第七撃「ハニートースト」①
第七話「ハニートースト」は全3〜4回の予定です。
久しぶりに喰らわせてやる。今決めた。
まだ梅雨入り前だったが、むしむしする曇天だった。下着やワイシャツににじんだ汗が、男のムカッ腹をより煮えさせる。
年季の入った集合住宅や事務所が建ち並ぶ代々木駅近くの道を向こうから歩いてくるのは、スカートは履いていないが女子高生だった。最近増えてきた、スラックスもある制服ってやつか。
隣町にある、偏差値も学費も飛びきり高い、東京屈指の名門女子高の生徒だ。小柄で、いかにも育ちがよく大人しそうな雰囲気。“的”として悪くない。
平日の午後、駅前通りや商店街から少し離れたこの辺の人通りは少なかった。カマした後にそのまま走り去ってしまえば、追ってくるヒマなやつなどそういないだろう。見回した限り、防犯カメラも見当たらない。
一般に広まった「ぶつかりおじさん」という呼称は気に入っていなかった。小馬鹿にされているように感じる。
「女性とか、おとなしそうな人を狙うっていうのが最低だと思いますね。怖い人たちとかに突ってみりゃいいんですよ。『タクシードライバー』の主人公じゃないけど」。オールドメディアのヤングコメンテーターがエラそうにほざき、司会者から「いや、誰に突るのもダメです」とたしなめられていた。そんな題名の映画など知らないし、何一つわかっちゃいない。こっちは爽やかに鬱憤を晴らしたいのだ。反社や半グレに体当たりしてどうなる? チーターやハイエナがライオンを襲うかよ? 獲物はインパラやシマウマだろうが。
そのコメンテーターの顔立ちは、さっき自分のプレゼンをせせら笑いした、スタートアップ企業の社長と同じ系統だった。
あと少しで女子高生とすれ違う。カバンを両腕で胸の前に抱え、“構え”を作った。のほほんとした顔で歩いてやがる。おまえの温室の壁にちょっとだけヒビを入れてやるから、社会の理不尽さを勉強しろ。
射程距離に入った。膝を屈めてタメを作り、「ぅあっと!」とよろけた振りをして左肩から体を浴びせるーー。
なんの手ごたえもなかった。
体当たりは空を切り、勢いのまま、つんのめったように身体を反転させて男は仰向けに地面に倒れていた。カバンを抱えていたため受け身がうまく取れず、後頭部をアスファルトに打ちつけてしまう。倒れた拍子でカバンのサイドポケットからスマホが落ちた。
「うーーん…?」
頭の横に、紺のスラックスの両裾があった。目を上にやると、女子高生が心配そうに男を見下ろしていた。
何が起きたんだ。“的”を外したことなどない。今だって、このガキとの距離が1メートルもないタイミングで仕掛けたはずだ。このトロくさそうな女が、咄嗟に紙一重で躱したってのかーー。
「痴漢ってことでいいです?」
女子高生が言った。ほんわかとした優しげな声質だ。
俺は痴漢じゃない。暴漢さ。お前みたいなションベンくさいガキを好きな変態と一緒にすんな。しかし故意にぶつかってきたであろうオジサンを立ち止まって心配するなんて、どこまでトロい育ちなんだ。
なんにせよ立ち去らないとまずい。後頭部に痛みはあったが、どうにか立ち上がる。
「お怪我はないです?」
シスターみたいな口調だな。あの女子高、ミッション系だったか?
