第1話 忘れていた
何も輝かない。アレックは家具の色が恋しかった。
実家を思い出す。あの家では一人で過ごす時間が長かった。タマヨの版画と、祖母との写真と、花柄張りのソファ。それが話し相手だった。
家は出来たての料理の匂いがした。バラの香りの柔軟剤の匂いも。
母は何度もあの版画を売ろうとした。だがあれは、祖母が本当に大切にしていた、数少ない残りものだった。
ここカアシュでは、すべてが塩素の匂いだ。部屋は灰色。窓から差し込む冷たい光が、ベッドの金属に反射している。
生気のない部屋。完全に機能的で、退屈。この世界のすべてがそうであるように。
この世界を、アレックは知っていた。本で。
アレック——この世界では「ウル」と呼ばれている——は起き上がり、風呂場へ歩き、浴槽の湯を出して、水の流れる音を聞いた。
すべてはミシェルから始まった。
なんであんなに、腹が立つほど綺麗なんだよ。
浴槽に入る。ぬるい。彼は熱いのが好きだった。
ほとんど沸騰しそうな湯と、ラベンダーの泡の石鹸が恋しい。
ミシェルの髪も、花の匂いがした。
それを知ったのは、女子更衣室に入ったあの日だった。ミシェルはベンチにカバンを忘れていた。
詮索する気はなかった。だがカバンは開いていて、水着が半分はみ出していた。カバンを届けるなら、水着はしまわないといけない。みんなの目に触れるのは嫌だった。
水着に触れたい衝動。だがそれはミシェルにふさわしくない、と思い直した。どれだけしたくても、俺は紳士だ。だから更衣室のハンガーを掴んで、それで水着を押し込んだ。
しまい終わる直前、彼女の荷物の横に開きっぱなしのシャンプーが見えた。蓋を閉めようと持ち上げた。その時、ミシェルの髪の、あの花の匂いが届いた。
この世界に来て一ヶ月。信じられない。初日は怖すぎて、仮病を使った。
その日、身長一メートル二十センチの人型の生き物が入ってきた。丸い鼻、たるんだ頬、寄った眉、うんざりした表情。名前はサルバトーレ。
彼のおかげで知った。病欠を届け出るには、第4条を宣言する必要があるらしい。していなかったので、サルバトーレが該当書式の記入を手伝ってくれた。
アレックは清潔な匂いのタオルで体を拭いた。サルバトーレが持ってきてくれたものだ。該当書式と一緒に。記入済み、押印済みで。
鏡の前に立つ。顔はいつもと同じだった。同じ人間ではないのに。
カアシュに来てから、あの古い孤独が戻ってきた。ミシェルに出会う前の孤独が。彼女にまた会えるのかどうか、知る術はなかった。
この世界で彼はウル。行政官。管理と安定の最高指導者。混沌の種の番人。
二日目には塩素の匂いに慣れ始めた。ベッドで丸くなって我が身の不運を嘆いていたら、知らせが来た。混沌の種が見つかった。全部で五つ。ミシェルがこの世界にいる可能性がある。本の中では、種は勇者たちだった。この世界に来たのは自分だけではないのだろう。なにしろ、読書クラブは六人だったのだから。
アレックは制服を着た。ギャバジンに似た生地の大きな赤いコート、白いシャツ、灰色のストレートパンツ。
初めて制服を着た時、サルバトーレにじっと見つめられた。何かやらかした、と思った。バレた、と。サルバトーレに行政幹部の輪から引き離された瞬間さえあった。恋物語は終わった。始まる前に。そうアレックは想像した。
「閣下。カフスボタンをお忘れです」サルバトーレはそう言って、手のひらに置いた。「この種のミスは許されません、閣下。これまで一度もなかったことです」
話しながら、サルバトーレの耳は前後に動いていた。
まったく、この愛想のない小さな生き物には、何度も助けられている。アレックはアフターシェーブクリームを塗った。ただのアルコールだった。
その日、アレックは急いで支度をした。一刻も早く厨房に行きたかった。干し肉やら乾物やらを見つけていたのだ。中には、トマトと唐辛子も。
この場所の食事は侮辱だった。栄養パックの粉を湯に溶かして、吐き気のするペーストにするだけ。
モーレが恋しい。エンチラーダも、ちゃんとしたソパ・デ・パスタも。それ以上に、その料理を自分の手で作れるということが恋しかった。
祖母の隣で過ごした厨房での時間を思い出しながら、アレックは自分の手を撫でた。
そこへ知らせが来た。最初の混沌の種を捕らえた、と。これで疑惑が確かめられる。
アドボ肉はお預けだ……。
種とやらには名前があった。カルロス。
通り過ぎるのを見て、確信した。
親に甘やかされたオタクだった。読書クラブに最新型の電子書籍リーダーを持ってくる。十六歳で車を持っていて、服はブランド物。
せめてもの救いは、不細工なことだった。
カルロスがこの世界にいる。つまり疑惑は当たっていた。残りの五つの混沌の種は、読書クラブの仲間たちだ。
殺さないといけないのか?
