第15話 カルダック
カルダックには、まだ色が残っていた。
脱芸術化を開始するための行政手続きが。
まだ完了していなかったからだ。
町の中央広場には。
大きな黒い天幕が張られていた。
赤いレースがところどころを飾っている。
それを支えるのは。
彫刻の施された木製の柱。
そこには二つの仮面が彫られていた。
一つは笑顔。
もう一つは。
口の部分が逆さまの三日月になっている。
招待客用のテーブルは丸く。
十人ずつ座れるよう配置されていた。
中央には。
蘭。
ダリア。
チューリップ。
そして黒い百合のような花を使った。
フラワーアレンジメント。
ミシェルは。
その花を黒百合と呼んでいた。
アレックには。
その象徴する意味はわからなかった。
だが。
彼女が気に入っているなら。
それでよかった。
広場の一端には。
署名の儀式と。
印章交換のための場所が設けられていた。
舞台になっていて。
赤い幕が開くと。
中の儀式が見える。
その中央には。
巨大な机。
黒い漆塗りだった。
上には。
幕の陰へ隠すように照明が設置されている。
式が始まれば。
舞台だけを照らす。
同時に。
天幕全体を黒いカーテンで閉ざし。
外の光を遮断する予定だった。
まるでショーだ。
ミシェルは。
ずいぶん力を入れて準備したらしい。
あと少し。
そうすればアレックは。
ついに彼女への愛を。
最後まで成就させることができる。
そう考えると。
胸が引っ張られるように痛んだ。
――幸せすぎるせいだ。
アレックはそう思った。
流れてくる涙も。
きっと同じ理由だ。
三度目のトイレへ向かった。
個室へ入り。
赤い上着のポケットから。
小さなコバルトブルーのハンカチを取り出す。
そこには。
Sの刺繍。
指で撫でると。
少し落ち着いた。
トイレを出ると。
マシオサレと鉢合わせした。
ミシェルが。
自分の個人付き補佐にした。
妙なナクだ。
「お嬢様が、行政上の誓約文はもう完成したかとお尋ねです」
アレックは。
上着の反対側のポケットから。
四つ折りにした紙を取り出した。
それを見るなり。
マシオサレは巨大な巻物を広げた。
ものすごくゆっくり。
上から確認していく。
途中で止まり。
何かに印をつけた。
「それから、婚姻用の部屋に浴槽を設置する件も、命令どおり手配したかと」
アレックは後ろポケットから。
記入済みの書式を取り出し。
ナクへ渡した。
マシオサレは。
巻物の最初まで戻った。
そして。
また一から確認を始めた。
さっきより。
さらに遅くなった気がする。
永遠のような時間が過ぎ。
ようやく。
また一か所に印をつけた。
「完璧です、閣下。ではそのままお続けください。式は二時間後、中央広場にて執り行われます。公式印章と正式手続き用の筆記具を、お忘れになりませんよう」
言い終わるや。
マシオサレは。
急ぐ様子もなく歩いていった。
アレックは自分の手を見た。
マノロが恋しかった。
あるいはカアシュ。
あるいは。
いったい何と呼べばいいのか知らない。
もしここにいてくれたなら。
今。
自分の頭の中で何が起きているのか。
わかったかもしれない。
ミシェルを思い浮かべようとした。
今夜。
ついに服を着ていない彼女を見ることができる。
だが。
奇妙なことに。
頭の中に浮かんだ体は。
ミシェル本人より。
ずっと曲線的だった。
アレックは頭を振った。
「愛してるのはミシェルだ。ミシェル」
胸の針は。
まだ刺さっている。
結婚式への不安だ。
そう言い聞かせた。
披露宴と式が行われる場所を歩いた。
公式印章が並べられた机へ近づく。
その中に。
Sの形をした。
コバルトブルーの印章があった。
アレックは。
それを見て微笑んだ。
手に取る。
指で。
ゆっくり撫でた。
自分が何をしているのか気づいたとき。
周囲を見回した。
誰もいない。
