第8話 現実
赤は、アレックの目にはもう美しく映らなかった。
今では、赤を見るだけで息が止まりそうになる。
アレックはユルに近づき、その手を取った。
ユルも光景を目にした瞬間、アレックの手を強く握り返した。
宮殿の広場。
巨大な血だまりの中に、一人のナクが倒れていた。
風に散らされた書式が、その上を舞っている。
右手がなかった。
手首から切断されていた。
アレックは吐き気を覚え、その場に吐いた。
それから、ナクの顔を見た。
覚えている。
出発のとき、馬車に荷物を積み込んでくれたナクの一人だった。
見開かれた目には恐怖が残ったまま、空を見つめている。
殺されて。
壊れた玩具みたいに捨てられていた。
アレックは立ち上がり、ユルに手を差し出した。
彼女はその手を取った。
二人で宮殿へ入った。
中央の廊下を進む。
血の跡をたどると、人間の死体があった。
その男も右手を失っていた。
胸の上には、小さな玩具の自動車が置かれていた。
壁は、血で塗られた手形で飾られているようだった。
アレックはユルの手を握り続けた。
知っている者の死体を見つけるたび、彼女を抱きしめた。
ユルを気遣っていれば、自分の胸の中にあるものから少しだけ目をそらせた。
階段を上り、中央事務区画へたどり着いた。
扉を開けると、サルバトーレの専属補佐官である大柄なブロクが、複雑な結び目で縛り上げられていた。
彼女も右手を失っていた。
アレックとユルはサルバトーレの執務室へ入った。
誰もいない。
机の上に、手書きの文字が書かれた封筒が置かれていた。
「天より」
中には手紙が入っていた。
最高行政官殿
お前だということはわかっている。
こんなふうに自由を押さえつける国の支配者になれるのは、お前みたいな哀れで病的な執着男くらいだからな。
正義はやって来た。
そして、裁きも。
自由と創造性を押さえつけてきた「右腕」は、今や解放の象徴になる。
本当に勝てると思っていたのか?
ミシェルをお前のものにできると?
お前の「右腕」にこれ以上何かされたくなければ、宮殿のテラスで待っている。
一人で来い。
武器は持ってくるな。
ホアナ、フアン
追伸
フアンを紹介してくれてありがとう。思っていた以上に役に立つ相棒だったよ。
アレックは、初めてフアンを読書サークルへ連れて行った日のことを思い出した。
完全に自分のせいだ。
ミシェルが腕を組んでいるところを自慢したくて、みんなで写った写真を興奮しながらフアンに見せたのだ。
なのに、あの馬鹿はホアナに夢中になった。
アレックは、未来なんてないと言ってやった。
叔父の言い方を借りれば、ホアナはローラ・ラ・トライレラよりレズビアンだった。
もっとも、アレックはローラ・ラ・トライレラが本当にレズビアンなのか知らなかった。
ただ、まあ。
トラック運転手なんだから、そうだろ?
たぶん。
そしてホアナは……
「これは何ですか? 何が書いてあるのかわかりません」
そこで初めて、アレックは手紙がスペイン語で書かれていることに気づいた。
「サルバトーレを捕まえてる。俺が先に行く。先にあの女を片づけてくれ」
ユルは手紙を机に置いた。
床に何かを見つけ、しゃがみ込む。
拾い上げると、アレックに差し出した。
サルバトーレのコバルトブルーのスカーフだった。
「必ず助けましょう」
アレックがスカーフを受け取ろうと手を伸ばすと、ユルがその手を握った。
二人はしばらく見つめ合った。
「もう一つ」
アレックは巻かれた羊皮紙を取り出した。
「もし俺が意識を失ったときのための第175条だ。最後の種は、殺さずに君に処理してほしい」
ユルは紙を受け取り、片方の口角だけを上げた。
「了解しました、アレック。第175条に基づき、この件の行政処理を私が引き継ぎます」
「頼んだ」
アレックはユルの手を離し、テラスへ向かった。
行政宮殿にテラスがあるというのは、アレックには妙に場違いに思えた。
実用性なんてなさそうだった。
アビの家のテラスが最後に使われた日のことを思い出した。
家族が集まった日。
台所には、まだエプロンが掛かっていた。
アレックが料理をすると言い、父が手伝った。
二人で玉ねぎを切った。
涙を流しながら。
父はアビのエプロンを見ていた。
——マノロ。俺が何を考えてるかわかるか? できると思う?
