの味は、彼には極上のごちそうだった。高校の前で売っていた、唐辛子とライムをかけたフルーツのように。あの屋台は彼の避難所だった。学校の門に背を向けて立っていたから、誰が出てくるかを見張るのに完璧な位置だったのだ。
『そのような俗事に私を使うのは、ご遠慮いただけると』
——干し肉にライムをかけるのが俗事とは思わないが。
『「俗事」の定義が、我々の間で異なるようですね。しかし、これほど早くお出来になるとは驚きです。想像とは複雑なものです。混沌の種に感染していない限りは』
——こういうやつのことか。
アレックはポケットから種を取り出した。干し肉にもう一口。本当に美味くなっていた。
『閣下、それは混沌の種です。第176条の規定により、城の地下牢の最深部にある対混沌保護金庫に保管されるべきものです』
——175条で俺のものにできるだろ。
『いいえ、閣下。種は、あの条項の例外でございます』
見せびらかさなかった直感は、正しかったわけだ。
本の中で、それがウルの犯した最大級の過ちのひとつだったのを覚えていた。
繰り返す気はない。
『閣下、この世界の者でもないのに、なぜこの世界の歴史をご存知なのです?』
——この世界の歴史の本を読んだからだ。
『つまり、ウル様が敗北するというのは、ご想像の産物ではないと?』
——俺の頭の中に住んでるのはお前だろ。お前が言えよ。
『……これは参った。よろしい、多少の柔軟性が必要になりますね。差し当たり、種は安全な場所に保管なさってください』
アレックは種をまたポケットにしまった。
——どのみち、お前は俺を密告できないしな。
『悲しいかな、その通りでございます。予見していなかったことです。悲しいかな』
——予見?
『今のところは、私に意識がある、ということだけお分かりいただければ』
——分かった。悪く思うなよ、お前はしまわせてもらう。考えてることを誰かに見られてる感じは、あんまり快適じゃなくてね。
アレックは手袋を外し、コートのポケットにしまった。すべて整ったようだった。ユルが来れば、出発できる。
アレックはチョコレートを取り出した。反乱分子どもから押収した戦利品の一部だ。検分を開始した。口で。なるほど、これが大衆に出回ったら、問題になりかねないな。
扉から、曲線的な体つきを際立たせる灰色のドレスを着た女が出てきた。
ユルだった。
なぜ違って見えるんだ?
仕事用の制服の形を思い出してみる。膝まである直線的な上着と、だぶだぶのズボン。
そのせいか。
それ以外は同じだった。青い髪、綺麗な顔、コバルトブルーの瞳。
……青い髪?
「髪、染めたのか?」
「いいえ、閣下。これが地毛の色です。制服の帽子と眼鏡には、着用中、色を消す機能がございます」
「目立ちすぎないか?」
ユルは小さく笑い、アレックの目を見た。
「左様です、閣下。実はこれは、最高行政官補佐の色でございます」
「サルバトーレの?」
サルバトーレの上着にいつも小さな青いスカーフがあったのを思い出した。装飾だと思っていた。今や明らかに、そうではなかった。
「その髪は、君がサルバトーレと同じ位だと言ってるのか?」
「この機会をくださり、ありがとうございます。失望はさせないとお約束します」
なるほど、サルバトーレがいつもより不機嫌に見えたのは、そういうわけか。
「出発しよう」
ユルとアレックは馬車の前部に乗り込んだ。ユルは手綱を握り、アレックを見た。
「どちらへ、閣下?」
「混沌の種が目撃された座標へ」
「カルダックで起きたことの報告書は、お読みになりましたよね」
「何のことを言ってるのか、分からないが」
「これから行く場所です。私の胃が持つことを祈るばかりです」ユルは心配そうな声で言った。
そして、馬車が動き出した。




