拾弐:越鳥南枝に巣くい、胡馬北風に嘶く
「ここっすねー……」
裕翔はスマホのマップを見ながら、とある一軒家の前で足を止めた。表札には“入野”と書いてある。
「何、緊張してるんすか? さっきから口数少ないですけど」
後ろを振り返り、声を掛ける。
「僕、変じゃない? 時代遅れっぽくない?」
七冶は珍しくオドオドとしながら自分の顔を指差す。
「大丈夫っすよ。凛子も言ってたっしょ?」
にっこりと笑って親指を立てた。何度見ても、苦み走った……とまでは歳は行っていないがいい男である。さすが、うちのクリニックで黄色い歓声を総受けしているだけはある、と裕翔は満足げに観察した。
「俺らは本田カオルと裕翔。兄弟って設定っすからね」
裕翔は道中何度も確認した事項を、最後にもう一度偽造名刺とともにチェックした。本田薫が用意してくれたものである。
七冶は何度も頷いたのを確認し、裕翔はインターホンを鳴らした。
「暑い中、わざわざありがとうねぇ」
育ちの良さそうな上品なおばあさんが招き入れてくれた。この人だ、裕翔は一目で娘の千花であるとわかった。
中は意外にも部屋が多く、二人は客間に通される。
「外は熱かったじゃろう? ゆっくりしていきなっせ」
茶汲みしたり、座布団を出したり、エアコンを付けたりとくるくると動き回りながら、二人をもてなす。やがて一通りそれもおわると、ちょこんと台を挟んで真正面に座った。
赤いリップが小さな唇によく映え、目元を彩る淡い紫色のシャドウは上品で年相応の美しさを引き出している。さらに髪の毛はきれいに結われ、アイシャドウの色と同じ系統の和服とマッチしている。
(凛子よりも数倍色気があるじゃねーか)
しかし、彼女をまじまじと見て、裕翔はしまった! と思った。
あまりにも七冶と似ているのだ。笑った時の目の細め方、堀の深い目元や鼻筋、鼻翼の狭い可愛らしい小鼻、表情を作るときの口角の上げ方――。
思わず七冶を盗み見ると、彼は緊張のあまり見たこともないような仏頂面をしている。
(やっべー、万事休すってやつ)
エアコンが効いているのにもかかわらず、裕翔の背中に冷たい汗が流れたのだった。
☆
一方そのころ、凛子たちは広島からほど近い廿日市に来ていた。凛子は木陰でスマホを片手に、鹿に襲われている真人の姿に向かってシャッターを切る。
「シャツ、食べられてますよ」
凛子が真人の背後を指さす。鹿が咀嚼したせいで裾が涎でびっちゃりと湿っていた。
「汚え! リンみたいな鹿だな」
真人が裾を確認すると咆えるように言った。続いて、小鹿の頭を小突いてしっしっと追い払う。そんな彼を、周囲の人たちが見つめながら通り過ぎていくのがここから伺える。
(ひどい悪口!! しかも動物虐待、めっちゃ見られてるし!)
凛子は唐突に、七冶が家にいた時頃、真人が目立って散歩が恥ずかしいと言っていた話を思い出した。どんな感じで二人で散歩していたんだろう。考えると笑えて来るな、と凛子は思った。
そして、七冶との淡い日常を思い出しても、ちっともマイナスな感情に陥らなくなったのを感じていた。
「また汚えモンぬすくりつけられた、これで過去二回目だ」
悪態をつきながら真人がこちらに向かってくる。語気に反して表情は明るい。
「ちょっとー! からかわないでくださいよ」
真人の服をウェットティッシュで拭きながら、あのときの醜態を思い出して赤らめた顔をごまかす。
「で、さっき何ニヤけてたんだ?」
(げっ! あの超絶間抜けっ面、見られてたんだ)
さらに真っ赤に火照り動揺する凛子をよそに、真人は彼女の顔ををまじまじと覗き込んで来る。
「てめえ、またあいつのこと考えてやがったな!?」
「ご、誤解ですよ! 七冶さんと真人さんのお散歩ってどんな感じだったのかなーって、想像してたらなんか面白くって――」
「馬鹿が! やっぱ、考えてんじゃねーか!」
「いっででで……」
意地の悪い笑みを浮かべて、いつものように真人が凛子の頬をつまみ上げた。
(七冶さんといえば……)
凛子はそこで「あ!!」と大きな声を出した。
「忘れてた!」
凛子は慌ててスマホを取り出すと、兄に連絡しようとLINEのアプリを開いた。だが、そこでバシッとスマホを横から奪い取られる。
「これは没収だ」
真人が凛子のスマホを片手に高く掲げると、いつものようににやにやと笑った。背伸びして手を伸ばすも、どう考えても奪い返せない。凛子には、いたずら気な表情の彼が邪慳な鬼に見えて仕方なかった。
「言い忘れたことあって、にーちゃんに連絡しようと思ってただけなのにー!」
何とも無慈悲な申し出に、凛子は心の中でさめざめと泣いた。
「俺と過ごす時間よりも大切なことなのかよ?」
片眉を吊り上げて真人が凄む。
(それは……どうかな?)
