第13話 ケーキ、ケーキ
「そうよ、あなた。ケーキは七段じゃなきゃ」
ミシェルは、アレックが自分の髪を見ていることに気づいた。
彼が手を伸ばす。
触れようとしている。
「どうしてそんなに大きくなきゃいけないんだ?」
ミシェルは彼の腕に絡みついた。
胸がほんの少しだけ触れるように。
「人生で一番大切な日に、つまらないケーキなんて出せないでしょう?」
アレックの体が強張った。
ときどき、自分の腕を見ている。
「もちろん。そうだな。菓子職人たちと話したほうがいい」
ミシェルはアレックへ顔を寄せ。
耳元で囁いた。
「さすが、私の未来の旦那様」
アレックの顔が真っ赤になった。
ミシェルは微笑んだ。
狙いどおり。
「それで? 行政官たちはユルを見つけた?」
ミシェルはアレックの腕を、ほんの少し強く抱いた。
「いや。さっきも言ったけど、残っている混沌の種を持って宮殿を出たことしかわかってない。しかも、俺になりすまして」
アレックは彼女をじっと見た。
「君も種だろ」
真顔だった。
「まあ、そうだけど。とにかく、まだ見つかってない。あの連中の仕事が遅いせいでも驚かないけどね」
アレックは、小さな布切れを取り出した。
ミシェルに気づかれていないと思っているとき。
ときどき、それを眺めていた。
「俺が見てきたかぎり、あいつらは仕事のできる連中だよ」
ミシェルはもう一度、体をアレックへ寄せた。
ぴったりと。
「それで、大きな机を置いた舞台のほうは?」
アレックはまだ布切れを見ている。
ミシェルはさらに密着した。
全身をアレックへ預け。
顔を彼の首元へ近づける。
アレックは布をしまいながら、彼女を見た。
「何が?」
ミシェルの口を見ている。
ミシェルは少し黙った。
アレックの視線は。
まだ唇から離れない。
「大きな机を置いた舞台」
ほとんど耳元で。
ゆっくりと言った。
言葉と一緒に吐息がアレックの耳へ触れるよう。
意識して声を出す。
アレックは。
ただ汗をかいていた。
「そ、そ、そうだな」
どもった。
ミシェルはすぐに彼から離れ。
両手を宙へ上げた。
「素敵だと思うわ。全部、私が整えてくる」
アレックは固まったままだった。
「それじゃあ失礼するわね、あなた。やることが山ほどあるの」
そう言って。
宮殿の厨房へ向かって歩き始めた。
アレックは。
彼女が遠ざかっていくのを、ずっと見ていた。
ここ数日。
結婚式の準備は簡単ではなかった。
馬鹿なアレックが。
やりたがらなかったからだ。
ミシェルはカルダックの行政宮殿を出た。
中央広場には、すでに大きな天幕が張られている。
今では第175条を発動しようとしても。
行政官たちは抵抗するようになった。
どうやら。
最高行政官本人の承認がなければ、発動できないらしい。
彼がウルだったのは幸運だった。
意識を失っている彼を見た瞬間。
計画を変える必要があるとわかった。
魔法なんて使う必要がある?
この男はもう。
自分の手のひらから餌を食べているのだから。
ブロクが二人。
式場へテーブルを運んでいた。
ミシェルは、自分で選んだ花瓶へ近づいた。
最高行政官への敬意を表し。
赤いフルール・ド・リスが飾られている。
混沌の魔法を使い。
もう少し自分好みの姿へ変えた。
予想どおり。
頭の中から。
何かが引き抜かれた。
ミシェルは自宅の屋上にいた。
箱から。
細心の注意を払いながら、一株の蘭を取り出している。
プロステケア・コクレアータ。
ようやく。
自分の花のコレクションへ加えられる。
用意しておいた場所を見た。
そこへ置く。
眺めた。
シャリー・ベイビーのチョコレートのような香りが。
周囲を満たしていた。
戻ってきた。
目の前には。
今しがた作り替えた花瓶の飾り。
アレックなら喜ぶだろう。
少なくとも。
皮肉を理解できれば。
たいてい。
一緒にいるときのアレックは。
世界に自分以外の人間など存在しないような目で彼女を見ていた。
隣でラウラが。
まったく隠す気もなくアレックを口説いていたときでさえ。
ミシェルは。
アレックに好かれている自分が好きだった。
だが。
アレック本人となると。
まあ。
それは別の話だ。
仕立屋のいる建物へ向かって歩いた。
中へ入り。
自分のために作らせたドレスを。
もう一度眺める。
もちろん。
少しだけ手伝った。
記憶が二つ三つ減っただけで。
ライブ配信をするためのスマホがないことを。
また残念に思った。
建物の奥へ進む。
ようやく厨房へ着くと。
口論が起きていた。
どうやら。
七段のウェディングケーキは。
馬鹿げた規則か何かのせいで作れないらしい。
この世界に足りないものがあるとすれば。
規則ではない。
だが。
もう大丈夫。
救世主が到着した。
未来の女王。
どこかに保管されているはずの混沌を。
彼女が解放する。
馬鹿な本には。
どこにあるのか明記されていなかった。
だが。