『あなたに会う前なら、不可能だと言ったでしょうね。でも、できる人がいるとすれば、あなたです』
「この玉ねぎ、すごく目に染みるな」
父は、タコスの薬味のせいにして涙を隠した。
アレックには、玉ねぎのせいではないとわかっていた。
でも、父の嘘を暴くつもりはなかった。
「うん。すごい玉ねぎだね」
二人はそう言って、テラスへ向かった。
そこで父とそのきょうだいたちは、アビを偲んで最後に集まった。
『ちなみに、テラスは行政官が休息を取るための場所です。適度な休息は生産性を向上させることが確認されています』
——マノロ……
『すみません。思い出が多すぎて、何を言えばいいかわからなくなりました。緊張したのです』
アレックには、それが妙におかしく思えた。
マノロは道具ではない。
人だ。
少なくとも、アレックはそう思っていた。
『そうですよ。私はれっきとした人間です。少なくとも、昔は……』
この件を生き延びたら、手袋とはきちんと話をする必要がある。
『話しましょう。今は不安で死にそうでも黙っています』
アレックはテラスへ続く広間を歩いた。
片方の扉が大きく開かれている。
テラスに出ると、サルバトーレが床に行政印を描いていた。
血で。
ホアナが恍惚とした表情でそれを眺めている。
青いジーンズに、ピンクのポロシャツ。
その隣には、全身黒ずくめのフアンが立っていた。
「リチャード・ラミレス?」
アレックはフアンを見た。
「さすがにそれは、創造性がなさすぎるだろ、ホアナ」
ホアナはアレックを見て、意地の悪い笑みを浮かべた。
「いつも結論を急ぐのね、アレック。よく見なさいよ。あなたの共犯者が何をしているか」
そこで、アレックは気づいた。
サルバトーレは震える片手を床について、どうにか体を支えていた。
もう片方の腕は手首から先がない。
そこから血が流れていた。
切断された手首を床に押しつけ、血で印を描いていた。
テラス一面が、血の行政印で埋め尽くされている。
アレックはサルバトーレのもとへ駆け寄り、その体を抱き上げた。
「サルバトーレ……」
「……閣下?」
年老いたナクがアレックを見た。
「そうだ。サルバトーレ。俺はアレックだ」
サルバトーレの目に涙が浮かんだ。
「そうか……アレックというのですね」
「知ってたのか?」
「最初は……ご病気なのだと思っていました」
ナクは言葉を切り、血を吐いた。
「話さなくていい。休んで」
「そのあと……わかりました」
サルバトーレはアレックを無視して続けた。
「白い花と蜂蜜のお茶を……私にくださった日です」
「カモミールティー? 喉を痛めてただろ」
「あれは……今まで口にしたものの中で、一番おいしかった」
サルバトーレはわずかに笑った。
「一年分の定期審査が……一分で終わったような気分でした」
「気に入ってくれてよかった」
サルバトーレはまだ血を吐いていた。
「もし、あれが芸術なのなら……私が間違っていたのかもしれません」
息を吸った。
「ありがとう……」
アレックはサルバトーレの手を握っていた。
その力が、突然なくなった。
サルバトーレはアレックを見たまま、呼吸を止めた。
顔には大きな笑みが残っていた。
「サルバトーレ!」
アレックは体を揺さぶった。
反応はない。
濁った瞳は、もう何も見ていなかった。
アレックはサルバトーレを見つめた。
ありえない。
現実なわけがない。
もっと強く揺さぶれば、起きるような気がした。
だが、年老いたナクは動かなかった。
マノロの声が、アレックの頭の中に響いた。
『いつもあなたについて回っているあの行政官は、これを知ったらひどく悲しむでしょうね』
そうだ。
サルバトーレは殺された。
アレックはホアナを見た。
苦しませたかった。
痛みを与えたかった。
こいつが皆に味わわせた恐怖を。
サルバトーレに味わわせた恐怖を。
ユルがここにいなくてよかった。
これを見せたくなかった。
ユルが来る前に、サルバトーレのために何かしてやりたかった。
