第7話 息もつけず
アレックは目を開けた。逆光の中に、顔がひとつ。
女だった。腫れぼったい目は、コバルトブルー。
ユルだ。
アレックは思い出した。色とりどりのものを吐いたこと、体から力が抜けていく感覚、そしてそのあとは何もわからなくなったこと。
気を失ったのか?
服を脱がされていたことに気づいた。
——マノロ!
どこに置かれたのか、あたりを見回した。
「落ち着いてください、アレック。聖遺物ならそこにあります」ユルの声がアレックを落ち着かせた。
手袋を見た。胸の上に載っていた。
ユルは彼の手を取り、なでていた。アレックを見つめながら、微笑んでいた。
「ここは?」
「カルダックです。地区の役所に、こういう状況のための部屋があるのです」
部屋はカーキ、灰色、黒。家具はすべて機能一辺倒で、無駄がない。目に入る色といえば、ユルの髪の青だけだった。
腫れた目を見れば、泣いていたのがわかった。
「どれくらい気を失ってた?」
「一週間……」
ユルは震える手で書式を記入していた。
「ごめん」
「なぜ謝るのですか?」ユルは腫れた目のまま、アレックを見つめ続けた。
「嫌な思いをさせた」
そう言いながら、アレックは壁の方を見た。
「失礼を承知で言いますが、アレック。あなたは馬鹿です」
アレックはユルを見た。頬をふくらませ、眉をひそめていた。
「今度は何をした?」
「あなたのことが心配なんです。それはあなたにはどうにもできません」
アレックは自分の手をなで始めた。そうすると落ち着いた。
「俺は何を見逃した?」
「種が帝国じゅうに混沌をまき散らしています、アレック。今いちばん危険なのは、そのうち二つが宮殿そのものに近づいていることです」
二つなら、どちらもミシェルでないのは明らかだ。あの読書サークルで残っている二人は、いつも一緒に行動している。アレックはそれを知っていた。
「一刻も早く発とう」やっとそれだけ言った。
ユルは動かなかった。
「待ってください。発つ前に、どうしても知っておきたいことがあります。どのみち、何も変わりはしません。どのみち、あなたが最高行政官であることに変わりはない。それははっきりしています」
アレックは汗をかき始めた。
「何が知りたいんだ?」
ユルは手帳を取り出した。この数日のアレックの行動が並べて記されていた。
「私の胸元を見た」の横には、印がびっしり並んでいた。
「あなたがウルではないと疑っていました。でも今は、確信しています。それなのに、あなたは行政魔法を使える。しかも、種を絶つのに手を貸している」
ユルがこの話をどこへ持っていこうとしているのか、アレックにはいまひとつ読めなかった。ただ、この場を離れたくなり始めていた。
ユルは黙った。
アレックは、話すよりほかなかった。
「本当だ。俺はウルじゃない。でも行政官ではある。それに、俺も種を止めたいと思ってる」
——少なくとも、その大半は。
ユルはため息をついた。
「ありがとうございます。今のところ、彼女たちがこの世界最大の脅威です。これが終わったら、あなたが何者で、どうやってウル様になりすましたのか、きちんと説明していただきます」
そのときに何を話せばいいのか、アレックには見当もつかなかった。
だが、その会話が今すぐではないとわかって、ほっとした。
「わかった。とにかく今は急ごう。首都へ向かってる二人が俺の思っている人物なら、宮殿の連中が危ない」
ユルはすぐに書類を記入し始めた。
アレックはサルバトーレのことを考えた。あの二人は、まっすぐ彼のところへ向かっている。
「やめてくれ、ユル……」
「でも、そういうわけには」
「緊急用のプロトコルか何かがあるはずだ」
ユルは宙を見つめ、数秒後に微笑んだ。あのいたずらっぽい笑み。アレックの心臓が大きく跳ねた。彼はサイドテーブルを見て、マノロを取った。
『アレック? 戻ってきたのですね……よかった。私は、あなたのことを何も知らなかったのですね。今なら、あなたのことがわかります』
——何の話だよ。
『あなたのお祖母さん、色、芸術……』
アレックは喉が詰まるのを感じた。
——俺に何が起きた?