「うるさいんだよ黙れっ…」
小柄な相手の脳天にかぶりつくように怒鳴りつけた時、掌を少し閉じ、朝顔の花のような形にした女子高生の右手が、日本舞踊の所作みたいに男の眼前の空間を撫でた。
大きめのひなあられを噛みつぶした時に似た「かしっ」という乾いた音は、微かすぎて彼には聞こえなかったかもしれない。
「…!?」
ウッディ系の香水に少し獣くささを加えたような芳香が、男の鼻腔に届いていた。
数秒間の後。
勃起していた。
迸るような欲情が、彼の股間から脊椎を通って、龍がうねるように脳まで駆け昇ってきた。下腹部周辺が蒸気機関みたいに熱く感じる。脳の一部が、理性が、とろりと溶けだして背骨を滴り落ち、下腹部の炎に脂のようにくべられていく気がした。
「だいじょうぶです?」
女子高生が上目遣いで訊いてきた。声と目つきが、男の脳内を甘く摩る。女が前髪を少しかき上げ、隠れていた額が覗いた。ただのガキのおでこに、まるで胸をはだけて見せられたような興奮を感じ、欲情が増幅する。おれはどうしちまったんだ。早く立ち去るんだ。でも目が、この女の額に張りついて動かせない。
「ぬうっ…」と唸った男は、白黒映画のフランケンシュタインの怪物のように両腕を拡げ、女子高生にしがみつこうとした。少女が甲高い悲鳴を上げる。揉み合いになった。
少女の右手が男の両腕の内側から伸びた。指にスナップを効かせ、男の両目を薙ぐように弾く。続けざま、下から突き上げるように左の掌底部分が男の鼻の頭の急所にめり込んだ。痛みが脳天まで響き、涙が出てくる。
視界がぼやけた次の瞬間、右膝に激痛が走った。靴底で、膝頭をほぼ正面から踏むように蹴られたらしい。空手では「関節蹴り」と呼ばれ、流派によっては試合で禁止されている技だ。男はよろけて地面に崩れ落ちる。それにカウンターで合わせるように、少女の右肘が斜め下から顎先を撃ち抜いた。
すべてが、碁盤の線の交点に棋士がぴしりと石を打ち置くような、精確な打撃だった。
男は軽い脳震盪を起こし、正座するようにアスファルトにへたり込む。
「ちょっと、どうしたの!?」
少女の悲鳴を聞き、通りを歩いていた老夫婦が駆け寄ってきた。
「この人が突然転んだんで、心配して声かけたらいきなり抱きついてきたんです! 突きとばしたらなんか座り込んじゃって…」
「なんてやつだ、真っ昼間に」
「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だからね」
「嫌だ! 怖いです!」
「ちょっと待って、今、警察を…」
「嫌です、恥ずかしいし怖いです!」
少女は、老女の腕を振りきって駆け出す。
痛みと、まだ熾火のように残る謎の性衝動に混乱したまま、後方についた両手で上半身を支え、男は地面に座っていた。
「おい! とにかく警察は呼ぶぞ」
老人が、怒りも露わに男の肩を押さえつけながら言った。
このおせっかい爺いは、おれがあのガキにボコられるところを見てなかったのか。通行人からはたまたま死角になってのたかもな…。それに先に手を出したのはおれだから…。
気づくと、道に落ちた彼のスマホがねじれて折れ曲がっていた。画面も蜘蛛の巣のようにひび割れている。揉み合ってる時、あのガキがたまたま踏みつけたのか。踏んだり蹴ったりだ。
「逃げ出すのも無理ないわよ。怖かったろうね…」
老女は、心から気の毒そうに女子高生が走り去った方角を見やった…。
老女は知らなかったが、気の毒な女子高生は角を曲がった途端、スラックスのポケットから消毒液のミニボトルを取り出し、両手の、男の顔に触れた部分を中心に入念に塗り込んだ。そしてスキップを始めた。
しかしスキップはすぐに止めた。Apple Watchを見て、再従兄弟との待ち合わせに遅刻しそうなことに気づいたのである。
渋谷の、いつものカラオケBOX前に午後4時半の約束だ。もう30分を切っている。
(本家だからって…いや本家だからこそ、分派を待たせたらダメだよ!)
特例有限会社「ニーヴ香業」社長家の一人娘にして、麝汞流本家次代統主・丹生 藍は、山の手線に乗るため小走りになって代々木駅に向かった。
〈続きます〉