アレックは老いたナクの目を閉じ、床に静かに寝かせた。
「……芸術家か?」
もちろん返事はない。
アレックは横に唾を吐いた。
書式を一枚取り出し、記入した。
そしてサルバトーレの遺体の横に置いた。
老いたナクの両腕を取り、胸の上に重ねた。
笑顔のままのその顔は、眠っているように見えた。
アレックの体を震えが走った。
本当に眠っているだけならよかったのに。
小さく頭を下げた。
そして、ホアナとフアンに向き直った。
フアンは目を大きく見開いていた。
口元は、わずかにへの字に曲がっている。
アレックは片膝をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。
そしてホアナの目を真っすぐ見た。
「お前は、自分が何をしたのかわかってない」
声は静かだった。
自分でも驚くほど静かだった。
ホアナは笑った。
「化け物を、そいつ自身のやり方で殺して、そのついでにエルティデールを解放した。それだけよ」
アレックはフアンを見た。
「いつまでこいつの芝居に付き合うつもりだ?」
フアンは目を見開いたまま、アレックを見返した。
「お、俺たちは……英雄なんだ……」
声が震えていた。
アレックは手袋をはめた手を上げた。
地平線の向こうから雲が湧き始めた。
空を完全に覆い尽くす。
世界が暗くなった。
雲の中を青い稲妻が走る。
閃光のあと、少し遅れて雷鳴が届いた。
その光がアレックを照らした瞬間。
指を鳴らした。
青い雷が、アレックとフアンの間に落ちた。
「そして俺が、お前たちの悪役だ」
囁きだった。
なのに、声はテラス全体に響いた。
フアンとホアナは瞬きもせず、アレックの次の動きを待っていた。
だから。
二人の背後に現れた扉には気づかなかった。
扉からユルが現れた。
剣を手に。
ゆっくりとホアナへ近づいていく。
「それだけ?」
ホアナがアレックを嘲笑った。
「雷一本?」
「雷を呼ぶのは、かなり優秀な呪文だ」
アレックはフアンを見ながら言った。
最後に使ったときのことを思い出した。
あのときは、オークの軍勢を雷で吹き飛ばした。
最後にはフアンと二人で笑いながら、アイスを買いに行った。
誰がどう活躍したか、互いに少しずつ話を盛りながら。
フアンはアレックを見た。
そして、小さくうなずいた。
今日は、同じ呪文が重かった。
フアンやホアナに向けることも。
こんなこと、したくなかった。
ホアナが手を振った。
床に描かれた行政印から、手が生えてきた。
それぞれの手には、金属のペン先を持つペンが握られている。
無数の手がアレックを取り囲んだ。
一斉に襲いかかる。
アレックは青い雷を呼び、一つずつ撃ち落としていった。
それでも歩みを止めない。
ホアナへ向かう。
手が飛んでくる。
雷がアレックの周囲を走り、盾のように守った。
一本が雷の隙間を抜けた。
金属のペン先が、アレックの腹に深く突き刺さった。
血が流れ始める。
そして。
アレックは笑った。
その瞬間。
ホアナの胸から、血に濡れた剣先が突き出した。
ホアナは血を吐いた。
ピンク色のポロシャツが、赤く染まっていく。
その光景が凍りついた。
次の瞬間、そこには一枚の絵があった。
ユルの剣がホアナを貫いた場所だけ、キャンバスが裂けている。
そしてホアナの髪が液体になった。
滴り落ちるたびに、体まで溶けていく。
まるで絵の具だった。
最後には床の上に、ピンクと赤の絵の具の水たまりだけが残った。
それがフアンの隣まで這っていく。
そこでもう一度、人の形を取った。
完全なホアナに戻る。
今度は黒いシャツを着ていた。
胸には円と十字の印。
ホアナはユルを上から下まで眺め、下唇を噛んだ。
「へえ。遊べそうな可愛い子までいるじゃない」
それからアレックを見た。
「まあ、あなたの女の趣味だけは昔から悪くないわね」
アレックは再びホアナを見た。
歩き始める。
「群れで狩るか」