肩が強張った。こいつのことは特に気に入らなかった。だが、殺す? それが良くないことだ、というのだけは分かった。カルロスがミシェルを口説こうとしたことがあるとしても。
この時点でもまだ、部下の大半が属する種族の名前をよく知らなかった。何度も探りを入れようとした。そのたびに、馬鹿げたプロトコルか、予想外の話の流れに阻まれた。
だいたい、失礼にならずに「あなたの種族は何ですか」と、どう聞けばいいんだ?
小さな生き物たちだった。ゴツゴツした顔で、無尽蔵のエネルギー。すべてにプロトコルがあり、互いに監視し合っていた。
少なくともアレックはその外にいた。彼は監視する側で、彼の見る限り、彼らの仕事ぶりは見事なものだった。
カルロスが到着した日、ある道具の話を聞いた。「忘却器」と呼ばれていた。
感染者から混沌の種の痕跡をすべて除去するらしい。まだ試していない。カルロスに使ったらどうなるかは、分からない。
そして何より重要なのは──どうやってミシェルを見つけるか、だ。
恋に引きずられて、異世界アニメよろしく、別の世界に来てしまった。
セクシーなメイドもバニーガールもいない。
だが、それでいい。美女なんて掃いて捨てるほどいる。セクシーな魔法使いも耳の長いエルフも、彼女の敵じゃない。ミシェルは特別だ。化学の授業の時から分かっていた。彼女みたいな女は、クラスの可愛い優等生に収まると誰もが思うだろう。違う。彼女は完璧な猫かぶりだった。アレックには確信があった。
蜂蜜色の大きな瞳とそばかすが、彼女を無垢に見せる。だから男の教師たちは彼女を信じた。課題は、おバカなふりをして提出する。そそっかしいふりも。脚をちょっと多めに見せるとか、ブラが見えるくらい屈むとか、その類の。
教師たちはそれが大好きなはずだ、とアレックは確信していた。一方で、女性教師には可愛く、丁寧に。
ドアまで歩いて、廊下に呼びかけた。
「サルバトーレ、いるか?」
「何かご用でしょうか、最高行政官閣下」サルバトーレは呼びかけに応えて現れた。
アレックは鏡の中の自分の顔を思い出した。
「サルバトーレ。俺の外見を説明するとしたら、どう言う?」
サルバトーレはじっと見つめてきた。
「出目で、鉤鼻で、櫛のいらない黒い直毛でいらっしゃいます」
これで確定だ。自分の顔を本来のまま見ているのは、自分だけ。
「忘却器を持ってきてくれ。それと、囚人との面会を取り付けてほしい」
「書式25と書式16の該当欄は、ご記入済みでしょうか」
「サルバトーレ、本気か? 毎回か?」
「プロトコルに従わなければ、我々は何になります? 芸術家ですか?」サルバトーレは嫌悪も露わに、横へ唾を吐いた。ハンカチで口を拭う。それから鞄から記入済みの書式を取り出し、南翼廊下担当の専属メイドに手渡した。ちょうど二人は、最高行政官の執務室へ向かって廊下を歩いているところだった。メイドは書式に目を通し、すべてが整っていることを確認し、押印し、署名し、封筒に入れてスロープに滑らせた。それから、布で唾を拭き取った。
アレックは体温が上がるのを感じた。頭に血が上る。我慢の限界で言った。
「行政至上権第175条を宣言する」
「では私、総補佐官として、行政手続きの委任を引き受けます」
何かが欲しい時は、これを言えば済む。最初の数日は苦労した。サルバトーレに「なぜ条項をお使いにならないのですか」と聞かれるまで、口にすることすらなかった。もっとも、その頃には手遅れだった。石鹸なしで二日風呂に入り、カミソリはなく、おまけに同じ湿ったタオルを一週間使い続けていた。
「よし、サルバトーレ。世界の行政は任せた」
「承知いたしました、閣下」
「そして第175条に基づき、囚人との手続きの同行者として、ユルを召喚する」
数分後、二十一歳の人間の娘が現れた。だぶだぶのスーツに、キャップに、眼鏡。彼より年上だが、身近にいる唯一の人間だった。少し身なりを整えれば可愛いのかもしれない。だがあの眼鏡と灰色のキャップでは、まるで自分を活かせていない。おまけに体に起伏がないので、「セクシーな秘書」という、その存在を初めて聞かされた時にアレックが想像したイメージからは、完全にかけ離れていた。それでも人間だ。つまり、宮殿の行政生物たちよりは、いくらか融通が利く。
彼女を見るたびに思い出す。サルバトーレたちの種族名を聞かないと。そして毎回、例外なく、完全に忘れていた。今回はペンを取り、手の甲にインクで書いた。「種族」。忘れないように。
