第6話 戻らない日常
玄関のドアを開けた瞬間——
いつもの匂いがした。
夕飯の残りと、少し冷えた空気。
「……遅いな」
リビングから声が飛んできた。
私は靴を脱ぎながら、小さく「ただいま」と言う。
返事はない。
リビングに入ると、夫はソファに座ったまま、スマホを見ていた。
視線すら上げない。
「どこ行ってたんだよ」
淡々とした声。
でも、その奥にわずかな苛立ちが混じっている。
「買い物と、少し外に」
そう答えると、夫は鼻で笑った。
「ずいぶん長い買い物だな」
言い方が、いつもと同じだった。
——でも。
私は、その言葉にすぐ返さなかった。
キッチンに向かい、水を一杯だけ飲む。
静かな時間。
「……聞いてんの?」
少し強い声。
私はグラスを置いて、ようやく振り返った。
「聞いてるよ」
短く答える。
それだけで、夫は少し眉をひそめた。
「じゃあ答えろよ」
苛立ちがはっきり出る。
「最近、様子おかしいぞ」
——前なら。
ここで私は、慌てて言い訳していた。
「ごめん」とか、「ちょっと疲れてて」とか。
でも今は——
違った。
「別に」
私は静かに言った。
「普通だけど」
その一言に、空気が止まる。
夫が、初めて顔を上げた。
「……は?」
わずかな違和感。
それはきっと、私の変化に気づいたから。
でも、私は視線を外さない。
「普通にしてるだけ」
それ以上、何も言わない。
沈黙。
少しだけ重い沈黙。
「……なんだよ、それ」
夫が苛立ったように立ち上がる。
「こっちは聞いてんだぞ?」
声が少し大きくなる。
——でも。
私は動かなかった。
ただ、静かに見ていた。
「何?」
一言だけ返す。
その声は、自分でも驚くくらい冷静だった。
夫が、一瞬言葉に詰まる。
今までなら、絶対になかった反応。
「……いや」
言葉を探すように視線を逸らす。
「そういう態度、やめろよ」
弱い。
さっきまでの勢いが、明らかに落ちている。
私は小さく息を吐いた。
「態度?」
少しだけ首をかしげる。
「今までと同じだと思うけど」
静かに言う。
でも、その言葉には——
わずかな距離があった。
「……」
夫は何も言えない。
ただ、不満そうに顔をしかめるだけ。
それ以上、続かなかった。
会話が、終わる。
——こんなこと、初めてだった。
私はそのままキッチンに戻る。
背中に視線を感じる。
でも、振り返らない。
冷蔵庫を開けながら、ふと思う。
——もう、戻らない。
前みたいには。
心のどこかが、静かに決まっていた。
リビングの方で、小さく舌打ちが聞こえる。
でも、それももう気にならない。
私はドアを閉めて、ゆっくりと息を吐いた。
そして——
ポケットの中のスマホが、わずかに震えた。
画面を見る。
そこに表示された名前に、指が止まる。
——仕事の連絡。
一瞬だけ迷って、でもすぐにタップする。
「はい」
声が自然に出た。
さっきまでとは違う声。
落ち着いていて、迷いがない。
「今からでも動けますか?」
低い声が聞こえる。
私は少しだけ目を閉じて——
すぐに開いた。
「ええ、大丈夫です」
短く答える。
「行きます」
通話を切る。
静かな部屋。
私はコートを手に取った。
——もう一度、外に出る。
ドアノブに手をかける。
その瞬間。
「……また出かけるのか?」
後ろから声。
私は振り返らなかった。
「うん」
それだけ言って、ドアを開ける。
「すぐ戻るから」
嘘だった。
でも、問題ない。
私はそのまま外に出た。
夜の空気が、少し冷たい。
でも、不思議と嫌じゃない。
——やっと、動き出した。
そう思った。




