第8話 名前を出さない理由
ドアを開けた瞬間——
視線が、刺さった。
「……本当に来たのか」
誰かが小さく呟く。
歓迎ではない。
疑いと、わずかな軽視。
私は気にせず、まっすぐ中に入った。
テーブルの上には、散らかった資料。
まとまっていない議論。
——遅い。
「状況は?」
椅子にも座らずに聞く。
「今、最終調整中で——」
「どこが?」
即座に返す。
相手の言葉が止まる。
私は一枚だけ資料を手に取る。
目を通すのに、数秒もかからない。
そして——
「これ、通す気?」
静かに言った。
空気が変わる。
「問題あるか?」
年配の男が、わざと強めに言う。
試すような目。
——来た。
私はゆっくりと顔を上げた。
「あるよ」
一言。
「しかも、致命的に」
その場が、静まり返る。
「言ってみろ」
圧をかける声。
でも。
私は一歩も引かなかった。
「まず——」
資料を指で軽く叩く。
「この数字、誰が出した?」
沈黙。
「……私です」
若い男が手を挙げる。
私は一瞬だけその人を見る。
そして——
「嘘だね」
迷いなく言った。
「……は?」
空気が揺れる。
「根拠、ありますか?」
強めの声。
当然の反応。
でも。
私はすぐに別のページをめくる。
「ここ」
数字を指す。
「この前提条件、三ヶ月前のまま」
一拍。
「今の市場、見てる?」
誰も答えない。
「見てないよね」
静かに言い切る。
その瞬間——
完全に流れが変わった。
さっきまでの“疑い”が、“警戒”に変わる。
「……じゃあどうする」
誰かが聞く。
私は資料を閉じた。
「全部やり直し」
再び言う。
今度は、さっきよりも重い。
「無茶だろ」
別の声。
「時間がない」
「間に合わない」
言葉が重なる。
——でも。
私は一切動じなかった。
「間に合わせるよ」
静かに言う。
「三時間で」
ざわめきが広がる。
「……できるわけない」
小さく、でもはっきりした否定。
私はその声の方を見た。
そして——
ほんの少しだけ、笑った。
「じゃあ見てて」
それだけ。
それだけで、十分だった。
私は椅子に座る。
ペンを取る。
「今から全部切る」
一行目に線を引く。
「ここ、いらない」
「ここは逆」
「これは使える」
迷いがない。
止まらない。
空気が、変わっていく。
さっきまで反論していた人たちが——
何も言えなくなる。
ただ、見ている。
時間が流れる。
誰も口を挟まない。
その場の主導権が、完全に移る。
「……なんで分かるんだ」
ぽつりと誰かが呟く。
私は手を止めないまま答える。
「経験」
短く。
でも、それ以上は言わない。
そして——
三時間後。
机の上には、別物になった資料があった。
誰も、否定できない完成度。
沈黙。
重い沈黙。
「……これなら」
誰かが小さく言う。
「通る」
別の声。
最初に反対していた男が、何も言えずに資料を見る。
私は立ち上がる。
「判断は任せる」
それだけ言う。
「待て」
年配の男が呼び止める。
私は振り返らない。
「名前を聞いてない」
その言葉に——
一瞬だけ、足を止めた。
でも、振り向かない。
「必要ないでしょ」
静かに言う。
「結果が出るなら」
ドアに手をかける。
「それで十分」
そう言って、外に出る。
廊下は静かだった。
ドアの向こうで、ざわめきが遅れて広がる。
——やっと気づいた。
私はゆっくり歩きながら、スマホを取り出す。
未読が一件。
その名前を見て——
ほんの少しだけ、表情が変わる。
画面を開く。
短い一文。
「まだ戻るつもりはあるか」
その言葉に——
指が止まった。
数秒。
そして、私は小さく息を吐く。
「……戻らないよ」
誰にも聞こえない声で呟く。
でも。
その目は、まっすぐ前を見ていた。