ユルとアレックは、執務室を兼ねた最高行政官の部屋を出て、一般アクセス廊下に出た。入口まで歩くと、滑車式のエレベーターがあった。鹿に似た顔の巨大な人型が二体、エレベーターを引いている。総合管制官が番号札のシステムで、誰が乗るかを決めていた。当然、人々は列を作っていた。
列が長すぎるのを見て、アレックは階段へ歩き出した。石を削り出した、完全に四角い、装飾のない階段。手すりは、機能一辺倒の金属だった。
地下へ降りた。監獄のある場所だ。巨大な廊下に、覗き窓付きの金属扉の独房が並んでいた。
手続きと徒歩とで、カルロスのいる扉に着くまで三十分かかった。アレックは175条の宣言にうんざりしていた。たった二階分、降りただけなのに。
扉を見て、アレックは嬉しくなった。監獄の灰色とカーキと黒に逆らうように、色とりどりの模様で飾られていた。
ため息をつき、しばらく見つめた。祖母がよく着ていた刺繍のブラウスを思い出す。色というのは、美しいものだ。祖母のことを考えたら、家の近くのタコス屋、タケリアを思い出した。毎週金曜、一週間を生き延びたご褒美に通った店。ミシェルとの初デートは、あそこのはずだった。
彼女に恋していると自覚した日のこと。化学の授業で、彼女は完全に故意に、ある物質の材料をすり替え、教室をピンクがかった朱色の泡まみれにする大惨事を起こした。ミシェルはフラスコを掴んで振り回した。泡を浴びた生徒もいた。教師の机にフラスコを置くと、机全体が泡で埋まった。
授業開始十分で教師が休講を宣言し、ミシェルの「そそっかしさ」を許した時、彼女はアレックの方を振り向き、ウインクして言った。
「どういたしまして、イケメンくん」
「あ、あ、ありがとう」それしか言えなかった。
その日から、アレックには分かっていた。
本の中で、ウルは勇者の一人に忘却器を使った。だが、その後に起きたことは不穏だった。その勇者は、跡形もなく消えたのだ。
そしてその後、ウルは二週間ほど舞台から姿を消した。行政手続きに引っかかる間抜けだったのだ。ルールを持たない種たちはそこに付け込み、こうして彼を打ち倒した。
だが自分は、あの鈍臭いウルではない。最後にはミシェルと結ばれる。他はどうでもいい。カバンを家の玄関先に届けた後、それを見つけたミシェルが浮かべた笑顔。あれだけで十分だった。あの笑顔を作ったのは、俺だ。秘密の騎士。見えない、必要な存在。一線は越えず、誘惑にも落ちず。
今のところ最大の障害は、正体がバレることだろう。
やるべきことをやるだけだ。勇者たちから混沌の種を奪う。
全員から。ミシェルを除いて。
他の連中には悲劇。ミシェルと自分には、恋愛小説。
だがまずは、忘却器を試して、その結果を知ること。哀れなカルロス。両親のせいだ。十分な速さで適応することを教えなかった。甘やかされた子供には、よくあることだ。
ミシェルとの結婚式を想像して、泣いた。
「私も泣きたくなります。扉をここまで台無しにされては」ユルは興味深そうにアレックを見ながら、そう言ってのけた。「愚かな芸術家ども」横に唾を吐き、書式に記入し、書き終えるとそれを染みの横に置いた。
「こんなに沢山の色が思い出させるものが、悲しくてね。これは混沌の種のせいなのか?」
ユルは眉をひそめて彼を見た。数秒後、答えた。
「左様でございます、閣下。種はこの種の無秩序を引き起こします。特に、制御されていない場合には。本件では、対象者が混沌の限界に達し、爆発を起こしました。幸い、色でした。容易に除去可能なものです。記録によれば、想定外の物語的不整合が、職員に呼吸の痙攣と、反復的で抑えがたい発声を引き起こした事例が一件ございます。あまりの騒ぎに、種に感染した者まで出ました。もちろん、閣下のご治世の五十年前のことですが」
「……ジョーク、か?」
「感染者が『それをやった』と供述したことが、議事録に記録されております。極めて感染力が強く、危険です」
アレックはこの世界の秩序のレベルに驚いた。だが、この扉を見るまで、「違い」というものをどれほど恋しく思っていたか、気づいていなかった。それでも、決断はもう下していた。どれだけ痛くても、貫くしかない。それに、カルロスは使用の結果を知るための完璧な的だった。使うのだ、あの……
その時、気づいた。忘却器を忘れた!