フアンに向かって、わずかにうなずいた。
その瞬間、フアンが背後からホアナを抱え込んだ。
腰のあたりから両腕を押さえる。
ホアナは体をねじり、激しく抵抗した。
だが、フアンは離さない。
無数の手がフアンへ飛んだ。
透明な壁に衝突する。
ぶつかった瞬間だけ、障壁の姿が浮かび上がった。
二人がもみ合うたびに、色とりどりの光が弾けた。
閃光がテラスを照らす。
アレックはゆっくりとホアナへ歩いた。
彼を襲おうとした手は、光と光の間の暗闇へ消えていく。
ホアナはさらに激しく暴れた。
ついにはフアンの鼻へ頭突きを食らわせた。
鼻血が流れる。
「ほんっと負け犬ね、フアン!」
ホアナが叫んだ。
「どうせ童貞のまま死ぬんでしょうね!」
フアンは彼女を押さえたまま笑った。
何も言わない。
色とりどりの閃光が、二人から放たれ続けた。
光るたび。
アレックが一歩近づく。
一歩。
もう一歩。
そして気づけば。
ホアナの目の前にいた。
アレックは片手で彼女の首をつかみ、そのまま持ち上げた。
フアンが手を離す。
アレックの手袋から、黄金の光が流れ出した。
光がホアナを包む。
彼女の体が、無数の色に輝き始めた。
「何したの? なんで動けないの?」
ホアナは完全に静止していた。
指一本動かない。
アレックは何も言わず、彼女を見ていた。
ホアナの体が震え始めた。
涙が流れる。
「やめて」
声が変わった。
「それだけはやめて」
「あんた、頭おかしいよ、アレック。やっぱり変態だったんだ」
アレックは何も言わない。
「やめてよ、アレック。友達でしょ?」
涙が頬を伝った。
「同じ女まで好きなんだから!」
アレックはホアナをつかんだまま、ポケットからサルバトーレのスカーフを取り出した。
「今お前が想像したようなことは、俺には考えることすらできない」
アレックの頬を、一筋の涙が流れた。
サルバトーレなら。
プロトコルに従えと言っただろう。
だが。
お前には、その価値もない。
黄金の光が縮んでいく。
無数の色が、一点へ集まり始めた。
「離して!」
さらに凝縮する。
ホアナの服から色が消えた。
灰色になっていく。
「痛い!」
ホアナが叫んだ。
フアンは顔を覆った。
黄金の光は、ホアナの胸の上で小さな球体になった。
アレックは拳を握り、それを引き抜いた。
大量のエネルギーが空へ飛び出す。
上空で爆発した。
光が四方へ散っていく。
ホアナは喉が裂けそうな悲鳴を上げた。
涙が両頬を流れている。
アレックが手を離すと、彼女は膝から崩れ落ちた。
「……馬鹿」
ホアナは息を荒らしながら言った。
「今に見てなさい」
もう一度、両手を上げる。
何も起こらない。
ホアナは自分の手を見た。
空を覆っていた雲が消えていく。
「もう誰も傷つけられない」
ホアナは立ち上がろうとした。
アレックに拳を振り上げる。
ユルが背後から腕を取り、手錠をかけた。
フアンは一部始終を見ながら笑っていた。
「ありがとう、友よ」
アレックは彼を見た。
「友達?」
息を吐いた。
「お前、最初から知ってただろ。こいつ、女が好きなんだぞ……」
フアンは笑い、顔を真っ赤にした。
アレックの体から力が抜けた。
膝をつく。
ユルがすぐに駆け寄った。
アレックの腕の下に肩を入れ、体を支える。
もう片方の手を、彼の胸に置いた。
「ここからは私がやります」
「サルバトーレは?」
ユルは首を横に振った。
アレックは、年老いたナクの姿を思い出した。
誰かの顔に印を押していたときの、あの優しい表情。
何かを提案するとき、いつもしていた顔。
アレックとユルは抱き合った。
そして。
二人とも声を上げて泣いた。
しばらくして、ユルがアレックの服を見た。
目を見開く。
「アレック、怪我してる!」
アレックも自分の腹を見た。
シャツも。
ズボンも。
血まみれだった。
「行きましょう。治療してもらわないと」
アレックはユルの肩に体重を預けた。
二人は病院へ向かった。