ユルに見られないよう、手で涙を拭いながら、マノロに聞いた。
『あなたが呼び出した魔法の代償です。混沌が多すぎました……』
——そうか……思い出した。
マノロをはめ終え、そう答えた。
『お祖母さんは、素晴らしい方だったようですね』
——そうだよ。長いあいだ、俺を育ててくれたのは彼女だ。
『あなたをとても愛していたようですね』
アレックは、まだ喉が詰まっていた。
目が潤み始めた。
——ああ。でも、もういない。
『あなたの中に生きています、アレック。それがいちばん大事なことです』
——それが本当ならな。
『本当です。信じてください。本当なんです』
——お前のそういうところ、嫌いだ。
『こちらだって、あなたが声に出しているのか、頭の中で考えているのか、区別がつかないのですがね』
アレックはユルの手を取り、二人で階段を下りた。
馬車に着いた。
「これ、馬車専用に訓練された馬だよな?」アレックは、ジョエルに無理やり馬車馬に乗せられたあの日を思い出した。どうやら訓練のされ方が違うらしく、馬車馬に乗るほうが難しいのだという。くだらない、ばかげたルール。だが、たいていは現実の何かに根拠があるので、いちおう聞いておいた。
「乗馬用の馬ではありません、アレック」
思ったとおりだった。考えるより先に、ユルの手を取り、厩舎らしき建物へ走った。中では、ナクが一頭の馬を検分しながら書式を記入していた。
ユルは完全に面食らっていた。
『アレック、緊急要件第177条なら、あなたにもユルにも発動できます』マノロは、何が懸かっているのかを心得ていた。
アレックはナクに近づいた。
「緊急要件第177条を発動する。宮殿が、二つの混沌の種に襲撃される危険にある」
ナクは両耳を立て、口をぽかんと開けた。書式を落としそうになったが、それはプロトコルに反する。
「では地区管理官として、これを承ります。何が必要でしょうか」ナクはユルの髪を見ながら言った。
「いちばん速い乗用馬に鞍をつけてくれ。四頭だ」
「閣下、ですが、私たちは二人です。なぜ四頭も?」
アレックは、モンゴル人の話をしてくれた友人のフアンを思い出した。
「交代で乗るんだ。言うとおりにしろ。プロトコルを発動している。従え」
そこでようやくナクは我に返り、急いで厩舎へ入り、しばらくして四頭を連れて出てきた。
ユルがいつのまに馬車から荷物を取り出していたのか、アレックは見ていなかった。彼女はそれを馬の鞍袋に詰めていた。その様子をアレックは眺めた。制服のズボン姿だった。尻のラインがよく映えていた。
「準備できました、閣下。プロトコルどおり、二日分の食料も積みました」
「あるべき姿に」
「あるべき姿に」ナクはそう締めくくり、耳をぴんと立てて去っていった。
一歩ごとに、わずかに跳ねるような足取りだった。少なくとも、アレックにはそう見えた。
二人は馬に乗った。
何も言わず、アレックは映画の真似をして馬を走らせた。
二人は宮殿への帰路についた。
カルダックまでは一日半かかった。帰りにどれだけかかるかは、知れたものではない。
途中から、ユルが先頭に立った。
道中、二人は馬を交代しながら何度か休み、指定された給水所を見つけたときだけ馬に水を飲ませた。
アレックは太ももに痛みを感じ始め、やがて尻まで痛くなってきた。だが、止まりたくなるたびにサルバトーレを思い出した。この世界で最初に出会った相手だ。ナクを「人」と呼べるなら、だが。少なくともアレックは、サルバトーレを一人の人として見ていた。
サルバトーレは、彼に何かが起きていることを見抜いていた。そして、礼を尽くして導いてくれた。もちろん、プロトコルを破らずに、彼を気づかいながら。「あるべき姿に」と、彼なら言っただろう。
あの二人が、自分たちより先に着いたら……
『サルバトーレは無事ですよ、アレック。もうすぐわかります』マノロが言った。
そしてアレックは、それが嘘だと知っていた。
アレックは思い出した。同じタオルを一週間使い続けていた自分に、記入済みの書式を添えて新しいタオルを差し出してくれた、あの不機嫌なナク。第175条にさりげなく触れたひとこと。介助のために、わざわざユル本人を呼んでくれたこと。サルバトーレは、知っていたのか?
『もちろん気づいていましたよ、アレック。あなたがウルとどれほど違うか、ご自分ではわからないのですか?』
アレックは腑に落ちなかった。なぜサルバトーレが、あれほど危険を冒してまで自分をかばったのか。
『あなたは本当に馬鹿ですね、アレック。まだ隠し通せているつもりなのですか』マノロのその一言は、アレックをいっそう混乱させただけだった。
夜明けに宮殿へ着いた。迎えたのは、風に引きずられる書式の群れ。そしてアレックは、生まれて初めて、すべてに色があることを嘆いた。
赤。




