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ジャム! 〜乙女わざ「北統麝汞流」始末記〜  作者: 遠 泳


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第六撃「高野豆腐」④

 いちばん先にハンバーグを食べ終わったのは鯉子だった。皿に残ったデミグラスソースも、ミモザサラダのレタスできれいにぬぐって口に運んでいる。「()せの大食い」という言葉がぴったり当てはまる妹は「ほんのもうちょっとなんか食べたい」と、くまのプーさんみたいなことを言ってキッチンへ行った。続いて由貴子も空いた食器を持って席を立つと、食卓には父親と長女が残された。

 乾燥した、透明な沈黙が流れる。鮎はハンバーグと付け合わせのマカロニを、ごはんと一緒に黙々と平らげた。ハンバーグはもちろんのこと、穴の中までデミグラスソースにまみれたマカロニが素敵に美味しい。

 それにしてもさっきのは上手な嘘ではなかった。薄い幼なじみでしかない男の子と再会そこそこに二人きりで会う、まして一人で家に行ったなんてどう考えても不自然だ。だが薄味の高野豆腐が、その辺をうやむやにしてくれたらしい。

 完食した鮎が胸の前で両手を合わせ、小さい声で「ごちそうさま」と言うと、明がグラスを傾けつつ「…どうなんだ、もう慣れたか」と訊いてきた。

 心の中でため息をつく。「思春期の娘とのコミュニケーションの必要性」に苦慮する男親の背中を、赤ワインが押したのだろう。視線は、長女の顔から微妙に()らしたままだ。あと少しだけ酔いが回るのが遅ければ、席を立てていたのに。

「…何に?」

「電車での通学とか、高校とか」

「慣れるも何も…まあ、普通に」

「そう。ならよかったよ」

 父はグラスをぐいっと傾けてワインを飲み干し、言った。

「電車ん中でもし、ち…おかしな目に()ったりしたらすぐに言いなさい」

「………。わかった」

 「痴漢」と口にしないギリギリのデリカシーはあったようだ。でも食卓で、娘に直球で言いかけたってだけで十分に最低ゾーンである。それに酒を飲みつつ、ついでな感じで訊いてくるということは、要するに「遭ってない」と思っているのだ。

 ありのままのことを言ったなら父は、母も、どんな顔をするんだろうーー。

 次の瞬間、長女の表情が急に強張ったのを父は気づいただろうか。鮎は反射的にてのひらで鼻と口を覆っていた。

 深呼吸をしてみる。……大丈夫だ。

 似ているが感じ方が違っていた。これは、普通の。

「甘じょっぱいのできちまったぜー」

 鯉子の手が、ヤマザキ春のパン祭りでもらった白皿を鮎の顔の前に差し出した。昨日の残りの、ハム&チーズの冷凍ピザ。その上から、蜂蜜がたっぷりとかけられている。(うす)金色の滑らかな液体は、焦げ目のついたへりまでピザを濡らし、皿の上にしたたっていた。

「……」

(あね)もちょっと食べない?」

「要らない…」

「え? なんか怒ってる」

「…怒ってない!」

 鮎は食卓から立ち上がった。食器をキッチンのシンクに置き、自分の部屋に入ってドアを後ろ手で乱暴に閉める。ドアに寄りかかったまま、ずり下がるように両脚を前に投げ出し、フローリングの上のクッションに尻餅を突く形で座り込んだ。

 頭の中で、ふざけやがってと叫んでいる。妹にではない。

 金髪男が待ち伏せしている気がして、好きだったあの公園には行けなくなった。混み合う電車で立っていると、蜘蛛(くも)()いまわるような痴漢の手の感触がフラッシュバックして体が硬くなる。学校でも、“におい”を感じたわけでなくとも男子の…いや男性教師の視線すら、たぶん必要以上に警戒してしまっている。

 パンケーキを食べることは、もう二度とないだろう。けっこう大好きだったのだけれど。

 スウェットのハーフパンツから伸びた両脚を見た。細過ぎないし、きれいな形してると思う。昨日も体育の着替え中に、クラスメイト数人から賞賛を浴びた。「美脚っつうか、ムツアユってモテる脚だよねー。男子が見ても釘づけだよきっと」。

 両手指の爪を立て、ゆっくりと、両脚の足首から太ももまで引っかいてみる。皮膚の表面に薄白いラインができたが、飛行機雲みたいにすぐ薄れて消えた。うっすらとだけ赤い(あと)が残る。血がにじむくらい引っかかないと、みみず()れにはなってくれないみたいだ。そこまで痛くするのは嫌だ。

 脂汚れのように記憶にこびりついた言葉がある。

 2年前、中学2年生。顔と体型のことしか()められなくなってきた頃。

「なんでいっつも長いスカート履いてんの。もったいぶってんの? 短いの履けばぁ? あんた、男の目だけ気にしてれば死ぬまで()(かく)じゃない」

 文化祭でクラス展の受付係をしていた時、親しくもない3年生の女が捨て台詞のように言い残していった。隣りのクラスの男子から振られたばかりらしかった。鮎に半年おきくらいに告白をしては、断られ続けていた男子だ。アナフィラキシーショックのことは言わなかった。だって面倒くさかったから。

 ご無沙汰してます先輩。「ざまぁ」ですか先輩。勝ち確かは知らないけど、私は本当に男の気持ち悪い視線ばかり気にして生きていくことになりそうです。

 鏡は見なかったが、たぶん半笑いのような表情になっている。何もかもぐちゃぐちゃに、踏みつぶして、()りつぶしてやりたい。

 こんなマイナスの思考は振り落とさなくては。勢いをつけて立ち上がり、机の上のシガレットケースからシナモンスティックを出してぎゅっとくわえた。するとその動作で(しぼ)()されたかのように、両眼に涙がにじんできてびっくりする。

 ふいに脳裏に、あの「汞名録」に書いた銀色の「陸奥 鮎」の文字が浮かんだ。

(水銀。水銀。水銀。水銀なら何も感じない。水銀になってやる)

 自分でも意味も理屈もわからない、めちゃくちゃな考え。でも、銀色の自分の名前を思い浮かべながら頭の中でおまじないのように繰り返していると、なぜだか少し安らいだ。インフルエンザにかかって家のトイレで吐いている時、背中をさすってくれた母の手のような感触が、心にあった。


 水銀。水銀。わたしは水銀。


 これが呪文なら、防御魔法のだろうか。それとも攻撃魔法?

 そして鮎は気がついた。

 ぱらぱら見ただけだったが「汞名録」に北森鏡太郎という文字はなかった気がする。イレギュラーな、()()()の伝承者だからか。無理に跡継ぎにさせておいて、そんな透明人間みたいな扱いって…。

 鏡太郎は、入門式をやったのだろうか。

 9歳の男の子は祖母に頬を張られ、そして張り返さなければならなかったのか。それは凄く理不尽で、嫌な思い出として心に刻まれてしまったのではーー。


 おれがやりたくないんで。()()()だ。


 とにかく明日は、学校帰りに文房具屋に寄ろう。美琴に教えてもらった、荻窪の教会通りに昔からある店がいい。吉祥寺だと、鉛筆削り向きのナイフなんて今どき売ってないかもしれないから。


〈第六撃「高野豆腐」/おわり〉

第六話までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございます。

お読みくださっている方がいると思うだけで、少し元気になっています。

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