第7話 境界線
玄関のドアを開けた瞬間——
空気が、昨日と違った。
「……また出かけてたのか」
低い声。
リビングの奥からだった。
私は靴を脱ぎながら、少しだけ視線を向ける。
夫は立ったまま、こちらを見ている。
昨日よりも、明らかに機嫌が悪い。
「うん、少しだけ」
短く答える。
それだけで、夫の眉がピクリと動いた。
「少し、ね」
ゆっくりと近づいてくる。
足音がやけに響く。
「最近、外出多くないか?」
問い詰めるような口調。
——来ると思ってた。
私は何も言わない。
沈黙が、逆に相手を苛立たせる。
「何してるんだよ」
一歩、距離が詰まる。
「まさか、変なことしてないよな?」
その一言で——
空気が変わった。
リビングが、妙に狭く感じる。
でも。
私は視線を逸らさなかった。
「してないよ」
静かに言う。
それだけ。
それだけなのに——
夫は不満そうに舌打ちした。
「だったらちゃんと説明しろよ」
声が少し強くなる。
「家のこともろくにやらないで、何やってるか分からないとか」
——ああ、これだ。
今まで、何度も聞いた言葉。
いつもなら。
ここで私は、小さくなっていた。
謝って、取り繕って。
でも。
今回は違う。
私はゆっくりと息を吐いた。
そして——
「それ、あなたに関係ある?」
はっきりと言った。
一瞬。
時間が止まった。
「……は?」
夫の顔が、理解できないという表情に変わる。
でも私は、続けた。
「私が何してるか」
視線をまっすぐ向ける。
「全部説明しないといけないの?」
静かな声。
でも、逃げていない。
夫が言葉を失う。
こんなこと、今までなかった。
「お前……」
何か言いかけて、止まる。
言葉が続かない。
その隙を、私は逃さなかった。
「私は、ちゃんとやってるよ」
少しだけ、声を落とす。
「家のことも、自分のことも」
一拍。
「だから、問題ないでしょ」
その一言で——
完全に流れが変わった。
夫は何も言えない。
ただ、苛立ったまま立ち尽くすだけ。
でも。
もう、さっきまでの“上から”の空気はなかった。
私は視線を外す。
それだけで、十分だった。
——越えた。
一つ、線を。
そのとき。
ポケットの中でスマホが震えた。
夫がちらっと視線を向ける。
私は気にせず、取り出した。
画面を確認する。
一瞬だけ、間があった。
そして、そのまま通話ボタンを押す。
「はい」
自然に出た声。
さっきとはまるで違う、落ち着いた声。
「今、大丈夫ですか?」
低い声が聞こえる。
私は夫の前で、あえて視線を外さずに答えた。
「ええ、問題ありません」
短く、はっきり。
夫の表情が変わる。
わずかな違和感。
——気づき始めている。
「例の件、動きがありました」
電話の向こうの声。
私は一瞬だけ目を細める。
「そうですか」
そして——
「今から行きます」
迷いなく言った。
その言葉に、夫がはっきりと反応した。
「は? 今から?」
でも。
私はもう説明しない。
「すぐ出ます」
それだけ言って、通話を切る。
沈黙。
重い沈黙。
「……おい」
夫の声。
でも私は振り返らない。
コートを手に取る。
その動きだけで、十分だった。
「どこ行くんだよ」
少しだけ強い声。
——でも。
もう、止まらない。
「用事」
短く答える。
ドアに向かう。
「ちゃんと説明しろって言ってるだろ!」
その声が、背中にぶつかる。
でも私は止まらなかった。
ドアノブに手をかける。
そして——
ほんの少しだけ振り返る。
「その必要、ある?」
静かに言う。
その一言が——
完全に、何かを壊した。
夫は何も言えなかった。
私はそのままドアを開ける。
夜の空気が流れ込む。
冷たい。
でも、心は軽かった。
——もう戻らない。
そう、はっきり分かった。
外に出て、ドアを閉める。
静かな夜。
スマホを握り直す。
その画面に映る名前を見て——
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「……久しぶりだな」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
そして私は、歩き出した。
次に向かう場所は——
もう、“あの頃”と同じだった。