そっと元の場所へ戻し。
自室へ向かって歩き始めた。
上着の中へ手を入れる。
種は。
まだそこにあった。
どうしてミシェルが。
自分に持たせたままにしているのか。
わからない。
本に出てきたかどうかも。
アレックには思い出せなかった。
儀式用の服を着て。
印章を持ち。
筆記具を持っていかなければならない。
部屋へ戻ると。
短い風呂に入る時間くらいはあることに気づいた。
浴槽へ湯を張った。
ぬるい湯へ入る。
無臭の石鹸で体を洗った。
――ここでミシェルのことを思い出すんだ。
頭の中が。
そう言っている。
湯は。
相変わらずぬるかった。
まだカアシュにいるのだ。
本当に。
熱い風呂が恋しい。
ミシェルが。
『ゴッドファーザー』の大ファンだったことを思い出した。
なぜか。
浴槽の中で死んでいる自分の姿を想像した。
以前。
浴槽用のバスソルトを作ってくれないかと。
それとなくミシェルへ頼んだことがある。
彼女は微笑んだ。
前屈みになり。
胸元を大きく見せながら。
アレックの顎をつかんだ。
顔を近づける。
「あなたは浴槽だけ用意して。あとは私がやるから」
そう言った。
顔は。
すぐ目の前だった。
もちろん。
キスはしなかった。
いつだって。
しない。
たぶん。
全部。
結婚式のために取ってあるのだろう。
アレックは服を着た。
鏡を見る。
赤い燕尾服風の上着を整え。
身だしなみを仕上げようとした。
格好よく見えなければ。
今日は。
人生で一番幸せな日なのだから。
だが。
何度鏡を見ても。
自分が格好いいのか。
悪いのか。
わからなかった。
ただ。
何かが。
噛み合っていない。
それだけはわかった。
何なのか。
わからない。
正装した自分を見ていると。
最後にこういう服を着た日のことを。
思い出さずにはいられなかった。
アビの葬式。
あの日は黒い服を着た。
とてもきちんとした。
黒い服。
父親が。
自分の母親であるアビに別れを告げるために。
家へ戻ってきた。
数少ない日の一つだった。
葬式のほとんどを。
父は棺の前で泣いて過ごした。
苦しそうな呻き声まで漏らしていた。
アレックは。
父親がそんな声を出せる人間だとは。
思っていなかった。
死んだアビを。
アレックには見せてもらえなかった。
眠っているようだった。
そう聞かされた。
七歳だった。
そして。
その日から。
家は静かになった。
毎日。
午後は一人。
もう一人でいられる年齢だから。
両親はそう言っていた。
本当は。
預けられる人がいなかっただけだ。
近所の女性が。
学校から迎えに行ってくれた。
たまに。
その家で食事もした。
だが。
ほとんどの日は。
アレックを家へ送り届けるだけだった。
楽しかった時間は。
料理をしているときだけ。
柔らかな手が。
自分の手に重なり。
ちゃんと切る方法。
ちゃんと料理する方法を。
教えてくれているような気がした。
そして。
誰かが頬にキスをして。
自分を気にかけてくれるようになるまで。
孤独は終わらなかった。
アレックの手が。
自分の頬へ触れた。
――レメディオス・バロのTシャツについて、誰かが聞いてきたとき。
頭の中で。
勝手に思い出した。
その記憶に。
無理やり笑顔を重ねた。
時間が経ってから。
ミシェルが同じようなことを。
ほかの同級生にもしていると知ったけれど。
自分は特別だった。
それに。
彼女は人に思わせぶりな態度を取るのが好きなのだ。
仕方ない。
アビはいなくなった。
そして。
自分を一人にした。
身支度を終えると。
公式印章と。
正式手続き用の筆記具を手に取った。
そして。
以前マノロが入っていた箱を見る。
片手を。
その上へ置いた。
――今の俺の頭の中は、赤より青のほうが多いのかな。
深く息を吸った。
廊下へ出る。
ついに。
愛する赤毛の少女と結婚するときが来た。




