第9話 知らない顔
夜風が冷たかった。
ビルを出ても、頭の熱だけが消えない。
私はスマホを握ったまま歩く。
画面には、まだあのメッセージ。
『まだ戻るつもりはあるか』
短い一文。
でも——
昔を知る人間なら、それだけで十分だった。
私は小さく息を吐く。
「戻る気はないって言ったのに」
独り言みたいに呟く。
その瞬間——
「本当に?」
背後から声がした。
私は止まる。
ゆっくり振り返る。
そして——
数秒、言葉を失った。
「……久しぶり」
街灯の下に立っていたのは、一人の男だった。
黒いコート。
少し疲れた顔。
でも、その目だけは変わっていない。
鋭くて、静かな目。
昔と同じ。
「なんでここにいるの」
自然に声が低くなる。
男は小さく笑った。
「連絡無視するからだろ」
そう言って近づいてくる。
逃げられない距離。
私は視線を逸らさない。
「用件は?」
男は少し黙った。
その沈黙が妙に嫌だった。
そして——
「お前、動いたな」
低い声。
私は何も答えない。
でも、その沈黙だけで十分だった。
男が小さく息を吐く。
「やっぱりか」
嫌な予感が、胸の奥を撫でる。
「……何の話?」
聞きながら、指先に力が入る。
男は私を見たまま言った。
「向こうも気づき始めてる」
空気が変わる。
私は眉をひそめる。
「向こう?」
男はすぐには答えない。
その数秒が、やけに長かった。
そして——
「お前、本当に変わってないな」
静かな声。
私は目を細める。
「何が」
男は少しだけ笑った。
でも、その笑いに余裕はなかった。
「一回戻ったら、絶対止まらないところ」
その言葉に——
昔の記憶が一瞬だけ蘇る。
終電のない夜。
閉じない資料。
誰も口を開けない会議室。
そして——
全部を切り捨てるみたいに、判断していた自分。
私は無意識に視線を落としていた。
男がそれを見る。
「やっぱり覚えてるか」
「忘れるわけないでしょ」
思ったより低い声が出た。
空気が少し張る。
数秒、誰も話さない。
遠くで車の音だけが流れていく。
「……なんで来たの」
ようやく聞く。
男は少し困ったように笑った。
「確認」
「何を」
男はまっすぐ私を見た。
「お前が、本当に戻る気なのか」
私はすぐには答えなかった。
でも——
沈黙が答えになっていた。
男が小さく舌打ちする。
「最悪だ」
その言葉に、少しだけ口元が動く。
「ひどい言い方」
「実際そうだろ」
男は真顔のまま言う。
「お前、自分で思ってる以上に目立つんだよ」
私は眉をひそめた。
「ただ仕事しただけ」
「その“ただ”が問題なんだ」
即座に返される。
空気が変わる。
男は少しだけ声を落とした。
「今日の会議、もう話が回ってる」
心臓が、小さく嫌な音を立てた。
「……早すぎる」
思わず漏れる。
男は笑わなかった。
「お前が思ってるより、みんな見てる」
その言葉に——
初めて、現実感が湧いた。
私はもう、“ただの主婦”としては見られていない。
男が続ける。
「だから聞いてる」
真っ直ぐな目。
「本当に戻るのか」
夜風が吹く。
髪が揺れる。
私は少しだけ目を閉じた。
——戻る気なんて、なかった。
本当は。
静かに暮らすつもりだった。
もう関わらないつもりだった。
でも——
今日、久しぶりに感じてしまった。
あの感覚を。
全部が噛み合っていく感覚。
自分が前に出た瞬間、空気が変わる感覚。
私はゆっくり目を開ける。
そして——
「もう遅い」
小さく言った。
男の表情が止まる。
「私は、もう戻っちゃったから」
その瞬間。
男が深く息を吐いた。
諦めたみたいに。
「……だと思った」
そう言った直後——
私のスマホが震えた。
知らない番号。
でも。
その番号を見た瞬間——
胸の奥がざわついた。
男も画面を見る。
そして、顔色が変わる。
「……出るな」
低い声。
でも。
私は画面から目を離せなかった。
数秒。
指が止まる。
そして——
私は、通話ボタンを押した。