それさえできれば。
この世界には再び色と無秩序が戻る。
運がよければ。
ネットでライブ配信ができる程度のものも。
「奥様。この高さのケーキを作るのは不可能です。式のあいだずっと展示するのであれば、もっと低い温度で保管する必要があります」
「まだ奥様じゃないわ。お嬢様でお願い。それと、ケーキは七段よ。何か方法を見つけてくれると信じてる」
「では、法律に違反しない方法で実現する手段を探す許可をいただける、ということでよろしいでしょうか?」
「ええ。必要なことは何でもして。七段。それから、私のドレス姿の人形と、ウル最高行政官が正装している人形もね」
料理人は、まだ若い顔立ちの小柄なナクだった。
うなずく。
そして厨房へ戻り。
ほかのスタッフを集め始めた。
ミシェルは厨房を出た。
規則どおり手を洗い。
流し台の横へ自分の印を押す。
それを確認してから。
入口の警備員が彼女を外へ出した。
ミシェルは自分の印を眺めた。
ダリアで飾られた王冠。
もっと幼かったころに行った展示会を思い出した。
ビベロス・デ・コヨアカン。
店の主人たちが。
展示のコンテストをしていた。
とりわけ美しいものがあった。
黒に見えるほど。
濃い赤のダリア。
あの花が大好きだった。
これを。
自分の家の紋章にしよう。
アレックとは。
作るつもりのない家族の。
厨房として使われている建物の裏口から出た。
カルダックの色彩は。
やることがどれほどあっても。
思わず建物を眺めてしまうほどだった。
ラウラ。
あの女は本物の芸術家だ。
ほかのみんながどうなったのか。
また気になった。
本には。
捕まった勇者たちがその後どうなったのか。
一度も書かれていなかった。
ラウラがアレックの何を気に入っているのかも。
理解できない。
そして。
まだアレックを始末する方法も見つかっていなかった。
彼と寝るつもりはなかった。
好かれているのは好き。
でも。
そういう意味ではない。
タマレスを売っている女性を見つけた。
一つくらい食べても。
誰も困らないだろう。
「おばさん、タマレスは何があります?」
ミシェルは自信たっぷりに聞いた。
「タマレス? そう呼ぶのはあんたで二人目だよ。これは包み飯」
最初の一人は。
たぶんアレックだろう。
今のところ。
キスすらせずに済んでいる。
結婚式では。
さすがに拒めないだろうが。
そして。
ある手続きについて理解したところでは。
その先まで避けるのも。
難しいかもしれない。
もっとも。
実際に初夜を済ませなくても。
うまく切り抜ける方法はある。
「その黒いソースのを一つください。唐辛子と種を混ぜたみたいな匂いがする」
女性は笑顔になり。
包み飯を一つ渡した。
ミシェルは食べ始めた。
モーレだ。
満足そうに首を振った。
「ありがとう、おばさん」
「で、お代は?」
「ごめんなさい。婚礼担当の行政官に、あとで払わせるわ」
女性はうなずいた。
「あんた、こないだ来た金髪の行政官と仲良しなんだね。あの人もこの包み飯を食べて、まったく同じ顔してたよ」
アレックが。
結婚式でこれを出したがっていた理由が。
ようやくわかった。
「それじゃあ、そろそろ店を閉めないとね。明日の結婚式のために、包み飯を五百個作らなきゃならないから」
明日。
ミシェルは結婚している。
子どものころ。
この日を何度も夢見た。
もう子どもではない。
法律というものは。
面白い。
自分のような女の子を守ってくれる。
だが。
自分のような女の子が。
その法律を利用することまでは。
どうやら想定していない。
そういう意味で。
子ども扱いされるのが好きだった。
そして。
そのおかげで、いろいろ学んだ。
誰かと寝たように見せかける方法まで。
アレックなら。
きっと気に入る。
自分には。
快適ではないだろう。
だが。
この物語のヒロインになるためには。
多少の犠牲も必要だ。
包み飯の葉を。
近くのごみ箱へ捨てた。
間違ったごみ箱だった。
黄色いベストを着た小柄なナクが。
すぐに罰金票を渡してきた。
ミシェルはそれを破り。
同じごみ箱へ捨てた。
罰金票を破っても、罰金は取られない。
ありがたいことだ。
浴槽で。
アレックに人生をアンフォローさせることも考えていた。
だから。
彼の部屋に浴槽を置くよう。
わざわざ強く要求していた。
そのことを考え。
突然。
立ち止まった。
後ろで書式に記入しながら歩いていたマシオサレが。
そのままミシェルの尻へぶつかった。
ナクが衝突した瞬間。
ミシェルは飛び上がった。
「気をつけて」
「申し訳ありません、お嬢様。婚礼に必要な手続きをすべて処理するのは、ほとんど不可能な作業でして」
ナクは小さく頭を下げた。
ミシェルが教えた礼儀だった。
ミシェルは立ち尽くした。
アレックを殺す。
必要なことのように思える。
でも。
それでは。
自分が悪役になるのでは?