凛子は、血気盛んな態度に気圧され、首を傾げた。
「娘さんに会うのに、七冶さん顔ガン出ししてたらまずくないですか? 当時の七冶さんの写真とかもしかしたら残ってるかもだし」
「はっ、面白れえじゃねーか。あの透かした面、どうなるかな」
「……それも、そうですね……はははっ」
どんだけ嫌いなんだ、と愛想笑いを浮かべた。
だが、真人がそう言って笑うもんだから、凛子も何だか大したことではないような気がしてきた。
(まあ、七冶さんならうまくやってのけそうではあるよね)
「じゃ、うちらも満喫しますか!」
凛子はそう言うと、真人の左腕にくるっと絡みつく。
『男なんてみーんな、空気悪くなったら、とりあえず腕か指絡ませとけばオーケーよ!』
いつかのメイのアドバイスを思い出す。
しかし、現実はなかなかに恥ずかしいものだ。凛子は顔を見上げて真人と目を合わせると、照れ臭そうにはにかむのだった。
☆
「――そんなこんなじゃけえ、戦争終わってからは母の実家の田畑全部地上げされてしもて、大変やったんですよ」
(そうか、美代さんの実家は地主さんだったんだっけ)
裕翔はチラと手元のメモを見て、予備知識の確認を行う。
「でもねえ、母は強かった。私を産んでから泣いたのは一度だけ。私の父がお骨になって帰ってきた時だけですって。当時はね、遺体なんて見つかれば奇跡ていう時代ですけ、うちんちも例に漏れず――」
そういうと、千花は戸棚から綺麗な赤い箱を取り出した。その雅な外箱をパカリと開くと、なんと、中から形のきれいな丸石が出てくるではないか。
「私の父はこれ、石になって戻ってきよるんです」
そう言ってそこら辺の河原にもコロコロ落ちてそうな石を、裕翔たちに見せた。横で七冶が息をのむ音が聞こえてきそうだった。
「そ、それで……美代さん、お母様はなんと?」
動揺を隠せないと言った表情をしている。裕翔ですらそうだ。心中を察すと心が痛い。しかし、先ほどからこの軍人は妻の話ばかり振るのでしばしば裕翔は、不自然に思われないか? と心配した。
しかし千花は、うふふ、と笑って答えた。
「納得しますかいな。母はその夜だけは泣いたそうですけんど……。私にはお父さんはどこかで生きておられる、とよく話しておりましたよ。死体が見つかるまでは信じん! って命日のたんびに言うもんですからね――」
千花はまた、ふふっと上品に笑った。
「私も、どこかで生きとったんじゃあなかろうかって思っとりますよ。というのも、父の参加したレイテ沖海戦はたくさんの死傷者を出しとりますけどね、だーれも父が死んだ瞬間をみとらんとですよ。突然消えたって。母は甲板から落ちて、面目なく日本に帰るに帰れんくなっとるんじゃなかろうかって心配しとりました」
裕翔は、この七冶を想う母娘の気持ちに胸が締め付けられる気がした。
ふと隣に目をやると膝頭をギュッと掴んでいる七冶の手の甲が真っ白になっている。
先ほどから、前のめりで矢継ぎ早に質問を飛ばしていた七冶が黙りこくってしまったのを感じとり、裕翔は居たたまれなくなる。「案外すぐ近くで見守っているかもしれませんね」とポツリ呟く。
「そうねえ、なんだか不思議。家族の話をたくさんしちゃったもんやから、父に会ってみたくなっちゃったわ。過酷な時代やったけど、今の主人とも恋愛結婚して子供も孫もたくさんできて、幸せなのよ。報告したいわあ……」
千花が遠い目をして憂う。
一方で七冶はなんと、さめざめと泣いているではないか。
そして、その姿に動揺した裕翔は思わず「な、七冶さん!」と忍び声を上げた。と、同時に、はっとして口を押える。不自然な動揺が空気を伝播していく。
千花が首を傾げて何かを言いかけるのが見えた。しかし、それを途中で遮るように、裕翔は「あ!」と叫んだ。
「し、新幹線の時間がヤバい! 兄貴! !」
“兄貴”なんて今までの人生で発したことのない言葉を口にして、背筋がむず痒くなるのを感じる。それを堪えて、挨拶もそこそこに手土産を渡すと、七冶を抱えて入野家をまるで嵐のように部屋を出る。
「またご連絡させていただきます」
立ち去る間際に裕翔は頭を下げた。まるでロボットのように抑揚のない自分の声にびっくりする。
「ええ、また今度はゆっくりお話ししましょう!!」
千花が声を張り上げるのが聞こえた。「……絶対!」と、付け加えるのが聞こえた気がしたが、裕翔の心情はそれどころではなく、入野家を後にしたのだった。
☆
轟轟とした嵐のような二人が立ち去ってしばらくすると、千花は急いで自室のパソコンを開いた。遠方の孫たちとコンタクトを取るために使っているものだ。
『本田カオル』と『本田裕翔』について検索を掛けるがヒットなし。
千花は一瞬頭を抱えたが、何かを思い出したかのようにスクッと立ち上がると、納戸に走って向かう。一心不乱に納戸の荷物を掘り起こし、奥へ奥へと手を伸ばす。
「あった……」
思わず声を出すと、古びたアルミ製の箱を引き摺り出した。母親の遺品、母だけが知っている思い出の品々、それが詰まった箱である。
やっぱりここにあった、と千花は中を漁ると写真を取り出した。
その写真に写った母美代の隣に立つ白い軍服姿の男の顔を見つめると、思わず息をのんだ。同時に、胸が痛くなるほど高鳴った。写真を持つ手が震え、じっとりと汗がにじむ。
裏側を捲ると『一九三四年 京極七冶大尉』と記してある。
この写真の男のかしこまった表情が、あまりにも先ほどの緊張した面持ちと重なって見え、千花は笑ってしまう。
「ただいま」
主人が帰って来て、現実に引き戻される。
彼は廊下が荷物塗れになっているのを認めると、「おお……」と、声を上げた。
「整理整頓でもしてるのかい」
「ええ、ちょっとね」
「それにしても、えらく嬉しそうだが、何かあった?」
「うふふ……。そうなの! さっき、とっても不思議なことがあってね――」