だが問題ない。生き物の一人を取りに行かせた。
ちょうどその時、手を振る動作をして、手の甲のインクの染みが目に入った。
「ユル、少し変な質問がある。サルバトーレの種族は、なんという名前なんだ?」
「ナクのことでしょうか? それとも、カアシュ行政総合機構のことでしょうか?」
「すまない。病気で目覚めたあの日から、どうも自分が自分じゃない気がしていてね」
ユルは彼をじっと見つめた。彼は微笑んでいた。
一ヶ月かかった。そしてついに、種族の名前を知った。ナク。
数分の待機の後、ナクたちが忘却器を持ってきて手渡した。ラバーカップと瓜二つの品だった。木の柄に、吸盤状のゴムの土台。
メモが添えられていた。「閣下、すでにお送りしております。プロトコルの遵守をお願い申し上げます」。どうやら忘れていたのは、すでにサルバトーレに頼んでいたという事実の方だったらしい。あの老ナクは、救いの神だ。
忘却器を仔細に見れば、これで何をすべきかは明白だった。
「囚人とは、二人きりで会う」
「承知いたしました、閣下。いずれにせよ、私には必要な許可がございませんので」ユルは扉の脇に立った。
アレックは扉を開けて入った。色とりどりの図形で埋め尽くされた牢の奥、足首を床に鎖でつながれて、カルロスが座っていた。
「アレック! 俺たち、本の中にいるんだ。捕まった。色で爆発した。助けてくれ。家に帰りたい」カルロスは泣きながら言った。
アレックは悲しくなった。近づいて、肩に手を置いた。一瞬、見つめ合った。触れられて、カルロスは落ち着いた。
アレックは彼を見た。一秒、迷った。これでカルロスが死んだら、どうする? 俺は、気にするのか? その時、ミシェルの赤い髪を思い出した。
アレックはカルロスの頭上に忘却器を掲げた。
「心配するな。全部、うまくいく」
忘却器を頭に載せた。器具が動き出す。何かを吸い上げるように。カルロスは白目をむいた。服の色が、周囲の色が、洗い流されるように褪せていく。
忘却器の柄を、色の帯が昇っていった。てっぺんに達すると、小さな種を吐き出した。ヒマワリの種そっくりの、しかし色とりどりの種。アレックはそれをポケットに入れた。
カルロスは目を閉じ、開いた。アレックを見ると、立ち上がった。
「最高行政官ウル閣下」
忘却器は、その名に恥じない働きをするらしい。
「市民よ、あなたは感染していましたが、今や治癒しました。所属地に戻り、日常生活を再開してよろしい」
「秩序に幸あれ」カルロスは両肘を曲げ、上を見ながら言った。
その敬礼を見るのは初めてだった。質問リストが、また一つ増えた。
カルロスが去っていくのを見送った。本来なら属していないはずの世界に、溶け込んでいく姿を。
腹に何かを感じた。きっと、朝食べたパックのせいの胸焼けだ。
彼が座っていた場所を見ると、メモの書かれたノートがあった。「俺はカアシュで何をしてるんだ? 俺は一人なのか?」アレックはそれ以上読む前に、ノートを閉じた。
牢を出ようとした時、ユルが報告書を差し出した。
「別の種を発見。捕獲に失敗。最終確認位置を添付する」と書かれていた。
アレックはノートを元の場所に戻し、種を誰にも見えない場所にしまった。
次を探す時が来た。