板挟みだった。
アレックを殺すか。
アレックと寝るか。
利害のために誰かと寝るのも。
少なくとも。
初めてではない。
ネットで女の子のところに。
どんな誘いが届くのか知ったら。
みんな驚くだろう。
だが。
今回はアレックだ。
全身に震えが走った。
笑顔を一つ向けただけで。
これほど自分に夢中になる男。
もし。
自分のすべてを手に入れたら。
どうなる?
社会向けの仮面を外した。
本当の自分まで知ったら。
「それは無理」
思わず声に出た。
自分の肩をつかむように。
両腕を胸の前で交差させた。
マシオサレは。
何か続きを言うのかと待ちながら。
彼女を見ていた。
ミシェルはそのまま歩き出した。
マシオサレもついてくる。
今度は数歩後ろから。
答えは。
青い髪の女にあるのかもしれない。
原作で。
ウルの闘士だった女。
ユル。
ここ数日。
アレックがどこか混乱しているのには気づいていた。
そして。
コバルトブルーのものを見るたび。
どうしても手を伸ばして撫でてしまう。
あの女のせいかもしれない。
だったら。
あの女にくれてやればいいのでは?
姉妹にブラウスを盗られたときみたいなものだ。
自分では。
それほど着ていなかったとしても。
ユルがアレックを操っていないことは。
わかっている。
もしアレックを捕まえたのなら。
ユルが。
ただユル自身でいたからだ。
鍵は。
あの女を捕らえること。
そうすれば。
アレックをコントロールしておける。
少なくとも。
自分には手を出させずに済む。
もしかしたら。
刑務所へ面会に行かせるとか。
それも。
あまり気に入らない。
だが。
今のところ。
一番ましな案だった。
時間をかければ。
アレックという人間を知ることもできる。
そして。
もしかしたら。
ユルを見るように。
自分を見させることもできるかもしれない。
「反乱者たちの捕獲は、どうなってる?」
マシオサレは床を見ながら。
意味もなく何かを書き始めた。
「マシオサレ。とぼけるのやめて。怒らないって約束するから」
「お嬢様。それ、これまでにも四回お約束になりました」
「今度こそ学習したかもしれないでしょう」
「七段のケーキについては、解決できるかもしれないという報告が届いたところです」
「マシオサレ……」
小さなナクの耳が垂れた。
「まだ捕まえられていません。どうやら、これまでの進捗記録すら残っていないようでして」
ミシェルは。
何かを壊さなければならなかった。
ナクを見つめた。
混沌の魔法で。
中国風の壺を一つ作り出す。
両手でつかみ。
床へ叩きつけた。
そして。
静かに息をした。
「ほら。大丈夫。マシオサレ、最優先はあの女を捕まえることよ」
マシオサレは。
また床を見た。
一人のナクが。
粉々になった壺へ近づき。
何かを記入し始める。
「申し訳ありません、お嬢様。やはり最高行政官に、何か対応していただくようお願いしたほうがよろしいのでは」
話に割り込んできたナクが。
罰金票らしきものを書き終え。
ミシェルへ渡した。
そのあと。
受領書への押印を求める。
ミシェルは押印した。
ナクが背を向けると。
罰金票を細かく破った。
壊れた壺の上へ置く。
呼吸する。
「よく聞いて、マシオサレ。ウルには何も言わない。知られたら駄目」
「ですが……」
「『ですが』もなし。何も知られちゃいけない。わかった?」
ナクはうなずいた。
耳を垂らしたまま。
ユルのことなら知っている。
それも。
本で嫌というほど。
彼女の正義感なら。
必ず結婚式へ乱入する方法を見つける。
公開処刑をでっち上げればいい。
ユルをおびき出し。
捕まえる。
そうすれば。
アレックも。
カアシュのすべても。
ついに自分のものになる。
そして。
彼らを解放できる。




